学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

きちんとやらせる

2009-09-27 | 教育
やらせるならきちんとやらせなければならない。

運動会での整列,マスゲーム,
一糸乱れずやれるように指導するべきである。
だらだらくねくねやるのであれば,
やらぬほうがましである。
これらは集団行動の規範に基づいて行うべきもので,
他人ときちんとあわせて行動しようとすることを通して,
他人への思いやりも育つのである。
その教育機会をないがしろにするのであれば,
やめたほうがよい。

日々の教室清掃,
遊びながらやったり,
だらだらやったりするのを許すのであれば,
やらぬほうがましである。
清掃は,みんなの力で,みんなのために,
自分たちの教室環境を整備させるために
行っているのであるから,
その心構えなしに行わせるのは
かえって非教育的である。

このような例においては,
子どもにその是非を「考えさせる」ことなど
してはならない。
きちんとやるべきか否かなどは,
考えるまでもなく自明のことである。
「考えさせる」のであれば,
その自明のことを問うべきでない前提として,
どのようにしたらよりよいかについて,
「考えさせる」のなら意味がある。
掃除をきちんとやるべきか否かなどについては,
子どもに「考えさせる」余地などない。
もし,きちんとやらなくてもよいというような
屁理屈をわざわざ導き出す余地を与えるのであれば,
愚の骨頂である。

学校には,子どもが問うべからざる
教育の所与の前提というものがある。
それを子どもに
「考えさせる」ことが
学校教育を劣化させるのである。

いい学校のつくり方

2009-09-17 | 教育
もしも,自分の子どもをいい学校に通わせたいならば,
自分の子どものいま通っている学校を
いい学校にするのが一番てっとりばやい。

そこで,いい学校のつくり方をご紹介したい。
実は,簡単である。

折に触れ,その学校のことを,
「いい学校だ」といろんな人に言うのである。

親は近所の人に言いふらし,
その学校の先生は,その学校の子どもたちに言うのである。

「この学校の○○校長はすばらしい」
「この学校にはこんなにずぐれた先生がいる」
「この学校の生徒はすばらしい」
「この学校の保護者はみんな学校の教育に理解がある」
「この学校のこの施設はすごい」
などなど。

全く事実無根でも困るが,
よいことをことさらに大きく吹聴するのである。

そうすると,
先生も子どもたちも,そして保護者も近所の人も,
だんだんその気になっていく。

そして,自然にその学校は
いい学校になっていくのである。


いい学校かそうでないかは,
実質を言われているのではなく,
印象に過ぎず,
人の心の持ち方で変わっていく場合が多い。

いい学校と言われる学校は,
そのよい点に注目されており,
よくない学校と言われる学校は,
そのよくない点に注目されているのである。

だから,
学校や先生や,あるいは子どもたちや保護者を
お互いがお互いを悪く言っていると,
そのことが原因で,
学校がどんどん悪くなるということに
気づいたほうがよい。

とくに学校教師は,
このことにたいへん無頓着なように思われる。
平気で同僚のことを悪く言ったりする者が結構いる。
管理職ですら自校の教員を悪く言う者がいる。
そのことが,自分の職場環境をどんどん悪化させているのに
気づかないというのは相当な愚か者である。

不思議なこと

2009-09-14 | 教育
知識中心の詰め込み教育はダメで,
これからは「考える力」を育成することが
大切だなどということが言われ,
多少揺り戻しはあるものの,
大筋ではこの考え方は支持を受けているように思われる。

でも,よくよく考えてみると,おかしなことがある。

このような発想をしている大人たちの多くは,
この言説に従えば,
子どものとき,知識中心の詰め込み教育を受けてきたことになる。
したがって,「考える力」が乏しいはずである。
すなわち,「考える力」の乏しい人たちが考えた説なのである。

それは違う,私は,知識中心の教育を受けてきたが
「考える力」はあるのだと,もし言いたいのであれば,
当初の言説は成り立たなくなる。

もともと,
このようにパラドクシカルな面をもつ言説など
真に受ける必要はなかったのである。

もっとも,詰め込み教育というものが
本当に存在したのかどうかさえ怪しいものである。

板書のしかたをどこで学ぶか

2009-09-13 | 教育
教員養成がどうあるべきかということが
社会的に注目され,さまざまな試みがなされている。
教職大学院の創設や教員免許更新制,
教育委員会による教員志願者への教育の試みや
民間の予備校や塾によるセミナーなどなど。
さまざまな方策が模索されている。

果たして,
教員はどのように養成されるべきかということについて,
ひとつの話題を提供してみたい。

先生方にお考えいただきたいのは,
板書のしかたの基本は一体どこで学んだかということである。

大学の講義においてであろうか,教育実習においてであろうか,
あるいは現場に出てから先輩に教えてもらったのであろうか,
教育書を自分で読んで勉強したのであろうか,
はたまた,学んだことはなく,自己流でやっているのであろうか。

