学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

服従力

2012-02-09 | 教育
 昨今は,「力」ばやりである。生きる力,人間力,言語力,学士力,などなど,文部科学省御自らが,日本語の健全な言語感覚を大胆に超越する形で,「力」を強調なさるのには恐れ入る。その大胆さにあやかって,わたしもひとつ,作ってみた。いわく,「服従力」である。現代の学校に欠けているのは,正にこれである。服従する力,服する力,従う力である。先生や大人のおっしゃったことをきちんと聞き,言われたとおりにやる力,いいつけを守る力,黒板に書かれたことをそのまま写す力,以前習ったことを忘れず,ずっと守り続ける力などなど。子どもたちの,個を尊重したり,「よさ」を認めたり,主体性を発揮させたりしている間に,この「服従力」が大幅に低下しているのである。考えてみれば,人生において,主体的に自ら行動するよりも,他者の指示通りに動いていることのほうがはるかに多いのである。したがって,この指示に従い,きちんと服従する力がないと,健全な社会生活を営むことはできない。むしろ,個性や主体性よりも,この「服従力」に富むほうが,学力も高かろうし,人間関係もスムーズであろう。すなわち,将来の仕合せを約束する可能性が高いのである。社会では,多くの職場が,本音では,主体性などより「服従力」を求めているはずだと思うが,間違いだろうか。いまこそ,「服従力」を育成することを本気で考えるべきである。教師は,児童生徒をきちんと従わせることを,もっと真剣に考えなければならない。なんてことを言うと,教育学者の偉い先生方や教育熱心な保護者の皆さまに叱られそうだが,要はバランスの問題である。

子供のよさを過大評価してはいけない

2012-02-04 | 教育
 現在の教育の混迷は,ひとつには,「子供のよさを認めよう」という動きが強まりすぎ,学校の研究課題などに「よさ」という言葉が氾濫しだしたことに起因している。なぜなら,子供には「よさ」もあれば,「わるさ」もある。そのいずれをも冷徹に観察するのがプロフェッショナルとしての教育者である。ところが,この「子供のよさを認めよう」という動きは,「わるさ」に目を向けることを避けさせるように作用しすぎた。確かに減点主義のはびこっていた教育現場にあっては,子供の「よさ」を認めようとする姿勢は一定の教育効果を生んだであろう。しかし,これは,バランスの問題であって,「よさ」を認めることがすなわち教育の改善につながったわけではないのである。そこのところをはき違えてしまったのではないかと思われる子供中心主義者の跋扈には辟易している。
 私は,目の前の子供を信頼しない。ただ目の前の子供がよりよく成長する素地をもっているということは信じている。しかし,実際に目の前の子供がよりよく成長すると保証することはできない。それが私の教育観の原点である。だから子供の現在の「よさ」は,成長可能性の一面でしかないと思っている。「よさ」をほめたから伸びるというような単純なものではあるまい。「わるさ」については,成長を阻む要素であるから,これに対しては,厳しい態度をとる。よりよい成長を信じつつ祈りつつ,厳しく対処するのである。
 昨今,子供の作文を直さない教師がいると聞く。とんでもないことである。子供の作文に対して,表現の不備,漢字の間違い,文法の過ちなど,修正してやらなければ作文が書けるようになどなるはずがない。きちんと朱を入れ,書き直させる。これが教師の仕事である。子供の作文の「よさ」を認めてほめて終わり,などというのは,教育の放棄でしかない。
 ややこしい教育理論などにまどわされず自然体で真剣に子供にあたれば,おのずと教育の在り方はわかってくるはずなのだが。

教師の学力

2012-02-02 | 教育
 真剣に考えなければならなくなってきたことは,教師の教養あるいは知識レベルということである。教職の専門性ということを言い立てる割には,教師の教養あるいは知識レベルは保証されていない。
 その影響は特に小学校教諭において顕著である。御存知のように小学校教諭は全教科を教える。しかし,現行カリキュラムや入試制度,免許法制度やあるいは教員採用試験の方式によっては,例えば,日本史に触れたのは中学校が最後とか,数学や化学にはまともに取り組んだことがないというような先生がすでに教壇に立っているのである。大学でも,教養課程が多くの大学で廃止されて久しく,広く浅い知識教養を得ることは学校教育の中では難しくなっている。それに加えて,教科書の記述も,児童の主体性を尊重したり調べ学習を尊重したりするためか,非常に薄っぺらな子どもに迎合したかのような漫画のキャラクター入りのものまで出ている始末である。このような状況において,子どもの主体性を発揮させたり,子どもの「よさ」を重視したりすることは極めて危ういことである。それは,子どもに学ばせないのと同義である。なぜなら,教師の方も,その教科内容についてさほど深くは理解できておらず,教科書にも詳しく書いてあるわけでもなく,授業は子どもの興味関心を重視して進められる,それは子どもを遊ばせているのと同じである。「さあ,班になって,何を調べるかを話し合いましょう」,「それではグループごとに調べましょう」,「調べたことを発表しましょう」「調べたことを新聞にしましょう」,「それぞれの班にそれぞれよいところがありましたね。すばらしい」。こんな授業で,子どもに何が身につくのであろうか。独りよがりで自信過剰な中身のない人間を量産しているにすぎないのではないか。
 教育というのは,我々が先祖から受け継いだ文化的な遺産を次世代に誤りなく伝えていく営みである。そのためには,時には知識をたたき込むことも必要であろうし,子どもの興味関心をより伸ばしていける方向付けを教師がしてやることが必要であろう。子どもの「よさ」を認めるのではなく,子どもを「よりよく」するためでなければ,学校の存在価値はない。子どもを新しい世界に引っ張り出す力が教師になければならない。それこそが本当のeducationの意味である。