学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

いま学校は何をするべきか

2010-05-27 | 教育
いま学校が何をするべきかということについては,
明確なひとつの答えがある。

クラシックのコンサートホールで,
大声で騒ぎ出す人がいたら,
その人は,ホールから退去を命じられるであろう。
従わなければ,警備員に連れ出されるであろう。
このことに異論のある人はまずいないと思われる。

教室もまた同じことなのである。
このコンサートホールと同じルールを学校がつくること
これが学校が為すべきことである。

授業の妨げをする子どもや
教師の正当な指示に従わない子どもがいて
授業が正常に進まないのであれば,
その子どもにどのような背景があるかを一切斟酌することなく
その子どもを外に出すということである。

当然,その子どもにも学習権があるわけだから,
外に出した子どもに対応して,
個別に教育する教師が別に必要なのは言うまでもない。

集団教育の前提は,
集団行動をとれるということである。

集団行動を取るように言っても,
集団行動をとれない子どもを教育することは,
集団の中では無理である。
個別教育のプログラムを別に用意する必要がある。

これを実行するだけで,
多くの子どもが救われるのだが,
おそらく,なかなか受け入れられない考え方であろう。
なぜなら,この考え方は,教育の「理想」に反するからである。
しかし,
この考え方を受け入れないで,
正常な学習環境をただちに取り戻す方法が
果たしてあるのだろうか。


もっと本音で語っては?

2010-05-27 | 教育
教育を語る言葉が,
あまりにも夢物語になっていないか。

例えば,
文部科学省をはじめ,
教育行政に関わる方々は,
「教員の質の向上」などということを
平気で主張するが,
本気で言っているとは到底思えない。

誰が考えたって,
ちょっとやそっとで
教員の質など向上するわけではないことは,
わかりそうなものである。

もしわからなければ,相当に無能である。
教育行政に関わる人々は,
無能ではないのだろうから,
本音をかくしているのだろう。

もっと本音で語ったほうがよいのではないか。

冷静に見れば,教員の質は,
昔から今まで,
低下もたいしてしていなければ,
向上もしていない。

いつの時代も,教員はそれなりの質なのである。
だから,
それなりの質の教員が,
それなりにやっていける環境づくりのほうが,
よっぽど生産的なのである。


効果的な教育改革

2010-05-24 | 教育
最近は,「教育改革」という言葉を
あまり聞かなくなったような気がする。

「教育改革」にあまり実効がないということが,
認知されてきたからであれば,
喜ばしいことである。

しかし,学校が,学級崩壊を多々起こしているなど
機能不全を起こしているような場合には,
教育改革は劇的な効果を発揮することがある。

その教育改革の方法は以下の通りである。

1 その学校そのものを解体する。
2 その学校の教員を総入れ替えする。

1は今とてもやりやすい。
いわゆる一貫教育のロジックを使えば,
学校は解体できる。
逆に一貫教育校が崩壊したら,
打つ手がない。

2はやる気になればできる。
人事刷新,新しい学校としてスタートである。

それ以外の上から降ってくる教育改革など,
ほとんど意味がない。

もともと子どものためではなく,
音頭を取る人の業績作りに過ぎないのだから。

ごまかし

2010-05-20 | 教育
いまの学校教育が全面的に迷走しだしたのは,
中教審や文部省が,
「生きる力」などと言い出した頃からではないか。

この頃から,学校教育をめぐる言説が
多義性のある言葉を好んで使うようになり,
多義性がゆえに概念が不明確で,
結局何を言っているのだかさっぱりわからないけれども
心地よいような言葉が学校をおおうようになった。

例えば,「子どものよさ」とか,「伝え合う力」とか,
「人間力」とか,「確かな学力」とか,
あげればきりがないが,
突き詰めて考えてみると,
このような語彙は,学校教育の世界では,
その言葉の意味を相互に了解し合ってつかうという,
コミュニケーションの最低限のルールさえ欠落したまま,
つかわれるのである。


むしろ,このような言葉をつくる人々は,
よっぽど言語感覚が劣っているか,
さもなくば,
さまざまな批判をかわすために,
あえて曖昧な言葉を作ったり,
つかったりしているとしか
思えない。

