学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

教員免許は必要か?

2007-09-30 | 教育
学校は,公教育なので,
学校の先生は,原則的には教職免許を持っていなければならない。

塾や予備校は公教育ではないので,
塾や予備校の先生は教職免許を持っている必要は全くない。

一方,
学校の教師よりも,
塾や予備校の教師のほうが授業がうまく,
学力を向上させる力があると言われることがよくある。

もしそうだとしたら,
教職免許の更新制が導入され,
学校の先生方がいくら更新講習に励み,
自らの資質に努めるべく努力しても,
もともと教職免許をもってもいない塾や予備校の先生を
凌駕することはできないのである!?

かくして,学校の教師が,
塾や予備校の教師よりも授業の巧拙の面で劣っているとするならば,
教職免許そのものが,
授業の巧拙とはなんら関わりがないことを示すのであって,
教職免許をいくら更新しても,その面での
教師の資質が向上するという理屈は成り立たないのである。

果たして教職免許とは,
どのような力を保障しているのであろうか?

謎である。

以上,あいかわらずの詭弁である。

学校にできること

2007-09-27 | 教育
学校は,子どもの教育に関して万能な機関ではありません。

学校にはできることとできないことがあります。

冷静に考えてみて,
小・中・高校に可能な事柄は,以下のことに限られるように思われます。

1 週のうち5日間ないし6日間の一定時間,子どもを預かること。
  いわゆる託児機能です。

2 定められたカリキュラムに従って,主として集団に対する授業を行い,
  学習内容を子どもが修得できるようにつとめること。
  (ただし,個々の子どもが学習内容を修得できることは保障されていません)

3 おおむね同年齢の集団のなかでの集団生活の経験を積ませること。

4 集団生活に規範と自己抑制が求められることを認識させること。

5 学力によって,子どもを評価し選別すること。

6 子どもの健康診断を行うこと。

(7 給食という形で食事を与えること)

以上である。

現在の学校システムに対して,
これ以上の機能を要求することには,
無理があるように思われますが,
いかがでしょうか?

「台形の面積」をめぐって

2007-09-23 | 教育
最近,「台形の面積」の復活に関する報道を
目にした。

この台形の面積をきっかけに考えてみたい。

台形の面積の公式が役に立つかどうかという
実際的な観点から言えば,
台形の面積を日常的に使用する人もいるであろうし,
学校卒業後,一切使わなかったという人もいるであろう。

それゆえ,このような実際的な観点から
この公式の重要性を判断することは
困難である。

要は,公式を暗記させることと
公式を導く方法(手続き)を考えさせることとでは,
どちらが優れた教育かということである。

台形の場合は,台形を三角形に分割するとか,
同じ台形ふたつをくっつけるとかいう方法で,
もととなる三角形や平行四辺形の面積の出し方が
わかっていれば,台形の面積は求められる。
このような操作ができるということは
とても大事なことであるし,
このような考え方を知っていることは,
確かに重要なことである。

しかし,もしも台形の面積を求める必要が実際にあった場合,
このような手続き的操作を即座にできる者は
少数にとどまるであろうし,
台形の面積の公式を暗記している方が
はるかにスピーディーに面積を求められるであろう。

問題解決能力ということでは,
暗記させる方が優れているということがあり得るのである。
(同じことが,二次方程式の解の公式にも言える)

そもそも,暗記しておく方が便利だからこそ
公式という形で定式化されているのである。

一方,教師のその分野に対する理解が深ければ,
授業において,暗記の比重は低くなり,
教師のその分野に対する理解が浅ければ,
暗記に頼った授業をしがちであるということは,
教師にとってはおそらく自明のことであろう。

そのため,生徒に暗記させるということに
自らの資質不足や準備不足を重ね合わせてしまうので,
「暗記はよくない」という論に教師は与しやすいのである。

この種の議論には,
いままで述べてきたように
さまざまな思惑が重なりはするけれども,
暗記も大切だし考え方を知ることも,
同じように大切だという結論が
いちばん穏当であるように思われる。

どちらか一方をを取ろうとする議論には
もともと無理があるのである。

学校は公教育の場です

2007-09-16 | 教育
学校は,公立学校・私立学校を問わず,
公教育を行うところであり,
公の性質をもっている。

そのことの自覚が,
どんどん希薄化しているように感じる。

受験指導とか進学実績とか,
そのようなものは私事に過ぎぬではないか。

学校は,私事にうつつをぬかしていては
いけないのである。

学校のもつ公の性質とは何か,
今一度振り返ってみる必要があろう。

感性・情緒と論理

2007-09-15 | 教育
「感性」と「情緒」という言葉が,
これからの教育のキーワードのひとつになりそうである。
いわゆる「言葉」の力を重視する議論にも
必ず現れてくる議論である。

この言葉は,教育の世界では,
「感性・情緒」というふうに
並列的に使われることが多いようであるが,
厳密には両者の意味は異なっているのである。
辞書を引けば,その意味の違いは明確である。

