学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

書く力

2006-07-27 | 教育
書く力が,極端に低下しているのではないか。
そう思うようになった。

子どもだけではない,我々大人もである。

主語と述語を対応させること,
接続詞がその意味の通り使われていること,
指示語が指示する対象が明確であること,
この3点だけでも,きちんと整った文章にであうことが
まれになったような気がする。

ことばの力は,我々大人から
自省していかなければならないのではないだろうか。

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すべては子どものために

2006-07-21 | 教育
このような時代だからこそ
なおいっそう教師が
肝に銘じておかなければならないことがあると感じている。

それは,教師は,子どものために
そして,やがて子どものつくる未来のために
働いているということである。

ひたすらに,一人ひとりの子どもの成長を願い,
子どものために働く。

子どもたちは,やがて成長し,
未来の社会をつくっていく存在である。

われわれ大人は,未来をつくることはできない。
われわれは,彼らに未来を託すのである。

教師は,未来に直接関わっているのである。


いつも問い直すべきである。

何のために働いているのかと。

自分の業績をあげるためではない。
自分の評価をあげるためではない。
いい先生と呼ばれたいからではない。
自己実現のためではない。
金儲けのためではない。
学校を大きくするためではない。
入学者をふやすためではない。

教師は,そのような現在の利害に生きているのではない。

多くの教師は,
ひたすらに子どものために生き,
名もなく消えてゆく。

ただ幸せなことに,
われわれ教師は,はるかな未来に
直接に関わっているのである。

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その改革,だれが得をする?

2006-07-16 | 教育
教育改革として,さまざまな改革が
学校現場を不安定にさせている。

現在行われている改革のほとんどすべてが,
教育現場の望んだものではない。

教育現場は,
これまでの実践を否定され,
せいぜいその改革が必要だと思い込まされているか,
沈黙を余儀なくされているに過ぎない。

それではこの改革の原動力になっているものは
何か。

それは,決して子どものため,未来のために
教育をよくしようなどという献身的な動機から
生まれてくるものではなく,
教育現場のどこにビジネスチャンスがあるかを,
虎視眈々とねらっている勢力が存在するからである。
学校が現代において無垢のまま残された
大規模な市場であると気づいた勢力が存在するからである。

実際,その改革で,だれが利益を得るかを考えてみたほうがよい。
そうすれば,教育改革の内部構造が実にわかりやすく見えてくる。

一度冷静に考えてみたほうがよい。
その改革は,本当にすべての子どもたちのためになっているのか,
本当はいったい誰が儲けているのか,と。

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教え込み・詰め込みをめぐる反時代的考察

2006-07-09 | 教育
従来から行われている学校批判のキーワードとして,
「教え込み」・「詰め込み」という言葉がある。

この批判を受けて,2種類の方向性が生まれてきた。

ひとつは,
学習観を変えて,
児童生徒の学ぶ量を減らし,
ゆとりをもって,じっくり考える力を
伸ばそうという方向性,

もうひとつは,
学ぶ量を減らしては学力が低下するので,
基礎基本となる知識を確実に定着させ,
そのうえに自ら考える力を育成しようという方向性である。

どちらの方向性にしても,
「教え込み」・「詰め込み」教育が
かつて行われていたということを前提にしている。

しかし,本当に「教え込み」・「詰め込み」教育などというものが
行われていたのだろうか?

