天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

『時代劇チャンバラへの招待』で子供内で一目置かれるはチャンバラごっこ得意な者と語る逢坂剛こそ時代劇通

2011-06-14 23:43:12 | 日記
今日の日記は、今読んでいる著書『時代劇・チャンバラへの招待』(2004年PHPエル新書版・著者:六人のチャンバリスト)で逢坂剛氏が書かれた「チャンバラ少年」のことです。添付した写真は、その著書の表紙です。
以下に、第5章・<逢坂剛のチャンバラ私史「新選組は今日も行く!」>から、逢坂剛氏が語った子供時代の「チャンバラ少年」ぶりを一部引用・掲載します。
『私は太平洋戦争のさなか、昭和十八年(1943年)に生まれた。この前後に生をうけた子供は、昭和二十年代の初め、いわゆる闇市の時代に幼時を過ごし、戦後復興とともに育った世代である。子供の娯楽といえば、映画、ラジオ、読書、野球に相撲と、相場が決まっていた。テレビが復旧するのは、昭和も三十年代の半ばになってからだから、まだ少し早い。・・仲間内で一目置かれるのは、チャンバラごっこの得意な者、野球のうまい者、相撲の強い者、だいたいこの三者に絞られる。・・当時人気があったキャラクターは、嵐寛寿郎の<鞍馬天狗>と<むっつり右門>、大河内伝次郎の<丹下左膳>、市川右太衛門の<旗本退屈男>、片岡千恵蔵の<机龍之助>、長谷川一夫の<銭形平次>、高田浩吉の<黒門町の伝七>、そして月形龍之助の<水戸黄門>、大友柳太朗の<怪傑黒頭巾>といったところだろうか。・・中村錦之助(萬屋錦之助)、東千代之介はまだ若手で、大川橋蔵や市川雷蔵、勝新太郎が出てくるのは、さらにあとのことになる。』
この逢坂剛氏の記述に、小学校入学前の自分の姿ととてもダブッテいて、強く共感しました。戦後第一世代最年長者の彼とは、その第二世代の私は、年齢が十歳も違います。しかし、彼が言及した当時の時代劇スターは皆、リアルタイムで、私もよく知っています。だから、逢坂剛氏こそは、真の「チャンバラ少年」と私は思いました。
そして、テレビが普及する前の昭和30年前半、私は父親の会社の社宅に住んでいました。だから、私はいつも同じ会社の社宅にいた子供たちと、一緒に社宅の裏山で、チャンバラごっこをして、遊んでいました。また、近くにあったタバコ屋さんから、日本映画館(東映直営館)の招待券(店前に広告ポスターを掲示していた映画館のタバコ屋さんへの謝礼)からをいただき、物心付いた頃から家族で多くの時代劇映画を鑑賞していました。
だから、1959年の東映の正月映画『忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻』で、中村錦之助が浅野内匠頭を演じていたことを、今でも私はよく覚えています。
私の6月11日付け日記『読売新聞本日朝刊小堺一機氏が語った「中村錦之助から男の美学を当時の子供たちは学んだ」は彼の個人的見解』で、読売新聞「昭和時代第一部30年代7・大衆のヒーロー(上)」の記事内、小堺一機氏(昭和31年生まれ)が日本映画全盛期(昭和30年代)を知たり顔で語ったことを私は強く批判しました。
小堺一機氏は、戦後第二世代の人間でも、テレビが台頭しテレビを見て育った世代です。私や逢坂剛氏のように、テレビがなく日が暮れるまで屋外で「チャンバラごっこ」で遊んでいた者の気持ちなどは、まったく理解できないでしょう。
だから、この読売新聞の特集記事のコメンテターには、真の「チャンバラ少年」だった逢坂剛氏が相応しかったと、今私は確信しています。
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