学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

どんな本を読むべきか

2018-02-01 | 教育

小生に対して、どんな本を読んでいるのかというご質問があったので、こちらでお答えしておきたい。

私が好んでいるのは古い本である。やはり本というものは、100年ぐらいたたないと本当の価値が見えてこないのではないかと思っている。

特に好むのは、2000年以上前の本である。

教育に関する本も若いころはだいぶ読んだが、ほとんど手元には残っていない。

もう歳を取ったので、古典的価値のないものを読んで、時間を浪費したくないとは思っている。

では、学校教育について、どんな本を読めばよいかと考えてみると、とくに何を読むべきだということはないのではないかと思っている。

大事なのは、目の前の子供から学ぶことであって、日々の実践の手掛かりは子供のなかにしかない。実践の中で必要だと思った本を読めばよいと思うが、大体の場合、本を読んでも答えは見つからないのではないかと思う。

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世田谷区教育委員会「新・才能の芽を育てる体験学習」が提起した問題

2017-08-31 | 教育

世田谷区教育委員会主催の「新・才能の芽を育てる体験学習」の一環として行われたコンサート「日野皓正 presents “Jazz for Kids”」において、日野氏が中学生に対して、体罰に相当する行為を行ったという報道がなされている。

この問題に対して、どちらが悪いかというような視点ではなく、学校教育という観点から考えてみたい。

最近、「チーム学校」ということで、学校外の有識者等を学校教育に関与させようとする考え方が取り入れられつつある。今回の「新・才能の芽を育てる体験学習」についても、学校ではないにせよ、世田谷区教育委員会が主催して「新学習指導要領を踏まえた学びを生かしつつ、5つのテーマ(探求、表現、体力・健康、国際理解、環境)の中から通常の授業にはない体験・体感ができる活動」をさせるもののようである。つまり、学校教育の延長上で捉えられているもののようである。そもそも教育委員会がこのような課外活動を計画すること自体、余計なことだとは思うが、その道のプロフェッショナルを招いてこのような活動を行えば、上記の目的を超えていってしまうのは、当初から明らかなことであろう。

〈参考URL:http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/103/133/524/d00033880_d/fil/29_shinsainounome.pdf

学校教育法第11条は、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と規定している。あくまでも、「校長及び教員」の関する規定である。学校教育に関与してくる教員以外の人間が、児童生徒に体罰に相当する行為を行ったとしても、それは、人に対する物理力の行使ということで刑法上の「暴行罪」が成立する可能性はあるだろうが、体罰の枠組による児童生徒の保護は得られないことになる。

今回の一件は、今後推進されるであろうチーム学校の問題点を象徴するような事象である。学校教育と外部の方では、児童生徒に期待するものとか教育目的とかが異なっているのだということを、あらかじめきちんと吟味し、調整しておかなければならないのだが、今の教育委員会や学校にその力があるだろうか。はなはだ疑問である。

 

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「主体的・対話的で深い学び」を批評する

2016-11-23 | 教育

「主体的・対話的で深い学び」という言葉が、次期学習指導要領のキーワードになりそうだ。

まず、「主体的」という言葉から考えていこう。学校教育において、児童生徒が主体的であるとはどういうことを指しているのであろうか。冷徹に考えてみると、児童生徒が主体的であるとは、教師が児童生徒を「主体的」であるとみなしたとき、児童生徒が主体的であるということになるにすぎない。なぜならば、児童生徒は、学校における主体ではないからだ。児童生徒は、学校教育に関するあらゆる組織的あるいは教務的事項を主体的に決定する権利を有していない。さらに、児童生徒が主体としてふるまうことはそもそも期待されていない。したがって、児童生徒が主体的であるとは、教師が認める範囲内において、教師が望ましいと考える方向性において、あたかも主体であるかのようにふるまうことを指しているにすぎない。このことを銘記しておくことが、教師として次期学習指導要領下の学習指導に取り組むにあたって必要なことである。

次に、「対話的」ということであるが、児童生徒間、あるいは児童生徒と教師間で対話が成立することはとても大切なことである。対話が成立するためには、聞くこと、話すこと、そのための語彙力や文法力、表現力や思考力、さらに、相手の心情を慮ること、お互いを尊重すること、などなど、学校教育がその過程で育成しなければならない事柄を数多く内包している。決して、児童生徒をお互いに話させただけではそれは。「対話」とは言えないであろう。授業が対話的であるためには、そのまえに教え込んでおかなければならないことがかなり多くあるのだということを自覚しておく必要がありそうである。

最後に、「深い学び」ということであるが、「深い学び」があるということは、「浅い学び」があるということである。何が深い学びで何が浅い学びかと考えてみると、ことはそれほど簡単なことではない。義務教育段階では、学びの深い浅いを問うよりも先に、学びが成立しているかどうかを問わなければならないのではないか。もともと、「深い学び」という言葉が、どこから出てきたかを考える必要がある。アクティブラーニングが喧伝されだしてから、アクティブラーニングをやってみたが効果の現れない事例が明らかになってきた。普通ならば、アクティブラーニングの有効性を疑うべきであるが、そうではなく、アクティブラーニングのやり方の問題だとして、そこに深さの概念を付け加え、ディープアクティブラーニングという新たな概念を提唱して、アクティブラーニングを擁護したところから出てきた言葉だと私は解釈している。だから、「深い学び」という言葉には、それこそ深い意味を見いだしえないのである。

「主体的・対話的で深い学び」について、はなはだ曖昧な話だと知りつつ、あれこれ考えなければならない日々がやってくるのである。

 

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流行にとらわれるな

2016-08-27 | 教育

不思議でならないのだが、どうして、アクティブラーニングとかICT利活用とかいったものにすぐに飛びついてしまうのだろうか?

教科書を音読すること、黒板に書かれたことを正確にノートに書き写すこと、書き取り読み取りのドリル、計算ドリル、九九の暗唱、都道府県の位置と名称や県庁所在地、植物の生長観察の方法などなど、子供が強いられて学ばなければならないことは山ほどあり、長い学校教育の歴史の中で、それらの効果的な方法は教育現場で蓄積されてきていた。そして、その方法は、先輩教師から後輩教師へ受け継がれてきていたのである。アクティブラーニングにしても、その種の教育方法には初等中等教育には長い蓄積がある。いやアクティブラーニングは従来からあるものではないという学者がいるが、アクティブラーニングを新しいものと思わせようとするただの詭弁である。戦後経験主義全盛のころにさまざまな試みがなされ、あるいは成功し、あるいは失敗しながら、やがて一部を残して衰退していった方法に過ぎない。

もし、初等中等教育の現場で、教育効果が以前よりも落ちているというのなら、その原因は教育現場の蓄積を軽視し、分断したことにこそあるのである。学習指導要領改訂のたびごとに、教育効果の不確かな目新しい学習方法やスローガンをかかげる教育行政やそれに追随する教育学者、彼らこそが学校教育衰退の元凶である。彼らが、一度でもその主張する教育の結果責任を引き受けたことがあるだろうか。

そもそも定期的に学習指導要領を全面改訂する必要などないのではないか。教育内容の大部分には大きな変化はないのであるから、新しく加えるべき内容を加え、削除すべき内容を削除する微調整で足りるはずである。教科目の名称をいじり、教育課程の構成をいじり、評価方法をいじり、それで効果が見込めるのだろうか。全面改定のたびに現場は混乱をきたし、十分には納得できない寝耳に水のやり方や内容を押し付けられる教師はたまったものではない。教師がそのやり方や内容について勉強不足だから理解できないのではない。現場にあわないから理解できないのである。教育現場の疲弊は結局この繰り返しから起こっているのである。

教師としては、目の前の子供たちに何をどう教えるかを流行にとらわれず自分で考え抜くしかないのである。そしてそれは、一般化できる方法論ではないかもしれないが、最も誠実な教育方法と内容であるはずなのである。

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プログラミング教育で論理的思考力は身につくのか?

