1010 Radio

ラジオから色んな情報が発信されるように、車いすの視点から情報や思いを発信。

アウシュヴィッツ収容所解放65周年を前に

2010-01-20 | ラジオ
ポーランドのカチンスキ大統領はロシアのメドヴェージェフ大統領を、第二次世界大戦中、ファシスト・ドイツがポーランド領内に設けたアウシュヴィッツ強制収容所の解放65周年記念式典に招待した。
世界各国の指導者達もポーランド大統領から、同様の招待状を受け取っており、すでにドイツのメルケル首相、フランスのサルコジ大統領、チェコのクラウス大統領は出席を決めている。
ロシアは今のところ式典への出席に付いて確認してはいないが、ポーランド側は1945年1月27日、収容所で生き残った人々を解放したのが当時のソ連軍であったことから、ソ連の権利継承国であるロシアの最高レベルによる代表団が出席してくれることを期待している。

ポーランド領内における強制収容所のシステムは、1940年5月にその活動を開始した。
先ずアウシュヴィッツ・ポーランドでの地名はオシフィエンチムと言うが、オシフィエンチムには政治犯や刑務所に収容し切れなかった、ポーランドの囚人たちが連れて来られた。
そして徐々に収容所は巨大化し第二次世界大戦中、最大の大量虐殺現場と姿を変えていった。
ヨーロッパの全域からソ連軍の軍人たちやユダヤ人たちが次々と運ばれ、一時10万人を超す人々がここで囚われの身となっていた。

アウシュヴィッツには死のコンベアーと言う、不吉な渾名でも呼ばれていた。
1943年ヒトラーの命令によってドイツのエンジニア達は、収容所を大量虐殺のプロセスを、報告書の中で言われるところによれば著しく改善した。
新しいタイプのガス室には2500人を一度に収容することが出来、新しい5つの火葬施設では昼夜作業が続けられ、収容所のレポートによれば一昼夜で4000人の人々を処理することが出来たということだ。

戦争期間中全体でアウシュヴィッツでは約150万人の人々が殺された。
なかには犠牲者はおよそ500万人だったとする資料もある。
このように死者の数に大きな差が出ているのは、収容所に連れて来られた多くの病人や怪我人たちは、到着後直ぐに殺されてしまい収容所の文書に登録されてないからだ。
また飢えや重労働また人体実験で亡くなった人々の数も含まれていない。

1947年、アウシュヴィッツの敷地内に記念館が造られた。
バラック小屋の中で第二次世界大戦中、収容所の中で自国民が殺された各国がそこで資料を展示した。
まさにそこでソ連軍によるアウシュヴィッツ収容解放65周年の(?)の記念式典が(?)。
ただバラック小屋の14号棟だけは(← 電波が弱くNG →)

(← 電波が弱くNG →)収容されていたエストニア、リトアニア、ラトビアの人々をナチス軍によるソ連の犠牲者という指摘に対し、博物館で展示されている地図では、これらのバルト3国はソ連の一部とは表示されていない。
またポーランドの東部も同様にソ連の一部に含まれていない。

実際のところ第二次世界大戦当時、バルト3国がソ連の構成共和国であり、ポーランドは1939年に調印されたモロトフ=リッベントロップ協定によってドイツとソ連に分割されているから、東ヨーロッパもソ連の一部であったことは紛れも無い事実だ。

しかし5年前ポーランド側はロシアに対し、ポーランドのいわゆる(?)を認め、然るべき展示の変更無しにはバラック14号棟の開館は許可できないと通告してきた。
それ以来バラック14号棟はカギが掛けられたままで、博物館を訪れる多くの人々が当惑している。
しかし現在ロシアとポーランドの間で共同委員会が作られ、全ての問題を調整しバラック14号棟を再び開くためにも積極的な努力が続けられている。

ただこの努力が1月27日の式典までに、実を結ぶかどうかに付いてはまだハッキリしていない。

(?)は電波が弱く聴き取れず

夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録

V.E.フランクル
みすず書房


このアイテムの詳細を見る

1月8日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル