天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

森彰英著『行動する異端―秦豊吉と丸木砂土』初ヌード演出・秦は記者に裸ばかり話題でなく広い目でとらえて

2011-06-15 21:19:00 | 日記
今日の日記は、今読んでいる森彰英著『行動する異端―秦豊吉と丸木砂土』(1998年TBSブリタニカ刊)のことです。添付した写真は、その表紙です。
私は5月24日付日記『荒俣宏著『万博とストリップ 』で紹介した早稲田大学演劇博物館所蔵「日本最古のバタフライ」の常設展示を』で、愛蔵書・荒俣宏著『万博とストリップ 』を紹介しました。
その著書では、「1947(昭和22)年の東京新宿の帝都座で日本初のストリップショーが行なわれた」と書かれています。そのショーを演出したのが、松本白鸚(八代目松本幸四郎)の従兄弟で実業家、興行家、演出家、翻訳家、随筆家である秦豊吉(1892年1月14日~1956年7月5日)だったとも解説しています。
この親戚に現在の名門歌舞伎役者がいる秦豊吉という人物に、私はとても興味を持ち、今彼の生涯を紹介した書籍・森彰英著『行動する異端―秦豊吉と丸木砂土』を手に入れて、今自宅で読んでいます。
私は今まで、日本初のストリップショーである「帝都座の額縁ショー」を、静止した女性の裸を泰西名画のように見せた、ただそれだけの「エロ興行」だったとの自分勝手の先入観を持っていました。
しかし、それは、とても間違った偏見であったと、私は知りました。以下に、その著書から私が読んで私の不徳を恥じた記述を引用・掲載して、皆さんに紹介します。
『五十年後の今ではデパートの丸井になっている場所に、当時帝都座という映画館が建っており、その五階にある定員四百二十名の小劇場で「ヴィナスの誕生」と題したショウが幕を明けた。本邦初の本格的ヌードショウと後世に語り継がれるこの場面は、ショウ二十七景の中の一景にすぎない。・・目当てはもちろん、わずかな時間のヌードである。額縁の中でポーズをとるから、「額縁ショウ」という言葉が生まれていた。ヌードを見せる時間も少しは延長されたが、それでも三十秒程度であった。・・「すごいものを始めましたね。こりゃあ当たって当然。エログロ・ナンセンス時代の先駆けというわけですか」と芸能記者の質問に、秦は憮然とした表情で答えた。
「僕はエロを売っているわけじゃありません。君はプログラム全体を見てくれましたか。ヌードはあの名画シーン一景だけで、あとは歌や踊りやコントで構成しています。いいですか君たち、僕はね、ここで新しいステージの実験をしようとしているのですよ。パリにはタラバン、ニューヨークにはダイヤモンド・ホースショウといった、ダンスホールやキャバレーを一緒にしたようなナイトクラブがあって、そこではいつも小粋なショウが演じられている。日本のお座敷芸とは本質的に違います。東京は一面が焼け野原になったが、どことなく新しい息吹が立ち上っている新宿で、こんなショウを根づかせてみたい、という野心から始めたんです。裸のことばかり話題にしないで、もっと広い目でとらえてほしいものです。それができるのが、君たちジャーナリストでしょう」
秦は気を取り直して、自分がなぜ帝都座のショウのプロデュースを始めたか、その背景を延々と説明し始めた。学生を前にした教授のような講義口調であった。』
私は、この著書で、秦豊吉のとても詳しい人間像を知りました。そして、自分の抱いていた間違った先入観を今強く恥じています。
さらに、この興行演出家の秦豊吉がもっと長命だったら、日本の戦後ショウビジネスは大いに違ったものになったと、私は今確信しています。
コメント
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