2016-08-22 | 教育

新学習指導要領の議論の中で、プログラミング教育が注目されている。

プログラミング学習を通じて、コンピュータがどのように動いているのかを理解させるというのであれば、従来のソフトを使えるようにするような情報教育よりは実質的な意味があるだろうと思う。その場合は、プログラミング言語の学習を当然ながら伴うであろう。イギリスなどヨーロッパはこの方向性のように見える。

しかるに、我が国では、プログラミング言語の学習ではないプログラミング学習を通じて、論理的思考力を身につけさせたいのだそうである。摩訶不思議である。プログラミングというのは、コンピュータという物分りの悪い機械に、コンピュータでも理解できる特別な言語を用いて、命令を理解させるための営みである。人間の用いている論理的思考力と、コンピュータでも理解できる論理とは似て非なるものなのである。アルゴリズムを考えてみるとわかりやすいが、人間はいちいちアルゴリズムを頭に思い描いて考えたりはしない。アルゴリズムは一見、論理的に見えるが、実のところ、論理を極めて単純化したもので、人間の場合は、そこのところのステップは通常意識しないし、数理的な問題解決は別として、人間が実生活で問題解決する場面では、ほとんど役に立たない。

実生活で役立つ論理的な思考力を学ばせたいのであれば、西洋ではキケロ、東洋では論語でも読ませたほうがよいように思うのだが、いかがだろうか??

 

 

 

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校務のICT化を考える

2016-08-21 | 教育

校務のICT化をより推進するそうである。

MS-DOSの時代からPCを学校で使うことを考え、いろいろ成績処理のプログラムなどもつくってみた経験から考えてみても、少子化が進み、在籍者数が減少傾向にある学校現場にあって、いまさら校務のICT化を推進する理由はどこにあるのだろうか??

コンピュータの得意分野は、大量のデータ処理を迅速に行うことにある。例えば、1万人のデータを処理するというのであれば、コンピュータの導入は効果的であろう。しかし、せいぜい全校生徒数百人という規模でのデータ処理は、アナログで行うほうが合理的である。それに、児童生徒のデータの保管期限は、基本情報以外は5年程度である。データ漏洩のリスクから考えても、アナログのほうが保管が容易であるし、漏洩リスクが低い。例えば、成績処理にしても、数十人規模であれば、PC利用と手計算とどちらが効率的か、なかなか判断しがたいところであろう。それに、手計算で起こるミスよりも、PCを慣れない人が起こすミスのほうが規模が大きいのである。

もともと学校というところは、子どもと教師が対面してコミュニケーションをとりながら教育を行うという、非常にプリミティブな方法で教育を行っている場所である。だから、近代学校制度が始まった頃から確立されてきたシステムを未だに適用可能であり、そのシステムを使うことが理にかなっているのである。黒板やチョーク、出席簿や学級日誌などがなくならないのもそれが最も合理的だからである。

校務のICT化によって、おそらく、このシステムに変化を起こすことはできないだろう。結局は、PCで処理したデータをプリントアウトして、紙ベースで確認し、紙で保管するというやり方から抜け出せないであろう。その結果、教員の多忙化が解消されるどころか、より煩雑な作業が増えるだけなのである。

どうして、こんなに単純なことが、まともに議論されないのであろうか。それが目下の疑問である。

 

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究極のアクテイブラーニングルーム

2016-08-20 | 教育

最近、学校にアクティブラーニングルームというのをつくるのが流行りである。

可動式でグループ活動に適した机や椅子を備え、ICT機器が使いやすいように工夫されている部屋である。

しかし、アクティブラーニングと言われる学習法が、グループ構成の自由度、身体活動の自由度を要求するとすれば、

和室に折りたたみ式の文机がいちばん合理的ではないだろうか?

そういえば、私が通った小学校は、当時すでに100年の歴史をもっていたが、校舎は昭和初期に建てられたいかめしい建物だった。小学校4年生の時にはじめて参加した児童会の会議は、なんと40畳敷ぐらいの和室に正座で行われていたのである。

正座まではいかないにしても、和室の自由度は見直されてもよいのではないか。

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学校のICT化という幻

2016-08-19 | 教育

学校のICT化が議論されて久しいが、私は日本の学校ではICT化が諸外国ほどに進むことはないだろうと考えている。とくに公立学校では、すべての学校に十分なICT環境を整えるということに対する財政負担に自治体が耐えられないだろう。ICTの特徴は、買えば終わりということではなく、メンテナンスや維持、機器の更新に永続的に費用がかかるということである。さらに、十分な容量のある無線LAN回線の整備や電源の確保など、現状の学校の予算環境で整備するには無理がありすぎるのである。

しかも、コンテンツ利用に制約が多すぎるためか、日本でいま紹介されているICTの活用は、ほとんどすべてICTなしでもできることなのである。電子黒板でできることは、黒板とチョークと模造紙と既存の視聴覚機器を使えばできることの精度をむしろ落としたものにしか見えない。

この面で、アメリカなどのICT利用の方向性とは大きく異なっている。例えば、Khan Academyなど、ICTを利用することでアナログの教育に新しい付加価値を与えているように思える。

むしろ、ICTの活用は、教育における格差の解消や教育機会の均等化に役立つものであるはずなのに、日本では、重点的にICT環境を整える学校が一部に限られているなど、格差拡大の方向に向かっているように思えるのも、気になるところである。

これも、学校のICT化そのものが、教育界の需要からはじまったものではなく、経済的な内需拡大策に過ぎないからであろう。

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アクティブラーニングの教育効果

2016-05-09 | 教育
アクティブラーニングに興味をもって、いろいろ調べているのだが、調べれば調べるほど疑問が湧いてくる。
まず、アクティブラーニングに教育効果があるという確固たるエビデンスに出会わないのである。

それはなぜかというと、以下の通りである。

アクティブラーニングに教育効果があると表明している人々は、必ずアクティブラーニングを実践しているか、もしくはアクティブラーニングに効果があると見込んでいる人々である。そのなかで、誠実な人は、客観的に教育効果を示そうとする。いろいろな調査方法はあるが、一定の効果らしきものは見られるので、それを教育効果として発表する。残念ながら、それらは常に客観的な立場から反証可能な程度の効果しか出ない。
それよりもむしろ実証を経ないでアクティブラーニングを導入すべきという人のほうが多いように思う。ディスカッションやディベートをすれば、思考力やコミュニケーション能力が身につくはずだとか、主体性が身につくはずだとかいうレベルの単純な議論である。こちらの議論のほうがよりたちが悪い。このような方々のエビデンスは、お上の意向という程度のことであろう。

日々教壇に立っている身からすれば、アクティブラーニングがそんなにうまくいくものではないことは分かりきったことである。どんな方法であっても、経験を積んだ上手な教師がやれば効果を生むだろうし、下手な教師がやれば何をやっても駄目である。講義の上手な先生はたぶんアクティブラーニングもやがてはうまくやってのけるだろう。ただし、「やがては」である。教育方法が違えば、経験の蓄積がすぐには役立たないことがある。ましてや下手な教師がやれば、最初は目新しさでひっぱれても、そのうち授業は崩壊するだろう。それだけ、教育方法をドラスティックに変えることはリスクが伴うのである。

結局のところ、アクティブラーニングは、アクティブラーニングの教育効果がどうであれ、アクティブラーニングを導入するということに意味があるということなのだろう。それは、一種のイデオロギーである。その真意は、学校を「変えたい」という単純な情念でしかない。いまやアクティブラーニングにあらずんば、授業にあらずとでも言いそうな勢いである。

もともとアクティブラーニングは、アメリカ方面で、高等教育現場における講義のオールタナティブとして提唱されたものである。かの国の議論は非常に穏当で、アクティブラーニングの教育効果を必要以上に喧伝することもなく、各教員の志向にしたがって様々な手段を取りうる幅をもたせることがユニバーサル化した大学においては必要だという議論である。その背景には、文化的背景を異にする様々な学生をいかに導くかという課題が横たわっているのである。さらに、アクティブラーニングに真っ向から反対する意見が、有力新聞に載ったりする。我が国の教育談義にはない懐の深さと健全さがある。

それに、大学は洋の東西を問わず、近代以降ずっと講義形式の授業を続けてきたわけで、それでもって思考力や判断力が育たなかったり、主体性や協働性が育たなかったりしたわけではないことは、歴史を学んだ常識のある教養人なら分かりそうなものである。