考えてもみよ。
食べ物がないときに,
人の食べ物をかっぱらってくる力だって,
「生きる力」だと言えてしまうのである。

「子どものよさ」など,
とりたてて言うこともない。
たくさんあるに決まっている。
むしろ,子どもの悪さに注目した方が
教育的には価値がある。

「伝え合う力」などどうやって育てるのか。
コミュニケーションは人間関係なのだから,
相手が違えば,伝え合えないことなど多々あるのである。
結局は,正確な国語力(語学力)と人格の陶冶ということにすぎない。

「人間力」にいたっては,笑止千万である。
むしろ「お猿力」や「犬力」「猫力」を定義してから,
「人間力」を考えた方がよいだろう。

「確かな学力」もわかったようなわからないような言葉である。
そもそも「確かでない学力」など学力ではない。
したがって,わざわざ「確かな」などと形容する必要はないのである。
もっといえば,「学力」そのものすら多義性のある言葉である。
こんな言葉は,むしろ,あまり使わないほうがよい。

きりがないので,このへんでやめておく。
とにかく,ごまかしの透けて見えるきれいきれい言説は
もうこりごりなのである。

クラス目標の落とし穴

2010-05-15 | 教育
ふつうクラスにはクラスの目標がある。

これはそのクラスの共同体としての
理想の姿を示したものであることが多い。

もっとも多いのが,一人ひとりが輝くとか,
みんな仲良しといったものである。

ここで,クラス目標の落とし穴について,
「みんな仲良し」を例にあげて考えてみたい。

先にも言ったように,
「みんな仲良し」は
そのクラスの目標であり,願いであって,
実際には,
そのクラスは現時点ではみんな仲良しではない。

正確に言うと,「みんなこれから仲良くしていこう」,
「みんなが仲良しになれたらいいな」ということである。

ところが,この目標は,
子どもたちの願い,教師の願いとして
共有されているべきものであるにもかかわらず,
熱心な教師であればあるほど,
この目標が教師にとっては,
「みんなが仲良しになれたらいいな」という願いから,
「みんなが仲良しであるべきだ」という義務感を生じ,
最後に,「みんなが仲良しであるはずだ」という思い込みに
転化していくのである。

理想に燃えた若い教師であればあるほど,
自分のクラスをいいクラスだと思いたがる。
そのためにこのような転化がおこるのである。

そうなってしまうと,
このクラスは実際にはみんなが仲良しではない,
あるいは,まだ仲良しにはなっていないという現実を
教師は見失ってしまうのである。

そうすると,クラスのいざこざや仲たがいをみても,
本当はみんな仲良しのいいクラスなのだから,
これは一時的なもので本当ではない,
すぐにもとの姿にもどるはずだと思ってしまう。

あるいは,このクラスにはいじめがあるという指摘を受けても,
「そんなはずはない」と思ってしまう。

そのために,なすべき対処が遅れたり,
対処しなかったりするのである。

逆に,仲良しであるはずのクラスに,
いじめがあるということを認めざるを得なくなったとき,
そのような教師は,
茫然自失の状態になるか,
急に自分のクラスが嫌になってしまって
怒り出すかするのである。

いずれにせよ,冷静な対処ができない状態になる。

これが,クラス目標の落とし穴である。

教師は,理想や目標に取り囲まれ,
それらにとりこまれてしまう職業である。
だからこそ,自分の力で理想や目標をはぎとって,
現実を冷徹にみる目をもっていなければ,
本当の意味での理想の教育はできないのである。

へんな理屈にまどわされるな

2010-05-09 | 教育
もう一度,学校というものの前提を問い直すべきではないか。

我々教師でさえ,へんな理屈を信じ込まされていないか。

「子どもが教師の言うことを聞かず,教育が成立しないのは,
 つまるところ教師の指導力の問題であり,
 教師が子どもをよく理解し,その子を認め信頼関係を築けば,
 必ず子どもは良い方向に向かい,成長する」
というあの理屈である。

これは,非常に耳あたりがよい理屈であるために,
誰もが真実だと思い込んでしまっている。
しかし,よくよく冷静に考えてみると,
これはファンタジーか,さもなくば屁理屈である。
こんな理屈を本気で信じていたら,
子どもが増長するのは目に見えている。
子どもは,大人が適切な教育的圧力をかけなければ成長しないのである。

それ以前に,
学校に来たら子どもは教師の言うことを聞くというのが前提であって,
例えば,きちんと椅子に座って授業を受けるという,
基本的な教室の秩序については,
小学校1年生できちんと教えられているはずである。
にもかかわらず,
それ以降の学年での無秩序まで教師の指導力のせいにされたのでは,
4月から指導して,教育の成立する段階まで来たとしても,
すでに,数ヶ月,いや一年まるまる空費していることになる。
それが毎年繰り返されるということである。

