学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学校教育の限界

2005-09-30 | 教育
学校教育は,集団教育という性質上,
そこで行われる教育活動には
自ずから限界がある。

たとえば,以下にあげることは不可能である。

1 すべての生徒に対して,個に応じた教育を施すこと
2 すべての生徒が完全にわかる授業を展開すること
3 すべての生徒に充実感をもたせること
4 すべての生徒の行動を予見し,トラブルを事前に回避すること

これらの事柄が学校教育に期待されることが多いが,
もともと学校にはこれらを可能にする機能はない。

もしも,これらのことが可能であると標榜する学校があるとしたら,
それは,誇大広告かもしくは妄想である。


学校が可能なことは,

1 すべての生徒に対して,平等な学習機会を与えること
2 時間割を定めて授業を計画し,実施すること
3 教育的見地から諸活動を計画し,実施すること
4 トラブル発生後,可能な限り対応すること

などである。

例えて言えば,
学校は,一定のダイヤに従って,
線路のうえを走っている列車のようなものであるから,
線路のない方向へ行ったりはできないし,
乗り遅れた者をいつまでも待ったりはできないのである。

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学びの矛盾

2005-09-28 | 教育
ちょっと思いついたことである。
信憑性はない。

学習意欲が同じだとして,

シャープペンシルを使っている人と,
鉛筆を,ナイフで削って使っている人と,
どちらが効率よく勉強できるであろうか。
どちらが高いスキルを身につけることになるであろうか。

語学を学ぶときに,
すべての新出単語に注がついていて辞書を引く必要がない教科書を使う人と,
わからない単語を自分で見つけて辞書で調べながら読む人と,
どちらが効率よく勉強できるであろうか。
どちらが高いスキルを身につけることになるであろうか。

授業を受けるときに,
わかりやすく理解しやすいように整理された知識を与えてくれる授業を受ける人と,
難解でいろいろと自分で調べなおさないとわからないような授業を受ける人と,
どちらが効率よく勉強できるであろうか。
どちらが高いスキルを身につけることになるであろうか。

いずれの場合も,前者が効率よい勉強につながり,
後者が高いスキルを身につける方法となる。

学習とは,知識を身につけることであると共に,
スキルを身につけることでもある。

とくにスキルは,実社会での問題解決能力に直結しており,
それこそ〔生きる力〕に直結するものである。

ところが,スキルを身につけるために有効な方法と,
効率的に知識を身につける勉強の方法とは,
相容れない面がありそうである。

知識を比較的原始的な方法で
身につけるしかなかった時代のほうが,
問題解決能力と知識量ともに
身につけることができていたのではあるまいか。

知識を身につける洗練された方法が工夫されればされるほど,
学習者の問題解決能力が低下するということにはならないだろうか。

あくまでも単なる思いつきである。
ご叱正を乞う。

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先生の評価

2005-09-27 | 教育
先生は,ものを教える人である。

生徒や保護者が先生をプラスに評価するとき,
「いい先生」「すごい先生」「立派な先生」などの言い方がある。

以下は私の勝手なイメージである。
ご容赦願いたい。

「いい先生」という場合,
親しみやすく,子どもの気持ちに寄り添ってくれる
人格円満な先生というイメージがある。

「すごい先生」という場合,
なにか尊敬すべき優れた業績や
何か特別な手腕をもっている先生というイメージがある。

「立派な先生」という場合,
人格高潔で,
子どものために献身的に働いてくれる先生というイメージがある。

ところが,教え方の上手な先生は,
「教え方のうまい先生」としか言いようがなく,
なにか「先生」にぴったり一言であてはまる形容詞や形容動詞が
私には見当たらないのである。

もし,ぴったりくる形容詞があったら,
教えていただきたい。

ひょっとすると,
先生は,ものを教える人なのに,
ものを教える,そのことの卓越性は,
一般には,あまり評価の対象になっていないのではないか。

それよりも,教える技術以外の人格的な側面や業績などで
評価されているのではないだろうか。

ものを教えるという職業上の技術に長けていても
それだけでは評価されないとすると,
教員というのは因果なものである。

私の勝手な思い込みである。
ご容赦願いたい。

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窓を開けて換気をしましょう

2005-09-25 | 授業の雑談
最近は,冷暖房完備の学校も増えてきたせいか,
夏でも窓を開けない教室が増えてきた。

なかには,窓を開けなくても換気ができる装置を備えた贅沢な学校もある。
少々サービス過剰である。


以下は,窓を開けないと換気ができないふつうの学校の場合である。


これから冬に向かうと,ますます窓を開けることが減ってくる。
寒くなってくると,生徒は窓を開けることを嫌がる。
窓を開けないので,教室の空気が悪くなる。
教師は,「窓を開けましょう」「換気をしましょう」と呼びかける。

