従来から行われている学校批判のキーワードとして,
「教え込み」・「詰め込み」という言葉がある。
この批判を受けて,2種類の方向性が生まれてきた。
ひとつは,
学習観を変えて,
児童生徒の学ぶ量を減らし,
ゆとりをもって,じっくり考える力を
伸ばそうという方向性,
もうひとつは,
学ぶ量を減らしては学力が低下するので,
基礎基本となる知識を確実に定着させ,
そのうえに自ら考える力を育成しようという方向性である。
どちらの方向性にしても,
「教え込み」・「詰め込み」教育が
かつて行われていたということを前提にしている。
しかし,本当に「教え込み」・「詰め込み」教育などというものが
行われていたのだろうか?
確かに,今に比べて,
いわゆる現代化カリキュラムなどは
学習量は多かったが,
多くの教師は,きちんと教授していたのである。
そこでは,丸暗記や,
わけもわからず詰め込むことなどは
便法としては存在したものの
学習の王道ではなかった。
ましてや,公式に,学校の教師が便法のみを
推奨することなどはまれであった。
むしろ,当時の生徒のなかで
学習したことの本当の価値を十分理解していない者が,
考えることを自ら放棄して,
かげで教師を批判し,
「とりあえず覚えとこう」というふうに
学習をねじまげていったのではないか。
当時のいわば理解力の乏しい生徒が
大人になって,何らかの意図をもって
本当には,自らが作り上げたイメージに過ぎない
「教え込み」・「詰め込み」教育イメージを喧伝し,
教師の質を云々し,
教育の実像を捉えることができなくしてしまったとしか
言いようがない。
そう考えてみると,
冒頭に述べた二つの方向性は
ともに誤りを含んでいる。
最初の「ゆとり教育」を支える学習観の転換は,
日本の教育環境の伝統のなかでは,
極めて困難な方向性であり,
理念的には正しいのだが,
現実的には一部の大学附属学校などを除いては,
ほぼ実現不可能なものであった。
多くの学校では,
教師たちにとって,「教える」ことがはばかられるようになった。
指導してはいけないといわれ,支援しなければならないといわれた。
無理なことを要求された教師は,手も足も出ず,
質が低下したと言われるようになった。
二つ目の「ゆとり教育」が学力低下を生み出すとして,
基礎基本を重視して,考える力をという主張は,
さらに危険である。
この主張の中で言われている基礎基本の定着方法こそが,
「教え込み・詰め込み」教育そのものなのである。
朝のわずかな時間をつかってのドリル学習が
盛んに行われるようになったが,
これこそが,学習の脈絡から切断された
「教え込み・詰め込み」学習の姿なのである。
しかも,「考える力」を育成する新しい教授方法は
確立されていない。
そのため,能力別クラス編成などでお茶を濁している場合が多い。
むしろ,かつては受験によって行われていた選別を,
学びの共同体であるべき学校内に持ち込んでしまったのである。
いま,学校は,「教える」環境ではなくなっている。
教師が自分の工夫によって「教える」ことを
やりにくくする環境がどんどん整えられつつある。
さらに,教師自身が,
お互いの質の低下を認めなければすまないような
世論が形成されていく。
そのなかで,やる気をなくした教師たちが,
さらに教育技能を低下させていき,
教師の質の低下は現実のものとなる。
指導を受け入れない生徒が,
大人によって正当化されていく。
教え導くのが教師の仕事である。
教師が自信をもって
教え導くことができる環境を整えることが,
教育行政のなしうる最善の教育改革であろう。
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