学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

ノーブレス・オブリージュ?

2006-02-28 | 教育
社会的に高い地位にいる人や才能にめぐまれた人に対して,
ノーブレス・オブリージュが必要だ,
それがないから腐敗するのだという議論が目に付く。

しかしながら,民主主義社会においては,
権力の腐敗は前提ではなかったか。

権力の腐敗は,常に市民から監視され,
いつでも権力を交換可能にしておくのが
民主主義社会のシステムである。

ノーブレス・オブリージュは,
階級の固定化した社会での倫理である。

階級のない,あるいは流動的な社会で
ノーブレス・オブリージュを持ち出すのは
危険である。

この言葉が持つ倫理観を
もっと慎重に見る必要がある。

この言葉はもともと,
高い身分にいる者が,
自らの命を捨てても
他に奉仕する義務を果たす精神である。

このような厳しい倫理的規制を課すことによって,
高い階級にある者の正当性が確保されていたと考えられる。

このような精神は,
封建社会ではぐくまれた倫理であり,
生産労働に従事する階級と,
社会の秩序や安全の維持を担う代わりに
生産労働を免除されていた階級の区別があって
はじめて成立する倫理である。

現代の日本のように,
階級社会の片鱗もなく,
社会的階層が,賃金や儲けの多寡によって
はかられているにすぎない社会においては
ノーブレス・オブリージュは定着するはずがないのである。

ノーブレス・オブリージュの精神は尊いが,
残念ながら封建遺制である。
これらの倫理を
現在の社会的に上層にいると自認する人たちが使うときには,
自らをノーブレスであるとする心地よさだけを享受し,
結局オブリージュは放置されたままになるのである。

なぜならこのオブリージュをきちんと果たしていると,
社会的な地位を確保し続けることができなくなるからである。

今の日本では,
むしろノーブレス・オブリージュの精神をもつものは,
日夜,身を危険にさらして働いている
名もなき人たちのほうであろう。

ノーブレス・オブリージュなどというよりも,
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」で十分ではないか。

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エリート教育は不可能

2006-02-26 | 教育
最近,エリート教育を標榜する中高一貫校などが話題になっている。
また,日本でも,横並びの教育ではなくて,
世界に通用するエリート教育が必要だという議論もあるようである。

果たして,現在の日本でエリート教育が可能だろうか。

エリートを,知的な側面でも,
人格的な側面でも秀でた人物と捉える人々の間で
イギリスのパブリック・スクールを模範にして・・・とか
ノーブレス・オブリージュが必要などという言葉を聞くが,
歴史や文化の相違を捨象してこのようなものを取り入れることは
不可能である。

『自由と規律』などに描かれている
古きよきパブリック・スクール教育の精神は
階級社会の中で高い階級に位置するものが
その階級にあることに伴う義務や倫理を教えるもので,
そのために過酷な修練をも与えている。

ひるがえって日本では,
そもそもノーブレス自体が存在しない。
せいぜい,商工業ブルジョワジーか
「知的」エリートが存在するのみで,
彼らは階級としては,市民階級である。

ブルジョワジーが,
自らをノーブレスであると称する社会は,
拝金主義におちいる。

なぜなら,ブルジョワジーがノーブレスであるとすれば,
ノーブレスであることは金によって維持されているからである。

この点,真のノーブレスが,
職業労働から解放されていたことと
大きく異なる。
ノーブレスは,無一文であってもノーブレスである。

「知的」エリートもまたノーブレスではない。
「知的」エリートは,テクノクラートにはなり得ても,
ノーブレスにはならない。
テクノクラートは,プロフェッショナルであって,
やはり職業人なのである。
アマチュアリズムを保持し続けるノーブレスとは
大きく異なる。

こう考えると,日本において,エリート教育と称し,
そこに古きパブリック・スクールにおけるような
人格の陶冶を求めることは全くの論理矛盾である。

日本において,もっとも成功したエリート教育は,
旧制高校における教育であろうが,
旧制高校に入学できる者は,
すでにさまざまな淘汰を経ている者たちであり,
彼らがやがて大学を経て社会に出たときに
その特権が社会的に認知されていたからこそ,
擬似的な階級を形成することが可能であったと考えられる。