しかし,その呼びかけの効果は長続きしない。

そこで,長年わたる試行錯誤の結果,ついに,
実に効果的な「生徒に換気させる方法」を発見したので,
本日はその秘策を公開する。

ただし,この方法は,
教師と生徒の間に十分な信頼関係が成立していることを
確認後行うべきである。

そうでない場合は,総スカンを食う場合があるので
やめておいた方が無難である。

ともあれ,この方法は劇薬である。


生徒を前にして,おもむろに以下のように説明する。

「あなたは,1分間に何回息をはいていますか?
 数えてみてください。

 1回にどのくらいの量の空気をはいていますか?
 想像してみてください。

 この教室の容積はどのくらいですか?
 だいたいでいいから考えてください。

 この教室に何人の人がいますか?
 数えてみてください。
 
 いつからこの教室は窓を閉め切っていますか?

 ということは,あなたの今すっている空気はどんな空気?
 
 さて,人間の呼吸は,
 1回の呼吸で,吸った空気のなかの酸素を全部使ってしまうのではなく,
 そのごく一部を使っているので,
 はく息にもまだたくさん酸素は含まれています。
 だから,マウス トゥー マウスの人工呼吸をしても大丈夫なわけで,
 人がはいた息を吸っても,とりあえず呼吸はできるわけです。

 タバコを吸っている人の近くにいて,
 タバコの煙が来ていやだなと思ったことはありませんか。
 あれは,その人の吐いた煙に色とにおいがついているから
 わかりやすいのですが,
 通常,人のはいた息は,よほどその人に近寄らないと無味無臭です。
 でも,空気の流れは,タバコの煙と似たようなものでしょう。

 さて,ここまでのお話でおわかりのように
 長時間締め切った部屋にいるあなた方が,
 今吸った空気は,誰かがはいた空気です。

 前の方に座っている皆さん,
 今あなたが吸った空気は,わたしがはいた空気です。」

と,言った瞬間,生徒は,悲鳴と共に
教室のすべての窓を勢いよく開け,
それ以降,いくら寒くても窓は開けたままだった。

ちょっと,効きすぎたか。

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小学生の校内暴力

2005-09-24 | 教育
小学生の校内暴力の増加という報道を受けて,
その原因がさまざまに取り沙汰されている。

しかしその原因は複合的なものであって,
完全に究明できるものではないし,
仮に原因が特定されたとしても,
その原因を除去できるとは限らない。

ゆえに,原因の考察は重要なことであるけれども,
現実に起こっている事態の解決策として即効的に機能することはない。

とにかく原因は何にせよ,
学校であれ,一般社会であれ,
暴力は許されないし,許してはならないのである。

教育現場として直ちに考えなければならないことは,
「学校」という場において,
暴力行為が存在してはならないということの再確認と
暴力行為が発生したときの対処の方法の確立である。

暴力行為は,秩序の破壊であると同時に
他の児童への直接的な危害を与える可能性があるという意味で,
安全確保上甚大な問題があるという認識が最も重要である。

そのため,暴力行為に対しては,
第一義的には,教育的な対処では十分ではない。

学校は,一切の暴力を許さないということを内外にまず宣言し,
暴力行為については,理由の如何を問わず,
学校は一切の寛容を示さないということについて,
保護者の承諾を入学時に得ておくべきである。

そして,もしも暴力行為が発生した場合には,
学級担任の処理すべき問題の範囲を超えたと判断し,
即刻,校長の権限で,当該児童を出席停止とし,
一定期間通常登校をさせない措置をとり,
その間,当該児童の特別なケアも含めた専門的な支援教育体制が
とられることが望ましい。