これを考えてみると,
教員にとって極めて基本的な技術である板書についてさえ,
どこでその技術を身につけるかということが明確になっていないのである。

さて,これをどこで教えるべきか。
大学で「板書学総論」「板書技能実践演習」とでも
いった科目名をつけて教えるべきものであろうか,
はたまた大学院で「臨床板書技能構築特論」とでもいった科目を
設けるべきであろうか。
やはり,教育実習で「板書研究授業」をやって
がっちり教わることにするか,
それとも,教育委員会が採用後に「初年次板書研修」を行うか,
いったいどうしたものであろうか。

一体,どこで板書の技能の基本を身につければよいのだろうか。

現職の先生方が
板書の技能などの基本技能をどこで身につけたのかを
きちんと調べて,
教員が実際にはどのような場で育成されているのかを
踏まえたうえでの議論が本当は必要なのではないだろうか。



知識の陳腐化

2009-09-12 | 教育
今日に至るまで大きな影響を持っている平成17年の中教審答申によれば,
これからの社会は知識基盤社会だそうである。
そこでは,知識は日進月歩でたえず競争と技術革新が行われるそうである。
さらに,知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多いのだそうで,
幅広い知識と柔軟な思考力に基づく判断が必要とのことである。

だとすると,知識というものはすぐに陳腐化してしまい,
絶えず更新する必要があるということになる。

これはたいへんである。
どこまでいっても,落ち着く場所がない。
精神衛生上きわめてよくない。

ちょっと発想を変えてみてはいかがだろうか。

陳腐化しそうにない知識を大事にするのである。
陳腐化しそうにない知識というのは,
すでに陳腐化などという言葉が通用しないほどの年月を経たために,
陳腐であるなどとはいわれなくなっている知識である。

古文や漢文などはそのよい例である。

旧来のパラダイムの転換に際して,
本当に判断を助けてくれる知識とは,
実は,陳腐化していない最新の知識などではなく,
陳腐化という言葉を拒否するほど古い知識なのではないだろうか。

歴史の節目節目で,古典が力をもつというのは,
きわめて常識的な教養のひとつであると思うのだが,
知識基盤社会では,そのような教養も通用しないのであろうか。

学校で学んだことは役に立たない

2009-09-07 | 教育
よく学校で学んだことなど
社会に出てから何の役にも立たなかったと
言われることがある。

これは当たり前である。

学校は,役に立つことを教えるところではない。

最近は,経済界の要請もあってか,
社会に出てから役に立つことを,
学校で教えようとしているようである。

例えば,コミュニケーション能力とか,
プレゼンテーション能力とか,
コンピュータ・スキルとか
使える英語とか,いろいろである。

いろいろやってみてもよいが,
結局のところ,小・中・高校や大学で,
社会に出てから役に立つことを教えることは,
まあ無理であろう。

もともと学校は,
職業訓練を旨とする学校を除いては,
実社会で役に立つことを教えるようには,
つくられていない。

そんなことは自明のことであったはずで,
だからこそ,実社会では何の利益にもならないことを,
利益にならないからこそ大切なことを
学校は教えようとしてきたし,
そのことには一定の成功をおさめてきたのである。

学校で何一つ役に立つことを
教えてもらわなかったとつぶやくその身体に,
学校はしっかりと教育の痕跡を残しているのである。

そのことをいつから忘れてしまったのか。


学校の存在意義とは何なのか,
と疑問に思う人もあろう。

答えるまでもないことである。

ご自身が学校で何を得たかを
お考えいただければよいのである。

そして,役に立つことを教えようとすることで,
何が失われるかをお考えいただければよいのである。



学校教育の結果責任

2009-09-05 | 教育
学校教育は,
ある一定の内容を教えるということには責任を負っているが,
教えた結果,被教育者がどのように変容したかについては,
責任を負えないのではないか。

最近よく,学校の教育の結果に責任をもつようなことを
学校自らが表明するような場面によくでくわすのだが,
それははなはだ軽率な話ではないだろうか。

親でさえ,子供の人生の結果には責任を負えないのである。

人間を相手にしている場合は,他の職業でも同じことが言える。
例えば,
医者は最善の治療を行うという意味での責任は負っているが,
患者を必ず治癒させる責任があるとは言えないのではないか。

人間に対しては,製造物責任は適用できないのである。

そのことを深く考え直すべきである。

教師は,最善の教育を行うということに責任を負っているのであって,
教育の結果に対しては責任を負うことのできない存在なのである。

なぜならば,学力であれ素行であれ,
被教育者に生ずるさまざまな変容は,
よきにせよ,悪しきにせよ,
決して,ある教育の結果だとは言い切れないからである。

教師の仕事は,どこまでいっても
賽の河原の石積みの如きものである。

そのことを自覚していないと,
教師は道を誤ってしまうのではないか。