大衆化した現在の中等教育において,
エリート教育を標榜することは上記の考察からみて
ほぼ不可能である。

エリートといい,ノーブレス・オブリージュというとき,
その本質をつきつめて考える必要がある。
日本でこの言葉が使われるときは,
せいぜい,ブルジョワジー志向か,
テクノクラート志向にすぎず,
そこで必要なのは,ノーブレス・オブリージュではなく,
職業倫理である。

日本の志向するエリートとは,
優れた職業人にほかならず,
その意味でのエリートの育成のためには,
中等教育までは普通教育をほどこし,
高等教育段階の職業専門の学校を拡充し,
専門的知識と職業倫理を叩き込むことが
最も有効な手段である。
しかしこれはエリート教育というより
職業専門教育である。

ともあれ,
職業人を,職業人以上の「階級」とみなすことは,
極めて危険なことである。
それゆえ,日本のエリートをノーブレスと混同する論調は,
はなはだ危険である。

むしろ,自らを一市民に過ぎないと
認知していることが大切で,
そのほうが健全である。

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学校教育にとって価値のあるもの

2006-02-23 | 教育
学校教育にとって価値のあるものは何か。

現場の名もない教員一人ひとりの実践だけである。

世上もてはやされる「教育」にどれほどの価値があるのか。

価値があるのは,
現場の名もない教員一人ひとりの失敗を繰り返しつつの
個々の実践だけである。

子どものために一生懸命教える。

ただそれだけである。

そのような実践は,決して世の中でもてはやされることはない。

子どものために自らの心身をすり減らして
日々困難な教育現場で格闘している名もなき教師の尊厳を,
この国はいつまで無視し続けるのか。

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中高一貫教育の長所と欠点

2006-02-19 | 教育
公立の中高一貫教育がたいへんもてはやされているようだが,
中高一貫教育にもまた長所と欠点がある。
そして,その長所と欠点は,表裏一体となっているのである。

長所とされる高校受験にふりまわされない
勉強ができるという点については,
相当に自覚的に勉強できる生徒以外には,
単なる中だるみ現象を生む欠点となる。

長所とされる教師と生徒,生徒と生徒の
人間関係をじっくりと築けるという点については,
その学校の人間関係になじめなかった生徒については
リセットが不可能なので,相当な苦しみを与えることになる。

長所とされる教育課程の一貫性については,
もともと中学校と高等学校という異質な文化をもつ
学校(教員)を合体させるわけであるから
すんなりスムーズな一貫性ができるわけではない。
成熟した教育課程をつくりあげるためには,
私立に学ぶ必要があるであろう。
また教科書も中等教育学校に対応したものが
そろっているわけではないので,
教育課程の一体化にはまだまだ時間がかかる。

長所とされる大学受験における優位性は,
中高一貫校の教育の成果ではない。
そもそも私立の中高一貫校は,
入学試験によってフィルターをかけ,
もともと資質のある生徒をそろえているから
大学受験における優位性はもともと担保されているのである。
はっきりとした入学試験を実施することのためらわれる
公立校においては,大学受験における優位性は担保されない。

結局,中高一貫教育の効果は,
6年間という年齢の幅のある集団を生かすことでしか生まれない。
すなわち,
異年齢集団を生かした何らかの学習活動か,特別活動を
有効に組織することである。

そのことに思い及ばない中高一貫校には
あまり魅力を感じない。

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学力低下の原因

2006-02-16 | 教育
PISAをはじめとする国際的な学力調査で,
日本の子どもたちの順位が下がったということで
学力低下が大きな話題になって久しいが,
データにあらわれる学力低下の原因を以下のように
考えてみるのはいかがであろうか。

単なる憶測である。

このような学力調査の対象は無作為抽出で選ばれるのであろう。
選ばれた児童生徒はいい迷惑である。
成績にも関係なく,全くメリットを感じられない試験のために
かなりの時間拘束されることは苦痛であったであろう。

昔の子どもたちなら,
このような試験でも,
メリットのあるなしにかかわらず
まじめにやるべきものだという規範意識があったであろうから,
懸命に取り組んだであろう。

今の子どもが
このような試験に
まじめに取り組むであろうか。
ことに記述式の問題など
めんどくさくてやってられないのである。

このような気持ちがストレートに出てきたのが
試験結果に現れたのではないか。

そう勝手に考えてみると,
学力低下ではなく,
学校が行うことに対する子どもの側の意識の変化,
すなわち,
学校でやることは,
何でも一生懸命やるべきだという意識から,
学校でやることでも,
メリットがなくめんどくさいことはやらないよという
意識への変化を象徴しているのではないだろうか。