このような意味で,
暴力行為に対する断固たる措置を即座に取り得る校長権限の拡大
あるいは意識改革と,
暴力行為に関する学校内外の専門的な支援体制を
教育行政が直ちに整えるということが,
最も必要なのではないだろうか。

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教室の掲示板

2005-09-23 | 教育
研修などでいろいろな学校を見学することがあるのだが,
そのときに,教室の掲示板を拝見させていただくのが
なにより勉強になる。

なるほど,こういう使い方もあったかと感心することも多い。

掲示板には,
その教室の担任の先生や子どもたちの思いが込められている。

きちんと整備されて,
見やすく工夫してレイアウトされた掲示板をみると,
担任の先生の細やかな心遣いがしのばれる。


あるインターナショナルスクール(小学校)を見学する機会があった。
教室のなかの掲示板はもちろんのこと,教室の外の廊下にある掲示板にも
びっしりと生徒の作品が掲示されている。
おまけに,教室の中に洗濯ひものようなひもが張ってあって,
そこに洗濯バサミで生徒の作品がずらりととめてある。
まさに満艦飾である。

これは,圧巻であった。躍動感あふれる掲示である。
掲示されているのは,
作品といっても,掲示するために制作された作品というより,
授業のなかでつくられたワークシートなどの成果物が多い。
子どもたちの思考の過程が手に取るようにわかる。
そして,子ども同士でそれを見合うことが
次の学習に直結するように工夫されている。

これには,ずいぶんと刺激を受けた。

ともあれ,掲示板を見ることは,
実に楽しいことでもあり,
また自分の実践を振り返る契機にもなる。

蛇足であるが,画鋲はまっすぐ刺すのではなく,少し斜めに刺すのが望ましい。
そうすれば,画鋲の針の部分と縁の部分の2点で固定することになるので,
しっかり固定でき,しかも画鋲がはずしやすい。
先輩からの教えである。

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ユニバーサル・サービスとしての義務教育

2005-09-21 | 教育
義務教育は,全国どこにいっても,
同じ水準の教育が無償で受けられるということが前提である。

その意味で,義務教育はユニバーサル・サービスである。

教育改革の流れのなかで,
公立の義務教育学校のなかに,
さまざまな特色をもった学校が設立されるようになっているが,
このことは,
義務教育というサービスのなかに
質の異なるサービスが混在することを認めることにつながる。

義務教育学校であっても,私立学校は学費を徴収する。
その根拠のひとつは,
私立学校は公立学校とは異なるサービス内容を提供しているので,
その特色あるサービス分を受益者が負担すべきだからということにある。

もしも,
ある公立学校が他の公立学校と明確に異なる特色あるサービスを
提供し(当然,経費も多くかかるであろう),
それがあいかわらず無償で提供されるとすると,

なんで,同じ公立学校に通わせているのに,
特色あるサービスを受けられる人と受けられない人がいるの?

とか,

なんで,私立学校に子女を通わせる保護者だけが受益者負担を強いられるの?

とかの疑問に対して,

説明がつかなくなると思うのだが,考えすぎだろうか??

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公立と私立の懲戒権の違い

2005-09-21 | 教育
懲戒権という面に着目して,
公立学校と私立学校の違いを考察してみたい。

義務教育段階の小学校・中学校は,
公立・私立を問わず
懲戒としての停学処分を行うことはできない。
なぜなら,児童生徒の学習権を侵害するからである。

同じ理由で,公立の小中学校は,
退学処分を行うことはできない。

ところが,私立の小中学校は,
退学処分を行うことができる。

なぜなら,私立の小中学校が退学にした児童生徒は,
直ちに,公立の小中学校が受け入れるので,
学習権の侵害が起こらないからである。

私立小中学校も義務教育を担っているのだが,
公立小中学校とは異なり,
退学という強い懲戒権を行使することが可能なので,
学校の方針に従わない者を,正当な手続きを経れば排除することができる。
この懲戒権の存在が,一種の安全弁あるいは抑止力となり,
独自の教育理念や秩序維持を可能にしている面がある。

公立小中学校は,すべての児童生徒を受け入れる義務があるので,
たとえ学校選択制が導入されたとしても,
このような私立学校との役割や制度上の違いにより,
学校の方針に従わない者がいたとしても,排除することはできない。
したがって,独自の教育理念を標榜することは困難なのである。