アクティブラーニングを振りかざすならば、もう少ししっかり勉強してからにしたほうがいい。
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部活動を再び考える

2016-05-08 | 教育
部活動の指導を誰がするかとか、部活動の在り方をどうするかなどという議論が新聞紙上でも取り上げられているようだが、どうも根本のところがおかしくなっているように思う。

そもそも部活動は本質的には正課外の活動であって、学校の教育課程に位置付けられてこなかったのは当たり前のことなのである。
つまり、学校の勉強の終わった後などの気晴らしとして位置付けられていたはずである。だから、部活動はもともと趣味的活動である。同じような部活動は会社にもあった。会社の昼休みにキャッチボールをしたり、コーラスをしたりしていたのと同じである。官公庁などでも昔は昼休みに職員がテニスをしているのを見たことがある。これらと全く同じ類のものである。

だから、教員と生徒がお互いに好きなスポーツや趣味を一緒に楽しむというのが本来の姿であって、やれ部活動の教育効果がどうだとか、教員が素人だから指導ができないとか、外部のコーチを使えだとかいう議論は、大元のところで間違っているのである。

学校制度の中では、部活動の位置付けは制度上も予算上も、現在に至るまで「気晴らし」以外のなにものでもない。教育効果を云々するほどの措置は取られていないのであり、改革案も結局はその範囲で考えているのである。例えば、外部のコーチと雇うといっても、本当のプロフェッショナルを雇う場合はまれであろう。そんな予算が出るわけがない。せいぜい、地域の人で趣味でやっている人をコーチと称するに過ぎない。結局、「気晴らし」としてしか考えられていないにもかかわらず、あたかも教育の一環であるかのような議論をする。詭弁である。

そのことを、きちんと認めることが大事なのである。
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教育言説を考える

2016-01-02 | 教育
そうであっても,そうでなくてもよいことを,そうでなければならないように主張することは,意味がないばかりか有害である。

世の中の教育に関する言説は大体の場合,そのたぐいである。それほど一所懸命に主張しなくてもよい,ほぼどうでもよいことなのである。

ほとんどすべての教育言説は,逆もまた真なのである。

教育することは,人間にとって,子供を育てていくうえでのあたりまえの営みである。教育は生きていくうえでの本質的欲求であって,もともと何か目的を意識して行う行為ではない。だから,合目的的に教育を語ろうとするとどうしても嘘っぽくなるのである。とにかく,教育に関することはどうとでもいえるし,教育について語られることは大して意味がないことが多いように思える。

学校にしても,単純に言って,教師は,教えたいから教えているのである。それ以上でもそれ以下でもない。教師にそれができないようにしてしまうような教育言説が,学校教育をダメにするのである。
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チーム学校の危うさ

2015-11-22 | 教育
「チーム学校」,また,変な用語が登場したものだ。

教員を中心に多様な専門性を持つスタッフを学校に配置して,学校の教育力・組織力を向上させるのだそうだ。教員は授業など子供への指導に一層専念できるそうだ。そのあたり,校長が適切にマネジメントするそうだ。実に結構なことである。しかし,よくもこんな危なっかしい提案がなされるものだ。

教員が何でもやっていたものを,いろいろな専門スタッフを配置して,教員の負担を減らすということは,もともと中小企業でアットホームにやっていた会社が,野放図な業務の多様化のためにたちゆかなくなり,大企業に転換しようとするようなものである。これが成功するためには,莫大な資金が必要であることは,中学生でもわかる理屈であろう。

そもそも,中小企業が,業務多様化でたちゆかなくなった場合,こんな転換をはかれるものであろうか? この転換がはかれるのは,その企業が,業務多様化の成果が上がって莫大な利潤をあげていて,企業規模を拡大する余裕がある場合に限られる。

いまの学校の現状は,逆である。仕事は増えたが,成果はあがらず,資金的な余裕もない状況である。株主たる国や自治体も大規模な資本を投入するつもりはなさそうだ。それどころか,専任教員数は減らそうとする意図が見え見えである。あたりまえである。少子化が進み,財政状況がはかばかしくない状況で,学校に対して,資金投入する余裕など,我が国にはないのである。

