天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

鈴木尚之著『私説内田吐夢伝』談:一乗寺下がり松ロケハンに苦慮の内田吐夢はあそこに巨木を立てられないか

2011-06-30 21:18:03 | 日記
今日の日記は、今読んでいる鈴木尚之著『私説 内田吐夢伝』(1997年 岩波書店刊)のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
私は、6月11日付日記『読売新聞本日朝刊小堺一機氏が語った「中村錦之助から男の美学を当時の子供たちは学んだ」は彼の個人的見解』で、中村錦之助の出演映画で私が特にお気に入り作品は、1961~65年製作の『宮本武蔵』(内田吐夢監督の5部作)と述べました。
そう私が作品の嗜好を言及した手前、その映画を監督した内田吐夢をもっと良く知りたいと思い、今この著書を読んでいます。著者の鈴木尚之は、映画の脚本家で、内田吐夢監督作品『宮本武蔵』の脚本も彼と共同執筆している映画製作の裏側まで熟知している人です。
映画ファンにはとても興味深い映画人の記述の中で、私が初めて知った内田吐夢監督の映画『宮本武蔵一乗寺の決斗』(4作目:1964年製作)製作に対する強い執念を、以下にその著書から引用・掲載し、皆さんに紹介します。
『最後のクライマックス、武蔵対吉岡勢七十三人の十八分三十秒という長尺の決闘シーンは、今日、一般に黒澤明監督「七人の侍」とならんで日本映画史上のなかの白眉と語られているが、・・この決闘シーンの主人公は、視覚的にはある意味で「一乗寺下がり松」である。昭和三十八年九月下旬、ロケハンがはじまったが、すでに当時から史実としてのこる京都詩仙堂にちかい場所には、何代目かの若い松と「宮本、吉岡決闘の地」と掘りこまれた石碑が立つのみで・・利用できずあらたなロケ地を求めなければならなかった。・・でも、いくら見わたしても、撮影にふさわしい巨大な松などなかったのである。・・その時、吐夢は眼下に拡がる野の一隅を凝視し、何か想いにとらわれている様子である。・・「ねえ君たち、あそこに松の巨木を立てられないだろうか!?」スタッフらにとって、まったくおもいがけない提案であった。・・このようにまず自分の方から難題をもちかけ、解決は相手にゆだねるという姿勢が吐夢の習性であった。・・この場合も、各技術部門ごとの予算が再検討され、吐夢案が採決された。問題の一乗寺下がり松は、まず田圃のなかに掘った大きな穴にコンクリートを流しこみ、そこに三本の電柱を立て、それを軸に松の外皮をはりつけ十八メートルという巨木に仕立てられていった。』
私は、この映画に登場した一乗寺下がり松は天然の松で、ロケハンで格好の場所を見つけたと、今まで思っていました。しかし、この著書によると、人工的に造り上げた巨松だったのです。
でも、そのことを知っても、その映画の価値まで失墜することはまったくないです。ロケハンで、ベストの場所を探せなければ、逆に、そのイメージ風景を創造すれば良いと考える内田吐夢は、黒澤明と同じく日本映画を代表する巨匠だったのです。
そして、内田吐夢の映画製作に懸ける並々ならぬ執念・こだわりに、私はとても深く感動しました。
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