単なる妄想である。

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脚光をあびる学習方法を疑う

2006-02-15 | 教育
時々,とても成果が上がる学習方法というのが
もてはやされて一斉を風靡することがある。
この学習法で,成果が上がり,成績が向上する,
頭がよくなる,大学に入れるといったたぐいのものである。

よく考えてみると,このような方法が
長続きしたためしはない。
一過性のブームでおわるのである。

なぜなら,ある学習方法は,
ある者にある一定の成果を与える可能性があると同時に,
ある者にある一定の欠点を与える可能性をもつからである。

それゆえ直接的な効果をもって学習法のよしあしを考えることには
そもそも無理がある。

いやむしろ,このような効果という観点で
学びを考えること自体が間違っているのではないか。

学びがなぜ大切かといえば,
『論語』に説かれているような学びの意味が
私にはいちばんしっくりくる。

やはり学びの意味は,
その直接的な効果よりも
もっと大きな人格の陶冶というようなものに
求めるべきであろう。

どうも最近の世の中は,
商業主義の影響か,
安易に成果をもとめたがる。

そこに学びの荒廃の原因があるのではないか。

もっとも非効率で,
もっとも古くさい成果の上がりそうにない学習方法が,
もっとも人格を陶冶することだってあり得るのである。

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学習指導要領の改訂の方向性

2006-02-09 | 教育
今朝,新聞をみていたら
次期学習指導要領の方向性についての記事があった。
ゆとり教育が転換されるそうである。
「言葉の力」が柱になるそうである。

どんな学習指導要領であっても,
長所と短所をもっている。

改訂作業がすすめられるときは,
その長所がクローズアップされて改訂されるのだが,
やがて諸方面からその短所についての批判がまきおこってくる。

そしてその短所を改善すべく
次の改訂が進められるのである。
ところが,改訂された学習指導要領には,
前の学習指導要領のもっていた長所が失われていることが
多いのである。
そしてまた諸方面から批判が起こり,
さらに改訂するのである。

結局どこまでいっても
堂々巡りを繰り返している気がしてならない。

ゆとり教育の生まれた背景には,
過剰な詰め込み教育など当時の教育状況への反省があったからである。

ところが,学校現場には
結局ゆとりはもたらされなかったにもかかわらず
学力低下の原因はゆとり教育であるという
浅薄な議論がまかり通る。

ゆとり教育をやめて,
いまさら詰め込み復活ともいかないであろうから,
知識重視と問題解決力重視の考え方を止揚したところに
「言葉の力」や論理的思考力がやってくるのは
ある意味必然である。

ところが,「言葉の力」を育てるには,
どうしても
読んだり書いたり話したり聞いたりする機会を増やす必要がある。
たとえば,文章を書くことに例をとってみると,
子どもがじっくり考えて文章を書き,
教師が一人ひとりの子どもの文章を丁寧に読むためには,
教師にも児童生徒にも
今以上のゆとりが必要になる。

限られた時間のなかで,
能率的?に「言葉の力」をまんべんなく育てることは極めて難しい。
また,どのような教育が
これからの時代に求められる「言葉の力」を
伸ばすかというノウハウについては
未だ定見が得られていない。
結果,復古的な暗記主義的な教育方法に頼るしかなくなる。

そのあたり,どうなっていくのだろうか??

今後の動向を見守りたい。

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学校に通う意味

2006-02-06 | 教育
学校というのは,
もしかしたら毎日通い続けて
学び続けるということに意味があるのであって,
そこで何をどの程度学んだかということや
どの程度成果が上がったかということは
二次的な意味しかなかったのではないか。

その意味では,学校は一種の修行の場であり,
学ぶ姿勢を身につけることから派生して
ある種の望ましい人格が形成されることを期待されているのであって,
これだけのことを学んだから
これだけ賢くなったというような
合理的な価値付けはされていなかったのではないか。

学校に対して,成果が求められるようになっている昨今,
学校のもっていた人格陶冶の力が減退している気がしてならない。

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受験シーズン

2006-02-03 | 教育
確か以前は,
「15の春を泣かせない」
というような標語があって,
高校受験の過熱をいましめていたように
記憶しているが,
近頃こんな標語はとんと聞かなくなった。
「15の春」どころか,
いまは「12の春」が過熱気味である。

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