かくして,学校の問題の解決策は,「チーム学校」などではない。業務多様化でたちゆかなくなっている学校がやるべきことは,ただひとつ。業務そのものを減らすことである。そのためには,「学校ではやらない」ことを国が明確にすればよいだけである。例えば,「義務教育学校は,学習指導要領に定められた内容だけを授業するところであり,他のことはやらないところである」とでもしておけばよいのである。まずは,所定の勤務時間外は電話は「本日の業務は終了いたしました」というメッセージを流すだけにすればよい。研究開発指定も煩瑣な事務書類提出も地域連携も特色ある学校づくりも保護者対応も部活動もやらなければやらないですむのである。また,授業についても,宿題をしなさいと言って宿題をやらない子供,教師の指示の守れない子供に授業を聞かせる義理はない,そもそも授業を聞いて学力をつけるのは自己責任であるということにしておいて,到達度の低いものは義務教育であっても進級できないことにすればよいだけである。逆に言えば,出席日数が足りなくても到達度が高ければよいということにしておけばよい。学校が本来勉強するところであるとするならば,それでよいのである。質問しにくれば答えるが,こちらから補習に呼び出すなどという甘いことをする必要はない。

学校がさまざまなサービスを取り込んだまま,「チーム」化するのでは問題の解決にならない。
学校がさまざまなサービスを排除して,そのサービスが本当に社会的に必要ならば,社会にそのサービスを行う者があらわれるであろう。
めざすべきは,「チーム社会」である。
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教員免許状更新講習制度の闇

2015-11-12 | 教育
教員免許状更新講習制度の闇に気づいてしまった。

教員免許状更新講習には,免除対象者というものがある。

校長(園長)、副校長(副園長)、教頭、主幹教諭または指導教諭
教育長、指導主事、社会教育主事、その他教育委員会において学校教育又は社会教育に関する指導等を行う者
免許状更新講習の講師 など

「教員を指導する立場にある者」は,更新講習の受講を免除されることになっている。

ところが,旧免許状所有者の場合,受講義務者以外は,免除申請ができない。

受講義務者というからには,現場で児童生徒の教育にあたっている現職教員のみを指すのであればわかるが,ちゃっかり,「教育長、指導主事、社会教育主事、その他教育委員会において学校教育又は社会教育に関する指導等を行う者」も入っているのである。この人たちは基本的には教育職員免許法にいう教育職員ではないので(教員籍を有したままの場合はその限りではないかもしれないが),教員免許状を必要としない職であろう。にもかかわらず,受講義務者なので,この人たちは免除申請可能である。受講義務者といっても,もともと更新講習を免除することになっているのであるから,受講義務者に入れていること自体,変である。

ところが,免許状更新講習の講師は,大部分が大学の先生方である。講習を行っている大学の先生方で,過去に幼小中高で教鞭をとられていた方で,現在は幼小中高の現場を離れているが,今後も現場で教える可能性のある方もいるだろう。その方たちは,受講対象者には入るが,受講義務者には該当しないので,免除申請ができないのである。つまり,もし,この先生方が,ご自身の免許状を使える状態にしておきたいと思ったら,更新講習の講師をやりつつ,同時期に更新講習を受けなければならないのである。

このように,教員免許状更新講習制度は,教育委員会関係者にとても有利に作られており,彼らは何もしなくても免除申請でき,更新講習の講師を通常業務プラスアルファでやっている大学の先生方は「教員を指導する立場にある者」ということになっていながら免除申請できないばかりか,免許更新しにくいという変な制度になっているのである。

どうしてこんな差をつけるのだろうか。
闇である。
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「感動」「達成感」の陥穽:組体操問題を考える

