マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

学んだ。

2019年01月18日 | キリスト教

「 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

                                  詩編 119篇 71節

 

万物が成長を止める冬こそ、土壌にとっては安息の時であり、

その間に来年の目覚ましい活躍のための復活の力が蓄積されるのです。

実に行き届いた神の愛の配慮ではないでしょうか。私たちはこの寒い冬の中にあっても、

なおその中に秘められた神の愛の御心を悟って、この寒い冬のためにも感謝することを学びたい。

ところで自然界に冬が来るだけではなく、私たちの人生にも冬があります。

時には花咲く順調な春もあるでしょう。あるいは額に汗して弄する勤労の夏もあるでしょう。

成功の実を楽しむ収穫の秋もあるでしょう。

しか、また日の光さえ見えない逆境の冬も何回となく巡って来ることも確かなことです。

自然界に冬を与え、草木のために配慮し、人のために最善の取り計らいをしてくださる神は逆境の中にも、

必ず恵みを備えてくださるということを学びたい。

 神の教えを学ぶために、どれだけのことが必要でしょうか?自分が心身ともに健康であれば、

神の教えなんか要らない、と言うところでしょう。だから、苦しみが必要でした。

神の教えを受け入れるのに、別に苦しむ必要はありません。

けれども、自分は苦しまなかったら、教えに聞き入ることはなかっただろう、ということです。

もし苦しみにあっていなかったら、決してキリストのところに来なかったと思います。

自分の愚かさに対してそうした悪いことが起こらなければ、

決して聖書を読みたいなど と思わなかったことでしょう。そして苦しみを経たからこそ、

私たちはへりくだることができます。

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