今日の日記は、映画『偉大な生涯の物語』(1965年製作 ジョージ・スティーヴンス監督 マックス・フォン・シドー主演)でイエスが講話した「野のユリ」のことです。
この映画でも、イエスが新約聖書・マタイの福音書6章25・28・29節にある『空の鳥を見なさい。種蒔き気もせず、倉に納めることもしません。・・野のユリがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいません!』と弟子たちに布教の旅の途中、休息した橋の下で話しています。
このシーンを鑑賞して、イエスが語った”野のユリ”を題名した映画『野のユリ』(1963年製作 ラルフ・ネルソン監督 シドニー・ポワチエ出演)を、私はふと思い出しました。この映画『偉大な生涯の物語』にも出演したシドニー・ポワチエが主演し、修道女の教会を無償で造るある若い大工の映画だからです。
そして、この『野のユリ』は今から40年前の1971年に「日曜洋画劇場」放映した際、私が初TV鑑賞した映画です。その時の私(注:高校三年生だった)の鑑賞感想は、人間賛歌を静かに訴えたとても心温まる映画との良い印象でした。そして、信仰深いわけでもなく普通の人間が自分の職業特技を生かして、修道女を支援し一人で教会を建てようとする若い大工をシドニー・ポワチエが自然体で演じている姿を、私は今でも決して忘れません。
その1971年の「日曜洋画劇場」ではこの『野のユリ』の数作品前には、『クォ・ヴァディス』(1951年製作 マーヴィン・ルロイ監督)をTV放映していました。だから、私はこの映画『クォ・ヴァディス』を鑑賞していたので、多少はキリスト教への理解もあって、シドニー・ポワチエの無償愛の行動も、私は深く得心できたのです。
また、この映画『野のユリ』は、大上段に構えた『偉大な生涯の物語』みたいな深い宗教映画ではないです。だから、添付した写真(ゴルゴダの丘で処刑されるイエス)のような、宗教画みたいなシーンはまったく登場しないです。
でも、日常のごく普通の出来事でも、信心深き欧米人には、宗教的な倫理観から派生するものがあるものだと、まったく信仰心のない日本の高校三年生の私でも深く納得した名作宗教映画でした。
やはり、このような『野のユリ』を映画製作する欧米人と、自国の宗教人映画に拒否反応を示す日本人とでは、人種的な宗教バックボーンがまったく違っているのです。
この映画でも、イエスが新約聖書・マタイの福音書6章25・28・29節にある『空の鳥を見なさい。種蒔き気もせず、倉に納めることもしません。・・野のユリがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいません!』と弟子たちに布教の旅の途中、休息した橋の下で話しています。
このシーンを鑑賞して、イエスが語った”野のユリ”を題名した映画『野のユリ』(1963年製作 ラルフ・ネルソン監督 シドニー・ポワチエ出演)を、私はふと思い出しました。この映画『偉大な生涯の物語』にも出演したシドニー・ポワチエが主演し、修道女の教会を無償で造るある若い大工の映画だからです。
そして、この『野のユリ』は今から40年前の1971年に「日曜洋画劇場」放映した際、私が初TV鑑賞した映画です。その時の私(注:高校三年生だった)の鑑賞感想は、人間賛歌を静かに訴えたとても心温まる映画との良い印象でした。そして、信仰深いわけでもなく普通の人間が自分の職業特技を生かして、修道女を支援し一人で教会を建てようとする若い大工をシドニー・ポワチエが自然体で演じている姿を、私は今でも決して忘れません。
その1971年の「日曜洋画劇場」ではこの『野のユリ』の数作品前には、『クォ・ヴァディス』(1951年製作 マーヴィン・ルロイ監督)をTV放映していました。だから、私はこの映画『クォ・ヴァディス』を鑑賞していたので、多少はキリスト教への理解もあって、シドニー・ポワチエの無償愛の行動も、私は深く得心できたのです。
また、この映画『野のユリ』は、大上段に構えた『偉大な生涯の物語』みたいな深い宗教映画ではないです。だから、添付した写真(ゴルゴダの丘で処刑されるイエス)のような、宗教画みたいなシーンはまったく登場しないです。
でも、日常のごく普通の出来事でも、信心深き欧米人には、宗教的な倫理観から派生するものがあるものだと、まったく信仰心のない日本の高校三年生の私でも深く納得した名作宗教映画でした。
やはり、このような『野のユリ』を映画製作する欧米人と、自国の宗教人映画に拒否反応を示す日本人とでは、人種的な宗教バックボーンがまったく違っているのです。