天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

「仏教は死ねばみんな仏様になる」の小沢幹事長は訪問先真言宗管長・松長有慶氏の著書を熟読すべし

2009-11-24 23:18:06 | 日記
今日は、民主党小沢一郎幹事長の宗教論・死生観についての私的所感(その3)です。今月10日、和歌山県高野町の高野山・真言宗金剛峯寺管長、松長有慶さんを訪問した時、語った発言について、小沢幹事長は16日記者会見で『私は文明論と宗教論を言ったんです。君は何宗だ?』『仏教というのは、どういう哲学だっつうの。・・・ね。仏教っつうのは、死ねばみんな仏様になるんだよ』と釈明をしています。
小沢幹事長は、訪問先の真言宗の宗教的教義を知らないで、このような「死ねばみんな仏様になる」浄土系仏教のみが日本の宗教のすべてと、独善的で短絡な見解を釈明会見で述べています。これは、訪問先であった宗教法人に、とても失礼な発言です。小沢幹事長は真言宗の管長・松長有慶氏の著書『密教・コスモスとマンダラ』(1985年日本放送出版協会刊)を熟読して、真言密教を正しく理解してほしいと、私は思います。私は以下に、その著書から小沢幹事長の発言に関係する箇所を抜粋します。
『仏になる、すなわち「成仏」するという言葉は、もともと仏教の用語であるが、現在の日本語では、死ぬことを意味することが多い。人間が死ねば成仏するのだと、一般に考えられている。人間は死後に極楽浄土に行き、そこで安らかな生活を送る。それが仏になることなのだと思っている人が、ほとんどなのではないだろうか。仏教とは仏の説いた教えであるとともに、仏に成る教えともいわれる。・・・仏とは、真理に目覚めた者の意味であるが、その身体をどのようにみるかという点で、仏教の中で、いろいろな見解に分かれた。・・・密教は歴史上の釈尊を教主とはせず、宇宙の真理という非人格を教主とした。みずから耳をすませて大宇宙の声を聞き、目をこらして大宇宙の真実の姿を見よ、ということである。・・・密教によれば、仏になるためにそれほどの長い期間は必要でなく、この世に生きているうちに悟ることが可能だという。・・・空海は仏も人間も、それぞれの本体と、その表現、その作用、いずれにおいてもお互いに融合し、一体化しているから、現身に成仏が可能だと力説している。』
このように、真言宗は浄土系宗教とは根本的に違う宗教観があります。明治以降の日本の近代化の中で、このような教義の密教は、呪術的、閉鎖的、前近代的な宗教と見なされたこともありました。しかし、密教は本来持っている包容力に富む教義により、民間信仰を吸収し、日本人の心に広く定着した宗教です。そして、文学・美術・芸能に大きな影響を与えています。
逆に、小沢幹事長の「死ねばみんな仏様になる」の宗教観は、江戸時代に「宗門改め」等の幕府が行なった宗教政策により、日本仏教界が陥った本来の宗教心を喪失した形骸化した「葬式仏教」そのものです。本来の仏教は、そんな安易な死生観ではなく、人間が人生で必死に、より良く生きるための教えです。
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悪行親衛隊の劇場関係者告発説の誤報流布は「コンスタンティヌスの寄進状」と同質意図の卑劣な行為

2009-11-23 23:10:37 | 日記
今日の二回目の日記は、中世ヨーロッパのキリスト教会が行なった「コンスタンティヌスの寄進状」と同じように、その世界の権威を悪用して、自分達の悪行を正当化する悪行親衛隊のネット掲示板に誤報流布を行なう卑劣な行為に対する、私の強い抗議です。以下に、「他人の不幸が蜜より甘い」意識の「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」の独善的応援教義を信奉する親衛隊がネット掲示板に投稿した虚偽の書き込みを転載します。
・1.『このおっさんの場合、劇場従業員を敵に回したのが大きい。』
・2.『劇場従業員が会社へチクった 』
・3.『プラス、劇場内での迷惑行為で、他のお客さんからも目を付けられてる』
・4.『おじさんの場合は客同士の観劇スタイルの相違ではなく、劇場社長や踊り子から注意されるところまで行ってたのが重要な点。タリは劇場ルールで規制できるが(例.東洋)、おじさんはルール無視。客が注意すると「自分は特別」として開き直り。劇場が注意すると「悪質応援客による自分への妨害行為」として無視。会社に告発状を送られても仕方ないんじゃないかね。』
・5.『オジサンの下手くそな「応援行為」諸々はその他の客にとっては迫害でありテロであった。しかも、注意されてもそれを改めない、反抗する、言い訳する、濡れ衣を着せてでも嫌いな人間を貶めようとする、と常に無責任な姿勢に終始。フツーに嘘つく人でもあったな。必然的に(通りすがりを含めた)関わる総ての人を敵に回し、対応をエスカレートさせてしまう。オジサンは他人の心具合を認知する能力に致命的に欠けており、迷惑をかけないようにしよう、何をしたら人は嫌な思いをするのか、といった配慮がまったくできない。常に自分が気持ちよくある為に行動するため多少のズルも朝飯前。爺ゆえの哀れ、認知力の衰えがもたらした悲劇と同情することも可能だが、かといって迷惑は免れ得ないのでやはり来てほしくない。』
これら投稿の内、1.2.の書き込みは劇場関係者が密告告発者であるかの如く間違った情報を、悪意を持って流布しています。この密告告発者は、自身が告白しているように劇場に来ている悪質応援客です。この投稿者は中世ヨーロッパのキリスト教会が行なった「コンスタンティヌスの寄進状」と同じように、その世界の絶対的運営を図る劇場関係者の権威を悪用して、劇場関係者も密告告発者であるから良い事と、自分達の悪行を正当化しようとするこの世界の良識ある人々を惑わす卑劣な行為です。
3.の書き込みも、この悪行親衛隊の「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」の独善的応援教義をよく言い表している言動です。
4.の書き込みの「踊り子から注意されるところまで行ってた」との虚偽の情報も踊り子という絶対的な権威を出さなければまったく説得力がないと思い、あえて間違ったことを言い触らし、自分達の悪行を正当化しようとする、良識ある人々を惑わす卑劣な行為です。
5.の書き込みもこの悪行親衛隊の「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」の独善的応援教義をよく言い表している言動で、自分たちの悪行は正しく、迷惑をかけていて、何をしたら人は嫌な思いをするのかを判らない人間には、その人間の人権を踏み躙る行為をしても良いと、自分たちの悪行を正当化する卑劣な行為です。
どんな個人の好悪があろうとも、人間には決して、何人にも侵害されない、基本的人権があります。悪行親衛隊がいくら詭弁を弄しても、それを侵す行為は決して正当化はされません。
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欧米社会は排他的なキリスト教背景の文明の小沢幹事長は偽証文『コンスタンティヌスの寄進状』を知るべし

2009-11-23 19:20:43 | 日記
今日の日記は、前に書いた『歴史音痴小沢幹事長は「ローマ人の物語」「空海の風景」「沈黙」を熟読し、陛下のお言葉を肝に銘ずべし』の追加補足の説明と私的所感です。私は、三冊の名著を彼に熟読するように勧めました。その中で、塩野七生著『ローマ人の物語・最後の努力(下)37巻:新潮文庫』より、彼の歴史音痴がよく判る文章を抜粋して、詳しく説明します。
古代ローマ皇帝・コンスタンティヌス帝は「ミラノの勅令」により正式に認められたキリスト教会に、皇帝資産の寄贈を行ったので、キリスト教徒から「大帝」と呼ばれ賢帝と評価されています。しかし、その寄附を示す古文書には、ある不正行為があったのです。以下に、その名著から寄贈・寄付に関して、それに該当する文章を抜粋します。
『コンスタンティヌス帝のこの寄附行為が、いかに長期にわたってキリスト教関係者の間で記憶されつづけてきたがを示す、格好の証拠が存在するのだ。それは、「コンスタンティヌスの寄進状」と呼ばれ、中世時代には長くヨーロッパの王や君侯を縛ることになる証文である。なぜなら、これには、皇帝コンスタンティヌスがヨーロッパ全土をローマ法王に寄贈したことが記されてあったからだ。これを錦の御旗にかかげたカトリック教会が、王や君侯に対し、お前たちが領土と称しているのも、実際はコンスタンティヌス大帝が寄進したことでキリスト教会の所有資産になった土地であって、お前たちは教会によって単に統治を委託された存在にすぎない、ゆえに真の所有者であるキリスト教会の意に反する行動に出ようものなら、ローマ法王は、委託権をただちに取りあげる権利を有す、というわけであった。
それが、西暦1440年になって、まったくの偽作、ということが実証されたのである。・・・イタリア人のロレンツォ・ヴァッラが、一字一句と構文全体を綿密に考証した結果、これはコンスタンティヌスが生きた四世紀に書かれた文章ではなく、十世紀か十一世紀に、キリスト教会内部の誰かによって書かれたものであると喝破したのだった。これで世俗の君主たちも、中世の一千年にわたって彼らを縛ってきた拘束から解き放たれたことになる。』
このように、イタリアで発生した近世ルネサンス精神は、中世欧米社会の宗教観を根底から覆してします。小沢一郎幹事長は、自己の歴史的な知性の無さを真摯に恥じるべきです。
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コレリ大尉と娘、最後の会話「努力したんだ 君なしで生きていこうと」「傷が消えたわ」は真実の愛の証明