学校は勉強をするところである。
学校生活の大部分を授業が占め,
授業は教師が計画立案し,リードする。
「きちんと授業を受ける」「教師の指示を聞く」,
これは学校教育成立の前提条件である。

その前提条件を整えるところまでは,
本当は保護者の役目である。
実は,こんなことは昔は当然のことであった。
「学校に行ったら,先生のお言いつけをよく守りなさい」
というのは,親が必ず学校に上がる子どもに言って聞かせたことである。
そしてもし我が子が学校できちんとしていないということを知れば,
親は子どもを叱り,学校や教師に対して詫びたものである。
それを,我が子の不良行為を棚に上げて,
やれ,教育が悪いだの,教師が悪いだのと,
学校を責める親がいるというのは,
いったいどうなっているのかと思う。

教師の指示を聞かず,授業を撹乱する子どものために,
どれほど多くの真面目な子どもたちの学習権が侵害されてきたか。

校長や教育行政も,
授業の秩序維持になぜ本気になって取り組まないのか。
学級崩壊などとのんびり言っている場合ではないのである。
崩壊したクラスで,担任教師が孤立無援で
どれだけ塗炭の苦しみを味わっているか,
本気でその悲しみをおしはかれる管理職や教育行政関係者はいないのか。
なぜ,校長がイニシアチブをとって,地域も親もまきこんで,
学級の建て直し,学校の建て直しに奔走しないのか。
なぜ,教育委員会は,即座に指導主事でもなんでも派遣して,
指導だの助言だの愚にもつかないことをしているのではなくて,
崩壊した学級に毎日張り付いて,
担任とともに汗を流して建て直しを図ろうとしないのか。


だれもが,安心して学べる安全な学校。
それを大人が総力をあげてつくりあげずして,
何の学校教育か。

やれ信頼関係だの,やれ授業の工夫だの,
やれ子どものよさを見てあげましょうだのと,
能天気な教育的なご託宣をならべているうちに,
学校も教育も成り立たなくなってしまっているのである。


教育と結果責任

2010-05-06 | 教育
教育に関する論議がいつも不毛なのは,
教育という営みが,
その結果に対する検証が不可能な営みだからである。


これこれこういう教育システムの下で,
かくかくしかじかの教育を行ったために,
このような人間や社会が形成されたという議論は,
証明不可能である。

にもかかわらず,
あらゆる教育改革は,
教育の現状を問題の多いよくないものと断定し,
この教育改革を行えば,
将来において,必ずやよい成果があがり,
明るい未来が待っているという論法を使う。
すなわち,未来社会において成果が検証されるはずだという論法である。

しかし,その教育改革の成果が検証されることはない。
いや,検証されたかのように言いつくろうことはあっても,
本当の意味で検証されることはない。

教育というのは,
いつも現在社会の価値観に最適化されているのであって,
未来が不可知である限り,
子どもたちが生きるであろう未来社会に最適化することはできないからである。
もしも,それが可能だという人がいるならば,
それは詐欺師か狂信者である。

畢竟,教育という営みは,
過去の文化遺産を未来に継承するために,
現在の価値観に基づいて構成されるものである。

その教育を生かすか生かさないか,
その教育に価値を見い出すか見い出さないかは,
その教育を受けた子どもたちが決めることであり,
子どもたちに教育を施した大人は,
どのような方法であれ,
過去の文化遺産を子どもたちに伝えたならば,
充分その責務は果たしたと言わなければならないのである。
それ以上のことができるというのは,大人の驕りである。


書類を減らせ

2010-05-01 | 教育
最近の学校の際立った特徴は,
書類が多すぎるということである。

それも,どうでもいいような提出書類の作成に
追われることが多い。それが年々ひどくなる。

現場教師は,
そのような提出書類を書くのが仕事ではない。
現場教師が書くべきものは,
子どもの今日一日の行動の記録を書くとか,
子どもの提出物にコメントを書くとか,
そのような実質的なものを書くのが本来の仕事である。

本来書くべきものも書けないほど,
だれが本気で読むのかもわからないような
どうでもよい書類づくりをさせられるのは
いい加減になんとかしてもらいたい。

これも教育行政が末期的な状況になっている証拠である。
もう,学校にとって本当には何が大切かを
自分の頭で考える力のある人が
教育行政の世界には,
いなくなってしまったのであろう。