だからといって,
公立学校に私立学校と同様の懲戒権を与えれば,
義務教育自体の理念が失われてしまう。

懲戒権ひとつをとってみても,
このような違いがあるのであるから,
私立学校をモデルにした公立学校改革には無理があるように思われる。

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厳しい先生

2005-09-20 | 教育
よく「厳しい先生」というような言い方をするが,
「厳しい」とはどういうことを指すのであろうか。

「厳しい」という言葉は,とても守備範囲が広い言葉なので
その意味の差をそれこそ厳しく見ていく必要がある。

日本語の「厳しい」という言葉には,
英語では,strictとsevereのふたつのニュアンスが含まれている。

このうち,学校において必要とされる厳しさは,strictのほうである。
すなわち,「厳格さ」や「規律正しさ」,「逸脱を許さない厳正さ」である。

これに対して,
「こわい」,「苛酷な」,「情け容赦のない」というような
severeのもつニュアンスは,学校教育とは無縁のものでなければならない。

このふたつのニュアンスを混同すると,
とんでもない「厳しい先生」を認めてしまうことになる。

要注意!

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「女王の教室」に関して

2005-09-18 | 教育
「女王の教室」が終わった。
終わり方があざとい。

そもそも
阿久津教諭の行ってきた一連の行為は,
教育活動ではない。

児童に精神的苦痛を与える
違法な事実上の懲戒行為をちりばめた教育は,
教育ではない。

違法行為を受けながら,
教諭の心情を過剰なまでに推し量り,
結果として,
健全な批判精神を失っていく児童の姿もまた恐ろしい。

自らの違法行為を,
現実社会の写し絵として正当化していく
阿久津教諭の論理構成は極めて危険である。

よって,教育委員会が,
阿久津教諭を教室から追放するのは
極めて正当な行為である。

あくまでもドラマであるから,
真剣に教育論として論議すべき対象ではないが,
阿久津教諭のような存在が
望ましいものとして認知されるようであれば,
学校教育をめぐる環境も相当危険なところに来ていると言わざるを得ない。

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市場競争原理導入後の学校のカリカチュア

2005-09-18 | 教育
市場競争原理が完全に学校に導入されたとき,
学校はどう対応すべきかその方針について。

断っておくが,これはあくまでもパロディーである。
決して本気でお読みにならないよう,切に念願するものである。


方針その1:教育活動そのものより広報活動にお金をかけるべし。

ポスター・パンフレットは,
モデルを使い,専門のデザイナーにつくらせるべし。
モデルを使う理由は,
もちろん生徒のプライバシー保護のためである。


方針その2:学校の説明会や学校公開には,全力を投入するべし。

若くてやる気のある笑顔のさわやかな教員を案内係として投入し,
やる気のなさそうに見える教師や批判的な教師は裏方に回し,
外来者様の目にふれないようにするべし。
公開授業も当然特別時間割で対応。
また,公開授業のリハーサルは欠かせない。
シナリオは完璧に。生徒の発言内容も事前チェックのこと。
生徒には,「お客様に見ていただくのだから」という理由をつける。
さらに,生徒様全員に,笑顔と挨拶の練習を1週間前から毎日行うべし。
お客様とすれちがったら反射的に笑顔で挨拶するようになるまで練習のこと。
学校の花壇は,業者に整備させるべし。
前日に業者清掃を入れるべし。
古い教室や汚い教室は,目張りのうえ完全ロックのこと。


方針その3:学校の教育方針は,短いキャッチフレーズで示すべし。

覚えやすくインパクトのあるものにするべし。
とくに,旧弊を打破し,
新しいものを取り入れている改革イメージを出すようにするべし。
そのキャッチフレーズを,校内至るところに掲示するべし。
教育方針イメージをシンプルでそれらしく図解することも必要。


方針その4:校長は,イメージを大切にするべし。

校長は,古い体制をことごとく批判し,
改革者として強いリーダーシップを発揮しているイメージをつくり,
自信たっぷりに振舞うべし。
校長が保護者様や外来者様に講演をするときは,
教員はうなずきながら聞くべし。
話し終わったときの拍手は,まず教員から。