確かに,今に比べて,
いわゆる現代化カリキュラムなどは
学習量は多かったが,
多くの教師は,きちんと教授していたのである。

そこでは,丸暗記や,
わけもわからず詰め込むことなどは
便法としては存在したものの
学習の王道ではなかった。

ましてや,公式に,学校の教師が便法のみを
推奨することなどはまれであった。

むしろ,当時の生徒のなかで
学習したことの本当の価値を十分理解していない者が,
考えることを自ら放棄して,
かげで教師を批判し,
「とりあえず覚えとこう」というふうに
学習をねじまげていったのではないか。

当時のいわば理解力の乏しい生徒が
大人になって,何らかの意図をもって
本当には,自らが作り上げたイメージに過ぎない
「教え込み」・「詰め込み」教育イメージを喧伝し,
教師の質を云々し,
教育の実像を捉えることができなくしてしまったとしか
言いようがない。

そう考えてみると,
冒頭に述べた二つの方向性は
ともに誤りを含んでいる。

最初の「ゆとり教育」を支える学習観の転換は,
日本の教育環境の伝統のなかでは,
極めて困難な方向性であり,
理念的には正しいのだが,
現実的には一部の大学附属学校などを除いては,
ほぼ実現不可能なものであった。
多くの学校では,
教師たちにとって,「教える」ことがはばかられるようになった。
指導してはいけないといわれ,支援しなければならないといわれた。

無理なことを要求された教師は,手も足も出ず,
質が低下したと言われるようになった。

二つ目の「ゆとり教育」が学力低下を生み出すとして,
基礎基本を重視して,考える力をという主張は,
さらに危険である。

この主張の中で言われている基礎基本の定着方法こそが,
「教え込み・詰め込み」教育そのものなのである。
朝のわずかな時間をつかってのドリル学習が
盛んに行われるようになったが,
これこそが,学習の脈絡から切断された
「教え込み・詰め込み」学習の姿なのである。

しかも,「考える力」を育成する新しい教授方法は
確立されていない。
そのため,能力別クラス編成などでお茶を濁している場合が多い。

むしろ,かつては受験によって行われていた選別を,
学びの共同体であるべき学校内に持ち込んでしまったのである。

いま,学校は,「教える」環境ではなくなっている。
教師が自分の工夫によって「教える」ことを
やりにくくする環境がどんどん整えられつつある。

さらに,教師自身が,
お互いの質の低下を認めなければすまないような
世論が形成されていく。

そのなかで,やる気をなくした教師たちが,
さらに教育技能を低下させていき,
教師の質の低下は現実のものとなる。

指導を受け入れない生徒が,
大人によって正当化されていく。

教え導くのが教師の仕事である。
教師が自信をもって
教え導くことができる環境を整えることが,
教育行政のなしうる最善の教育改革であろう。

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最高の学級経営

2006-07-06 | 教育
何年も担任をもっていても
本当に「うまくいった」と思える学級経営は
なかなかできないものである。

ふと考えてみる。
最高の学級経営とはどんな学級経営だろうか。

私は,ごく単純な結論に達した。

教師として,
学級のどの子どもに対してであっても,
普通にたわいない言葉をかけることができる,
学級のすべての子ども,一人ひとりと
構えずに自然に会話ができる,

ということではないかということだ。

通常は,
どうしても,こちらが話しかけるときに
気楽に話しかけられる子どもと
どうしてもこちらが構えてしまう子どもができてしまう。

それを乗り越えたとき,
学級にはほんとうの安心感が生まれ,
最高の学級経営ができたと感じることができる。

長年の経験の中で,
それに成功したと思えた年は,
恥ずかしながら1回しかない。

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学校のモニュメントや絵画・作品

2006-07-02 | 教育
学校には,いろいろな碑や像などのモニュメントがある。

古くは忠魂碑や二宮金次郎の像がある学校もあるであろう。
またロダンの「考える人」であったり,
その他,創立に力のあった人物の碑であったり,
象徴的なモニュメントであったり,
さまざまな思いが込められた碑や像があるであろう。

また,学校の廊下には,さまざまな絵画などが掲げてある。

著名な画家の作品やレプリカ,子どもたちの作品,
卒業生の記念作品などがあるであろう。


思想的な背景はともかくも,
碑や像などのモニュメントが,ほこりをかぶって
全く省みられていないような学校を,
私は信用しない。

また,廊下の絵画や作品が,ほこりをかぶったり,
まがったりしている学校を,
私は信用しない。

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