2009-11-22 23:52:21 | 日記
『コレリ大尉のマンドリン』を再度鑑賞した映画感想・続編その2です。イタリア軍大尉(ニコラス・ケイジ)と島の娘(ペネロペ・クルス)の敵味方の国境を超えた愛について、娘の父親医師(ジョン・ハート)が、娘にその覚悟を諭している含蓄ある言葉が、私にはとても印象的でした。その語った言葉を引用します。
『恋とは一時的に衝撃におそわれるようなものだ。地震のように揺れてやがて治まる。治まったら考えるのだ。二人の根があまりにも深く絡まっていたら、別れることはもう不可能だ。それが愛というものなんだよ。愛は胸の高まりや息苦しさ、抱き合うことじゃない。体中に這う彼のキスを夜中に想像することでもない。』
『人は自分に言い聞かせる「ああ 私は恋をしている」そういう恋が燃え尽きて、後に残るのが”愛”なのだ。それが”愛”なんって幻滅か?だが、真実だ。よく考えるのだ。お前はコレリ大尉にそのような愛を抱けるか?』
その問いに、娘ペネロペ・クルスは黙って頷いています。とても親子の情愛が溢れた感激の名シーンです。
そして、ドイツ軍のイタリア軍捕虜虐殺で九死に一生を得たニコラス・ケイジは母国イタリヤに落ち延び、ナチスドイツが降伏しギリシヤの戦争が終わりました。最後のシーンで、島を訪れたニコラス・ケイジがペネロペ・クルスと再会する時の会話はとても感動的で私は涙しました。その二人の会話を紹介します。
・(ニコラス)努力したんだ 君なしで生きていこうと
・(ペネロペ)傷が消えたわ
最後に二人は、彼女の父親が語った真実の”愛”の証明を見せてくれました。私もニコラス・ケイジのように生きたい。
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映画『コレリ大尉のマンドリン』はナチスドイツとイタリアの国民性の違いを際立てて描いた不朽の愛の名作

2009-11-22 20:12:12 | 日記
今日の日記は、私が以前『戦争の悲劇を語るイタリア・愛の映画3部作「ブーベの恋人」「ひまわり」「コレリ大尉のマンドリン」』で紹介した『コレリ大尉のマンドリン』を再度鑑賞した映画感想です。この映画は、2001年にアメリカで製作された、第二次世界大戦時、音楽を愛するイタリア軍大尉(ニコラス・ケイジ)と占領地ギリシヤ・ケファロニア島の情熱的で聡明な娘(ペネロペ・クルス)の戦争という悲劇の中で芽生えた愛の真実を描いたジョン・マッデン監督の名作です。
私は今日その映画を再度鑑賞して、占領地でお互いの母国であるナチスドイツとイタリアの国民性の違いを際たたせている二人の軍人が語り合う、とても印象深いシーンが二つありました。ここに、その会話を紹介します。
1.島を共同占領しているナチスドイツ将校と浜辺で同僚達と楽しんでいるニコラス・ケイジの初めての会話
・(将校)ハイル ヒトラー!
・(ニコラス)ハイル プッチーニ!
・(将校)降伏の話し合いよりこういう遊びが得意なのか?
・(ニコラス)イタリア人だからね 歌って 食って 愛に生きる
・(将校)君のランク・階級は?
・(ニコラス)僕の音列ランクは二全音符 それがオペラのランク 陸軍での階級は大尉だ
2.その二人がその後、夜の広場で町民と集会中、連合軍がイタリアに上陸したと聞いて、帰れるぞ!とのイタリア軍人の叫び声を聞いた時の会話
・(将校)信じられん 君らは戦争が終わることを望んでいるのか?
・(ニコラス)ドイツ人は結構なもんだ。自分を他民族より優秀だと思っている
・(将校)科学的事実だから仕方がない
・(ニコラス)科学の問題ではない 理念の問題だよ
・(将校)君の理念は?
・(ニコラス)僕は足蹴にされている人間を兄弟と思う それが僕の理念だ それを生き方としている
この映画でのナチスドイツ将校の理念は、「他人の不幸が蜜より甘い」意識の「私は世の光 私に従う者は命の光を得る」の独善的応援教義を信奉する親衛隊の理念そのものです。だから、私はその応援隊を「親衛隊」と命名したのです。
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