方針その5:教育方法は,流行のものを取り入れるべし。

教育方法は,
マスコミで取り上げられて一般によく知られた流行の方法をすべて取り入れるべし。
教育成果は出ていなくとも,出ているように振舞うべし。
教育の成果など,10年たってみなければ本当にはわかるはずはないのであるから,
とりあえず常に新しい流行のメソッドをとっかえひっかえ取り入れるべし。


方針その6:生徒様はお客様であることを肝に銘ずるべし。

生徒様は,お客様である。
生徒様を決して不愉快にさせてはならない。
叱るなんてとんでもないことである。
生徒様にトラブルが生じた場合は,
校長は,すべて担当教員が悪いこととして処理すべし。
生徒様には決して非はないのである。


方針その7:全国学力テストには真剣に対応するべし。

学力テスト1週間前から,学力テスト対応週間を設け,
過去問を徹底的に解かせるべし。
成績上位生徒に特別指導し,得点力をアップすべし。
成績下位の生徒には,これまた特別指導し,基礎訓練を徹底的に行うべし。
応用問題は捨てて,基礎問題だけを条件反射的に解くようにさせるべし。



方針その8:入学者の数の増加が,教育の成果だと心得るべし。

教育の成果を測る尺度は,入学者の数だけであることを銘記すべし。
入学者の増加につながらないいかなる実践も,
評価の対象とはならないことを銘記すべし。


方針その9:常に危機感をもつべし。

大切なのは,生き残り。
手段を選んでいる場合ではないことを心得よ。


最後までお読みいただき,ありがとうございました。
お疲れ様でした。
しつこいようですが,あくまでもこれはパロディーです。

「見せられているものを見ているだけでは,真実は決して見えない。
 そして,見せられていないものを見ることのできる人は極めて少ない。」
ということだけ申し述べておきます。

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引率の方法

2005-09-15 | 教育
遠足や旅行などで,
生徒集団を引率するというのは,
骨の折れる仕事である。

なかなか秩序が保ちにくいためか,
最近はクラス単位の集団を引率して歩くという機会も
減っているようにも思える。

この生徒引率の場面では,
教師の技術の有無が端的にあらわれる。

それどころか,下手な引率は生徒を危険にさらすことになる。

私が先達から教わった引率作法を,思いつくままに書き連ねてみたい。

基本的には2列縦隊で引率することが多いだろうが,
引率者の指の合図で,
歩きながらでも,
いつでも1列あるいは3列・4列に変更することができるように
指導しておくべきである。

手提げかばんなどの荷物がある場合には,
左列の者は左側に,右列の者は右側に持たせる。
つまり,隣り合った生徒と生徒の間に荷物が挟まらないようにするのである。
この荷物の持ち方ひとつで,列が乱れる原因をひとつ取り除くことができる。
また,荷物が部外者から身を守る役目を果たす可能性もある。

列を道路の右側または左側の片方に寄せて歩くようにする。
もし,向こうから一般の歩行者が来た場合には,引率の教師は,
右側通行をしている場合には,
列の右側に(相手から見て左側)に入り込まれないように上手にブロックする。
右側通行をしている列の右側に向かい側から一般の歩行者に入られると,
列を分断される原因となる。

30~40人規模の集団が信号を渡る際には,
列を崩して,横隊隊形をつくるように指導しておくほうがよい。
信号が青になったら,まず引率の教師が道路の真ん中に出て,
停車している自動車の運転者と「渡りますよ」という意味で
アイコンタクトをとった後,
生徒集団に合図(手を叩く,声をかけるなど)をして,一気に渡らせる。
ものの数秒で,全員が渡り切ることができる。

しかし,なにより大切なことは,
引率者が列の先頭を離れてはならないということである。
もし,列の後ろのほうへ行って何か指導しなければならないときには,
必ず列全体を立ち止まらせてからにすべきである。
決して,引率者の先導なしに,集団が動くようなことがあってはならない。

引率者の歩行スピードが,通常の歩行の半分程度のスピードでなければ,
集団はついて来られない。
列の後ろが走らなければならないような状態が生じるのは,引率者の責任である。

引率者は,常に後ろの列全体の動きが把握できていなければならない。
前のほうの生徒と会話をしながら歩くこともあるだろうが,
会話に熱中して,列全体の把握がおろそかになってはいけない。

