学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

「辞書引き学習」を考える

2013-09-16 | 教育
 少し前から「辞書引き学習」というのがクローズアップされ,小学校などに取り入れられているようだ。小学校低学年から辞書を引かせ,見つけた言葉の箇所に付箋をはっていくというものだ。膨大な数の付箋を貼った,すでに辞書の形が損なわれている辞書をご覧になった方もおられるであろう。
 私はこのやり方がどうも腑に落ちない。書物に対する姿勢ということに対する理解が根本的に間違っていると考えるからだ。
 書物に対しては,一方で,大切に扱い,決して汚してはならないという考え方がある。かつての学校は,この考え方をとっていた。辞書を使うときは,まず手を洗い,汚い手では触らないようにする。辞書を開くときは,必ず真中からひらき,決して端から開いてはならない。変な折り癖をつけないようにである。書き込みなどはすべきではないし,もしも備忘のために線をひくにしても,ごく控えめにすべきである。このような考え方である。夏目漱石の『三四郎』の「偉大なる暗闇」のモデルといわれる旧制一高教授であった岩元禎は「書物というものは,相当な見識を持った著者が心血を注いで作ってあるんじゃ。それに対しては相当の礼を以てするのが当然で,書物を汚すなどは怪しからん。線を引いて,ここが良いのあそこが面白いのと,学生の分際でかれこれいうのは,僭越の至りじゃ」(高橋英夫『偉大なる暗闇 師 岩元禎とその弟子たち』(新潮社,1984年)p.43)と言ったそうである。ここには,書物をただ金銭で購える物として捉えるのではなく,書物を著者や編者の刻苦の結晶とみて,それらの人々への敬意を大事にする考え方が表れている。
 一方で,書物を神聖視せずに,勉強のためには,どんどん汚してよいのだという考え方もある。線をひいたり,付箋をはったりして勉強の跡を記していくべきだとする考え方である。もちろん,古来から洋の東西を問わず,書物の余白などに,さまざまな書き込みをしたり,注釈をほどこす習慣があったことを思えば,これもまた学問の姿勢としては,見識のひとつであろう。ただ,このような考え方を取る者であっても,もとの形を損なうほどに書物を痛めつけてもよいと考える者は少ないであろう。
 書物の読み方,使い方については,このような異なった方向性があるのであり,どちらの考え方にも歴史的背景があり,道理がある。文化の基礎基本を教えなければならない小学校低学年においては,このような書物に対するさまざまな考え方を丁寧にすくい取った教育が行われるべきである。少なくとも,書物の形を損なうほどに付箋を貼ることをよしとするような教育を行っては,教師の見識が疑われるのではないだろうか。

中庸ということ

2013-09-13 | 教育
このブログも長らく更新しないままになってしまった。ずっと書き続けるにはなかなか根気がいるもので,書こうという気にならないときには何も書けないものである。さて,ずっと更新しないままでも,毎日たくさんの人が見にきてくださっている。ありがたいことである。

さて,教育ということをよくよく考えてみると,一番大事なのは,「中庸」ということではないかと近頃考えている。要は,極端に走らずほどほどがよいということである。教育を論ずる人は,「Aのやり方はだめで,Bの方法に限る」とか「これからの時代の教育は,○○でなければならない」という言説を好む人が多いようである。そして,その時代時代によいとされた方法が長続きしないのも,また昨今の我が国の教育界の実情である。これは,教育に携わる人々の,二者択一的な思考法と,キャッチフレーズ好きのせいだと思う。二者択一的な思考法とは,例えば,問題解決学習か系統学習か,教科書「を」教えるのか教科書「で」教えるのか,暗記か理解か,知識か思考か,などなど。どちらがよいかという議論を果てしなく続けてしまうのである。それはそれで意味のあることかもしれないが,大して意味がないとも言えるのである。結局は,どちらも大事なのである。むしろ,どちらかに偏ることがいけないのであって,その場その場で臨機応変に,子どもたちの成長にためによい方法を,教師が自分で考えて選択すればよいことである。もうひとつの,キャッチフレーズ好きについてであるが,これまであらわれてきたさまざまな言葉,「知識基盤社会」「グローバル化」「PISA型学力」などなど。これに加えて言えば,「生きる力」などもそれにあたるかもしれない。これらのキャッチフレーズの特徴は,概念規定が明確でないかもしくは熟していないということである。つまり,論者によって異なった意味で平気で使われるタームであるということである。したがって,これらの言葉は,教育現場での実践には本当には役に立たない。教育現場にはもっと地に足のついた,いわば即物的な現場感覚のほうが大事である。鉛筆が正しく持てない子には持てるように教える,漢字が書けない子には漢字の練習をさせてできるまで見てやる,作文の間違いはきちんと赤を入れて訂正してやる,というようなことである。よい行いはほめ,よくない行いは叱る。学校というところは,時代の変化によって影響を受けない不易の部分,社会において「正しい」とされる行動様式を基礎から身につけさせるところである。その「正しさ」が緩んだ時に,学校教育の危機が訪れる。現今の教育論議をみると,その学校教育の「正しさ」を緩ませる方向にしかすすんでいないことがよくわかる。学校教育において「新しさ」などは枝葉末節である。学校教育を維持するためには,一人ひとりの教師が,かまびすしい教育論議はほどほどに聞いておいて,目の前の子どもにとって,よいと思うところをほどほどに取り入れればよいのである。とにかく極端に走らないことである。自分のなかでの「中庸」を守る,すなわち,「万事ほどほどに」ということである。それを許さない圧力が諸方面から教師に対してのしかかっていることも重々承知はしている。しかし,「万事ほどほどに」することが,学校教育を意味のあるものにしておくための最後の砦である。