学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

単純さということ

2012-04-14 | 教育
 学問を究めようとする者は,「真理」を希求する。そして,「真理」が「真理」であるためには,美しい単純さが必要である。学問とは,複雑で混沌とした事象の中から,ある美しい単純な原理や秩序を見い出そうとする営みである。しかし,その単純さは,長い緻密な努力の果てに得られるものであって,決して一朝一夕に見い出されるものではない。これは,自然科学でも人文科学でも,分野を問わず同じであろう。だから,学問を究める者は,この単純さに到達する過程で,自らの偏見(バイアス)に気づかされ,自らのバイアスと戦いながら,そして,いくたびも「懐疑」におそわれながら,一歩一歩,歩みをすすめるのである。

 ところが,このような苦しい道をたどらなくとも,単純さに到達することはできる。それは,複雑で混沌とした事象の全体を見ずに,ごく一部だけを見て,判断を下すことによって可能になる。当然そのような方法で到達した単純さは,「真理」とは似て非なるものではあるのだが,「懐疑」を断ち切って,それが「真理」であると言いきってはばかることなければ,それが,学問の果てに到達し得た「真理」であっても,このような危うい「真理」であっても,ぼろがでないかぎりは,ともに自らの思考の結果であるとは言えるのである。その「真理」の質がどのようなものであるかを正確に判断できるのは,やはり前述のような学問的経験に触れたことのある者であろう。この学問的経験を「教養」という。
なぜ勉強しなければならないかといえば,このような「教養」を身につけるためであって,「真理」であるかのようによそおって近づいてくるものを退けることのできる力を身につけるためである。その意味では,「真理」を見い出すことは並大抵の努力ではできないことなのだ,ということを骨身にしみてわからせる必要がある。これは,学問であれ,職業訓練であれ,まったく同じである。教育とは,実は,自らが到達したいと思っている地点には到底到達できないのだということを知らせることにその本質がある。

 このような視座から,現代の学校教育を考えてみると,間違いだらけである。例えば,PISAの影響による思考力重視の傾向によってか,現在の学校では,自分の考えや主張を述べることをよしとする傾向がある。しかし,たかだか未熟な子どもの考えである。そのような考えに自信をもってもらっては困る。少し賢い子が,相手を論破するような経験を積んでしまうと,その子どものバイアスは決して修正されなくなるのである。それは,我が国の教育に,論理的思考力の育成に関する基礎的な共通認識が形成されていないからである。西欧の場合は,「考え方」に関しては,とても厳しい規範がある。その規範の上に,思考が成り立っているのである。いわば,論理とは,文化を異にする者が共通理解をするための不可欠のツールなのである。西欧における思考力の教育とは,この規範すなわち「型」を身に着けさせることに主眼があり,自主性だの個性だのというようなものは,この「型」を身につけたうえでの話なのである。ひるがえって,現代のわが国には,その論理の「型」を重んじようとする気風が希薄である,というよりもむしろ,そのような「型」が存在するという自覚を教師ですら持っていない場合が多い。情緒的なアピールの方が優位を占める文化的背景のなかで,子どもたちなりの考えなどを重視したりすれば,独断的な過ちを強化し,独りよがりの理屈を振り回すことがよいことのように思わせて自信をもたせているに過ぎない。

 それだけではない。昨今のマスコミの状況,政治状況,インターネットをはじめとするITのなかで取り交わされる情報,すべてが「真理」に対する謙虚さを失ったかのようである。謙虚さをうしなえば,残されるのは愚かなる単純さである。愚かなる単純さの導くものは何か,歴史をみれば明らかであろう。

学校の統廃合を考える

2012-04-08 | 教育
少子化がすすむと,行政が学校の統廃合を計画するようになる。当然,地域や卒業生からは反対の声がおこる。それを避けるためか,学校の統廃合が,教育改革とセットになっている事例も多く見受けられるようになってきた。そのときに多く使われる教育改革の論理が,学校選択制や一貫教育校の新設である。学校選択制を行えば,市場原理が働き,人気のない学校が生まれる。そうすれば,その学校を廃校にしやすくなるわけである。あるいは,小中一貫,中高一貫などの学校を作れば,やり方によっては,複数の学校の統合が正当性をもつわけである。これは,財政という純粋に行政的な問題に,教育の論理を重ね合わせた,非常に巧妙なやり方である。
学校は,もともと政策的に設けられたものであるから,行財政の論理によって統廃合されることはやむを得ないことである。しかし,同時に学校は,「母校」という言葉もあるように,そこで生活した者にとっては,情緒的に大きな拠り所になっていることもまた多いのである。学校でであった教師がいなくなっていても,自分が学んだ教室,机,そして,校庭の樹木,そういったものを,自らの若き日の思い出として,支えとしている人も多いのではないだろうか。そこに,戻る場所がある,思い出に浸れる場所があるということは,理屈抜きにその人にとっては大切なことなのである。
とはいっても,子供の数は減り続ける。しかし,学校は,そこで学びたいという児童生徒が最後のひとりになるまで守られる,そういう行政判断もあってもよいのではないか。どんどん新しい教育政策を打ち出すことも結構だが,そのためのお金があるのであれば,古くから続いている学校を守ることもまた意味のあることではないかと,年寄りの私は思うのである。