このような引率の方法は,教師と生徒が共に熟知していなければならない。

生徒は,常に引率者の動きに注目して,
引率者が声を出さなくても合図で指示がわかるように
なっていなければならない。


生徒集団を絶対に安全に事故なく移動させたいという教師の使命感。
教師の指示をなぜ守らなければばらないかについての生徒の十分な理解。
このどちらかが欠けても,生徒の集団を引率することなど
危なくてできたものではない。

危ない引率風景を近頃よく目にする。

長年伝えられてきた教師としての基礎基本が
もっと大事にされるべきではないだろうか。

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「教壇」に立つ

2005-09-13 | 教育
教師として,教室で教えることを
「教壇に立つ」とか「教鞭を執る」とかいう。

「教壇」や「教鞭」は,教職の象徴であったのである。

しかるに今や,
「教鞭」の実物を見た人もまれになり,
「教壇」に実際に立つことも少なくなりつつある。

今日は,失われつつある「教壇」について考えてみたい。

地域差もあるようだが,
徐々に「教壇」が教室からなくなっていることは事実のようだ。

その理由はさまざまだろうが,
教師と児童生徒が同じフロアに立つことが望ましいとする一種の児童中心主義も
大きな理由のひとつであるようだ。

しかしながら,この理由は多分に情緒的なものではないか。
教壇があることがすなわち,
教師と児童生徒の間を隔絶させることにはならないはずである。

逆に,教壇があることのメリットは容易に看過できるものではない。

教壇に立つことで,教師からは,児童生徒の様子が見やすくなり,
児童生徒の側からも,教師が見やすくなるのである。

また,子供たちが黒板に文字を書こうとするときにも,
小さい子供たちにとっては特に,教壇があったほうが黒板に書きやすいのである。

また,劇やロールプレイングなどを実施する場合には,
教壇は,ステージとして機能するので好都合である。

教師が,教壇に立って話すときと,教壇を降りて机間指導するときの
めりはりがつくことも,また捨てがたいメリットであろう。

実際,教壇がある教室のほうが授業がしやすいように感じるのだが,
いかがだろうか。

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教師の目

2005-09-12 | 教育
ごみが落ちている。

昨日はなかった落書きがある。

窓ガラスの隅に小さなヒビがはいっている。

2日前から箒が出しっぱなしである。

子供の様子がいつもと違う。

学校のなかを普通に歩いているだけで,
とりたててじっくり見回るわけでもなく,
なんとなく見るともなく見ていて,
いつもと違うことに気づく。

「捨て目を利かす」というような言い方をすることもあるそうだが,
このような目をもっていることも,
地味ではあるが,教師の資質のひとつではある。

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黒板をめぐる雑感

2005-09-12 | 教育
時代はかわっても,
黒板は,学校の教室の象徴のようなものである。

OHPが普及したときも,
ホワイトボードが普及してきても,
やはり黒板は,健在である。

プロジェクターやプレゼンテーションソフトが普及しても,
やはり黒板が全くなくなってしまうことはないであろう。

アナログそのもののような黒板が,
使用に際しての自由度や柔軟性,あるいは経済性のゆえに,
長く使われ続けているのは,
いささか感慨深い。

その黒板の使い方が,最近,
少々雑になってきているような気がしてならない。

黒板は,1時間の授業で1度も消さずに,
黒板1枚で1時間の授業の内容が概観できるのが理想とされてきた。

これは,なかなか難しいことなのだが,
この原則を知らない教師もいるようだ。

黒板に,フリーハンドできれいな直線を描くとか,円を描くとか,
日本地図や世界地図をすらすらと描くとかいったことは,
めだたないが教師の技術として誇り得るものだとも思うのだが,
これまたあまり顧みられないようである。

黒板を消すときは,上から下へまっすぐに消すようにすれば,
粉が飛び散らず,きれいに消える。

黒板全体を上から下へと消した後,
今度は,横へ,左から右へ,右から左へと消していく。
そして,もう一度,黒板全体を上から下へと消せば,
黒板は本当にきれいになる。

黒板をきれいにする作業などは,
子供たちの仕事にしてある場合もあるだろうけれども,
教師としても,
毎朝,きれいな黒板が子供たちを迎えるようにしておきたいものである。

黒板に書いてある日付が,昨日やおとといの日付だったりするのは論外である。

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