学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

コミュニケーション能力重視に対する疑問

2014-04-24 | 教育
コミュニケーション能力が校種を問わず重視されるようになり,コミュニケーション能力をのばすためのさまざまな授業の工夫がなされているようである。しかし,この傾向に釈然としないものを感じている。今日は,このことについて考えてみたい。

学校教育において何より重視されなけれならないことは,正確,誠実,真面目,真剣というような言葉で表される価値である。教科学習においては,何より「正しい」ことが求められるべきであり,真実を追い求める態度が育成されるべきである。その他の学校の諸活動においても,真面目に真剣に取り組む態度が重視されるべきである。昨今重視されている言語活動に関しても,何をおいても正しい言葉遣いで正しい表現をすることを教えるべきである。

ところが,コミュニケーション能力の求める価値はこれとは異質である。少し考えてみれば分かることだが,我々が他者と円滑なコミュニケーションをとろうとするときには,お互いの真実をぶつけあうことはしていない。相手を慮り,相手の機嫌を損ねないような,あるいは,相手をよい気分にさせるようなコミュニケーションをとろうとする。それは,思いやりと言ってもよいが,見方を変えれば,少しずつ嘘をついているのである。それは,相手に対する嘘であると同時に,自分に対しての嘘でもある。それが,コミュニケーションに内在する要素であることは否定できないであろう。このことは,古代ギリシアでソクラテスがソフィストを批判した理由にも相通ずるものがある。

こう考えると,学校教育の中で,コミュニケーション能力の育成を中心課題とすることはかなり困難であることが分かる。学校教育においては,コミュニケーション能力などというものはしばらくおいておいて,正しい言葉遣いと相手を不快にさせない礼儀作法を教えておけばよい。そして,決して嘘はつかず,誠実に生きることを教えるべきである。大人になれば,円滑なコミュニケーションを行うための世間知や方便はその人なりに身につけるものであるから,ことさらにコミュニケーション能力の伸長を学校教育で扱う必要はないのである。

いくら企業がコミュニケーション能力に優れた人材を求めているからといって,学校がそれをまともに受けて,コミュニケーション能力がさも重要課題のように考える必要はない。学校は企業の下請けではない。「学校はそれを教えるところではない」と言えばよいだけのことである。

学校は人材を育てるところではない。人間を育てるところである。学校は,「巧言令色少なし仁」「剛毅木訥仁に近し」という古の価値を教える場所である。口下手で朴訥とした人格の中に真実があることをむしろ教えるべきである。その真実こそが人間に普遍的な価値である。

ご冗談でしょう、文科省さん!

2014-04-17 | 教育
近頃の文科省さんはご冗談がお好きなようである。
スーパーイングリッシュランゲージハイスクールとかスーパーサイエンスハイスクールとか、
教育を司る官庁とも思えない言語感覚のネーミングの事業を打ち出されたかと思うと、
今度はさらに磨きをかけておられて、スーパーグローバルハイスクールとかスーパーグローバル大学とか
とても楽しい事業を打ち出されている。そもそもスーパーなグローバルとは何ぞや。
いやいやスーパーはグローバルにかかるのではない、ハイスクールにかかっているのだとおっしゃる方もいる。
そもスーパーなハイスクールとは何ぞや。
もはやハイスクールは地球を超えて銀河の果てまで飛んでいこうとしているのである。
今度は、スーパーグローバル大学である。なんで、「大学」だけ日本語なの??
そして、とどめはスーパー食育スクール!である。なんで「食育」だけ日本語なの??
さらにスーパーとは、これいかに??
てっきりスーパーマーケットでどんな食材を買うかの研究開発かと思ってしまったではないか!

言語活動や英語力の重視という高邁な理想を掲げておられる文科省の方々が、
このネーミングをおかしいとも思わず公表されているに至っては、
我が国の教育行政はすでに知性をかなぐり捨てて、国民を笑わせることに専心されているのだと
思わざるを得ない。時代は変わったものである。嗚呼。

P.S. スーパープロフェッショナルハイスクールってのもあった。もう論評しない。