今日の日記は、森彰英著『行動する異端―秦豊吉と丸木砂土』(1998年TBSブリタニカ刊)で書かれている実業家、興行家、演出家、翻訳家、随筆家である秦豊吉のことです。
添付した写真は、この著書冒頭に掲載されている58歳の秦豊吉です。偶然私と同じ年齢ですが、写真を拝見するともう貫禄十分な紳士風な文化人の趣があります。
この著書では、多面的な活動をした秦豊吉の真の人間像に迫ろうと、ジャーナリスト・森彰英がいろいろと努力をしています。その忘れられた人物を必死に掘り下げる真摯で熱意ある取材に、”真のジャーナリスト魂”を私は見ました。以下に、私がとても共感した記述を引用・掲載します。
『秦の死後四十余年、額縁ショウを除いて、彼の仕事はほとんど忘れ去られた。だっと数えて五十冊以上におよぶ著書、訳書も消え去った。・・おぼろ気ながら現われてきた秦豊吉の輪郭に肉づけしようと、関係者を訪ねたり、資料を探したりしているうちに、面白いことに気づいた。秦の仕事ぶりや行き方をトータルでとらえている人がきわめて稀なのである。・・どうも秦の生き方は、この道一筋を大切にする日本人の価値観の基準から逸脱しているようだ。活動の線が不連続だから、評価が下しにくいのだ。・・秦豊吉には、日本流の行動論理では律しきれないところがある。しかも身を処する方向が、正統と考えられている方向から少し外れている。仕事の仕上げ方が独創的で、少なからず異端なのだ。』
また、この著書の題名にもなっている丸木砂土は、翻訳家・随筆家の時の彼のペンネームです。勿論、これはフランスの異端作家、マルキ・ド・サドをもじったものです。そんなペンネームを選ぶのも、彼の反骨精神や異端ぶりを象徴しています。
彼は最初は、三菱合資会社に入社した商社マンでした。そんな彼の本業とは全く違う執筆活動との”二足のわらじ”を快く思わない社内の雰囲気に、彼が嫌気を持ち始めて、戦前のショービジネスに転進したのは当然な選択だったと私は思います。
この著書は第七回開高健賞の最終候補作に選ばれ、受賞はしなかったが、選考委員各氏からは好評だったそうです。私も、こんなスケールの大きい人物が日本にいたのかと強く共感した読者です。だから、私は森彰英の他の著書も探して読んでみたくなりました。
添付した写真は、この著書冒頭に掲載されている58歳の秦豊吉です。偶然私と同じ年齢ですが、写真を拝見するともう貫禄十分な紳士風な文化人の趣があります。
この著書では、多面的な活動をした秦豊吉の真の人間像に迫ろうと、ジャーナリスト・森彰英がいろいろと努力をしています。その忘れられた人物を必死に掘り下げる真摯で熱意ある取材に、”真のジャーナリスト魂”を私は見ました。以下に、私がとても共感した記述を引用・掲載します。
『秦の死後四十余年、額縁ショウを除いて、彼の仕事はほとんど忘れ去られた。だっと数えて五十冊以上におよぶ著書、訳書も消え去った。・・おぼろ気ながら現われてきた秦豊吉の輪郭に肉づけしようと、関係者を訪ねたり、資料を探したりしているうちに、面白いことに気づいた。秦の仕事ぶりや行き方をトータルでとらえている人がきわめて稀なのである。・・どうも秦の生き方は、この道一筋を大切にする日本人の価値観の基準から逸脱しているようだ。活動の線が不連続だから、評価が下しにくいのだ。・・秦豊吉には、日本流の行動論理では律しきれないところがある。しかも身を処する方向が、正統と考えられている方向から少し外れている。仕事の仕上げ方が独創的で、少なからず異端なのだ。』
また、この著書の題名にもなっている丸木砂土は、翻訳家・随筆家の時の彼のペンネームです。勿論、これはフランスの異端作家、マルキ・ド・サドをもじったものです。そんなペンネームを選ぶのも、彼の反骨精神や異端ぶりを象徴しています。
彼は最初は、三菱合資会社に入社した商社マンでした。そんな彼の本業とは全く違う執筆活動との”二足のわらじ”を快く思わない社内の雰囲気に、彼が嫌気を持ち始めて、戦前のショービジネスに転進したのは当然な選択だったと私は思います。
この著書は第七回開高健賞の最終候補作に選ばれ、受賞はしなかったが、選考委員各氏からは好評だったそうです。私も、こんなスケールの大きい人物が日本にいたのかと強く共感した読者です。だから、私は森彰英の他の著書も探して読んでみたくなりました。