いま仮に,「感性・情緒」と並列されている言葉が,
いわゆる「情緒」という言葉で表される内容をもって
語られているとして考えてみよう。

教育課程という観点から考えると,
情緒を育てる教育課程というようなものは
想定しにくいのである。

学校生活全般あるいは環境や人間関係から
自然と情緒が育まれるといったことは
確かにあるであろう。

しかし,情緒を育てることは,
学校教育の目標とはなりにくいのである。
情緒の育成を,
意図的に教育目標にすえることは難しいし,
むしろ危険ですらある。

もし情緒の育成を教育課程にのせることが
可能だとしても,
望ましい情緒の表現のしかたを
礼儀として教えるぐらいで,
情緒そのもののありように立ち入ることは難しい。

それは,
学校の教育課程そのものが
目標と計画と方法と評価から成り立っている
極めて目的合理的な考え方に基づいて
つくられているからである。

よく「論理」か「情緒」かというような議論があるが,
現在の学校制度を維持する限りにおいては,
情緒よりも論理を重視する方が
明らかに理にかなっているのである。

伝統と文化の尊重の難しさ

2007-09-08 | 教育
改正教育基本法には,
「伝統と文化の尊重」ということが
述べられているが,
学校教育において
伝統と文化を尊重する場合,
気をつけておかなければならないことがある。

客観的にわが国の伝統や文化を学ぶということであれば,
さまざまな角度から分析的に見ることが出来るので,
さほど問題はないのだが,
「尊重」ということになると
共感的に優れたものとして理解するということになる。
ここに難しい問題があるのである。

なぜならば,
伝統あるいは伝統文化といわれるものは,
当然のことながら長い歴史を持っており,
現在の民主主義社会とは相容れない
さまざまな古い価値観を
内に秘めているものも多いからである。

封建性,土俗性,残虐性などなどである。

これらをそのまま尊重することは
学校教育の場では不適切である。

かといって,
これらの性格をもつ伝統なり文化なりから
これらの性格を抜き去ったならば,
それはその伝統あるいは伝統文化とは
似て非なるものとなってしまう。
その伝統あるいは伝統文化を尊重することには
ならないのである。

そもそも,
伝統なり伝統文化なりというものは,
それらを正当に継承している人々の中で
自然とゆるやかに変質を遂げ,
その時代時代に適応していくことで
命脈を保っていくものである。
そうした柔軟性を持たない
伝統なり文化なりは淘汰されていく
運命にあるのである。
これらの営みに
学校教育は直接的には関与していないし,
するべきでもない。

伝統や文化というものは
伝統であり文化であるから尊重すべきものではなくて,
尊重する価値のある伝統あるいは文化であるかを
その伝統や文化をもつコミュニティーのなかで
判断され吟味されるべき性質のものなのである。

学校教育の場で,
伝統あるいは文化の尊重をいう場合,
伝統であるから尊重しなければならないというような
考え方におちいらないように
教師は十分留意していなければならない。

武道必修化?

2007-09-05 | 教育
いつも学習指導要領改訂のたびに思うのだが,
学習指導要領改訂にかかわっている人たちというのは
どういう人たちなのだろうか。

自分の主張を,それもあまり広くない視野での主張を
強引に通しているような気がしてならない。

義務教育での必修というものは,
国民すべてが等しく学ぶ内容を定めるものである。
ということは,誰が見ても,
学ぶ必要があるとおおむね納得できる内容に留めておくべきである。

その場合には,全国津々浦々の学校施設の条件や教員の条件,
子どもたちや保護者の意識,
その教科内容を必修にする必然性などを
厳密に吟味してから慎重に決めるべきである。

ある一部の識者の主張を
そのまま鵜呑みにするような改訂は許されない。

学習指導要領が実施されてから
さまざまな無理が露呈するような改訂は
もうやめてほしい。

義務教育ではないが,世界史の必修化のときも
当初から反発が強かった。
やはり未履修などという恥ずかしい問題が生じたのである。

今回報道されている小学校英語必修化や武道必修化も,
同じく無理があるように思う。

伝統文化の尊重をいうならば,
ふつうは武道より茶道や華道の必修が先であろう。

また女子に学ばせるのならば,
柔道・剣道・相撲などより実用的な
護身術を学ばせた方がよいように思うのだが。

疑問である。

空を見よ

2007-09-03 | 教育
ある屋外での学校行事の運営を
まかされたときのことである。

その日は,天候がはっきりしなかった。

もちろん雨天ではできない行事であり,
途中で雨が降られるのも困る行事であった。

運営スタッフは,
天気予報を見たり,
測候所に電話してみたり,
あらゆる手段で
情報収集に努めていた。

そして,行事の開始予定時刻の30分前,
実施か中止かの最終決定をする話し合いを
職員室のなかで行っていた。

なかなか最終決断ができずにいる我々に,
ベテランのおじいさん先生が
通りすがりに
「外に出て,空を見ればよいではないか」
と言ったのだ。

がやがや話し合っていたわれわれは,
一瞬,お互いの顔を見合わせてしまった。

確かにその通りなのである。

さほど急激な天候の変化が予想されているわけでもなし,
空を見れば,行事の行われる数時間の天候の
おおまかな様子はつかめるはずである。

まさに,「眼から鱗」であった。

我々は,外部情報に頼りきり
(それはそれで必要なことなのだが),
直接自分の目で確かめるという基本的なことを
失念してしまっていたのであった。

ばかばかしいような話ではあるが,
私にとっては,
直接自分の五感で情報を得るということを
忘れてはいけないのだと
気づかせてくれた貴重な体験である。