2015-11-07 | 教育
高層化した人間ピラミッドや人間タワーの事故の問題が話題になっている。

この問題は,現代の学校の病理を端的に表しているように思う。「感動」や「達成感」といったものを,教育の目的であるかのように言うようになったのは一体いつのころからだろうか。私が教員を始めた30年前には,少なくとも「感動」や「達成感」を目的にして教育するなどということは考えもつかなかった。いかに教育内容を子供に伝えていくか,子供が理解できたり,課題を乗り越えたりできるかということを,知的,科学的,経験的見地から追求していくのが教師だと考えていた。いつの間にか,時代は変わってしまったようだ。しかも,「感動」は子供の感動だけでなく,運動会を見に来た保護者の感動のためでもあるという。ほとほとあきれかえる。見ている者の感動などを目的とするならば,それは運動会ではなく,サーカスか曲芸か猿回しである。
しかも,組体操を完成させて,教師まで感動するという。さらにあきれてしまう。子どものやったことなどに,プロの教師なら感動などしないのである。常に冷静に子どもを見ているのがプロの教師である。教師が感動してしまっては,子どもの事実が見えなくなってしまう。外科医ならば,手術の成功にいちいち感動などしないだろう。弁護士ならば,訴訟に勝ったことにいちいち感動などしないだろう。子どもの成功に感動している教師など,プロ意識に欠けるのである。

そもそも,「感動」や「達成感」は,子どものものである。そして,感動や達成感を感じるも感じないも,子どもの自由であり,教師がコントロールできるものではない。加えて,教師が自らの教育実践に,「感動」や「達成感」を感じているならば,だいたいにおいてその教育実践は失敗なのである。私は,若いころにその点で過ちを犯した。ある行事の終わった時に,私はとても達成感を感じたのである。しかし,傍らの子供を見ると達成感を感じている様子がない。よくよく考えてみると,私は,子どものやるべきことを自分でやってしまっていたのである。その反省を胸に次の年の行事を迎えた。私は,達成感を感じなかった。傍らの子供は達成感を感じていたようだ。子ども自身が考えて子ども自身が成し遂げたからである。教師が,もし達成感を感じたとしたら,その教育実践にはどこかに間違いがある。私は,そう自分に言い聞かせている。教師が達成感を感じるのは,子どものためにではなく,自分のためにその実践がなされた証拠だからである。
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時分の花

2015-07-30 | 教育
教室で子供たちを教えていると,時として,子供たちのすばらしい発想やすばらしい協働に出あうことがある。そのようなとき,子供の力はすばらしいとか,優れているとかいうことに私は感心したり感銘を受けたりはしない。冷静に子供たちの営みを観察するのみである。

世阿弥の『風姿花伝』は,能芸論の古典であるが,同時に優れた教育論でもある。その『風姿花伝』の「年来稽古條々」に以下のような言葉がある。

「人も讃め,名人などに勝つとも,これは,一旦珍しき華なりと思ひ覚りて,いよいよ,物まねをも直にし定め,なほ,得たらん人に事を細かに問ひて,稽古をいや増しにすべし。されば,時分の花を誠の花と知る心が,真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ,人ごとに,この時分の花に迷ひて,やがて,花の失するも知らず。初心と申すはこの比の事なり。」

これは若者への戒めの言葉であるが,学校教育の場面になぞらえて考えてみると,子供が授業で見せるすばらしさや輝きは,「時分の花」というべきもので,やがては失われゆくものである。「時分の花」をほめられ,ちやほやされていると,「時分の花」を本当の「花」であるかのように思いこみ,「真実の花」から遠ざかり,やがては「花」が失われたことにも気付かない。「時分の花」をこれは本当の花ではないと思い定めて,年長のその道の先達(学校では教師ということになるでしょう)に事細かに教えを請い,教えに従ってしっかりと稽古を積むことが大事なのだということになるでしょう。

教師であれば,子供の見せる一時の輝きに目を奪われてはいけないのである。それは,「時分の花」にすぎず,彼らが求めるべき「誠の花」ではないことを肝に銘じておかなければならない。そして,「誠の花」に向かうための道を指し示してやらなければならないのである。

子供たちが有能であるとか無能であるとか,「時分の花」を論評しても意味がない。

教師の使命は,「時分の花」を超えた「誠の花」を見据え,子供を常に「初心」に立ち戻らせることにこそある。
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