学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

こんなにがんばったのに

2010-07-25 | 教育
「こんなにがんばったのに,どうして評価してくれないのか」,
最近,表現は違っても,この種のことをいう子どもや若者が増えてきた。

そして,彼らを導く役目の大人さえもが,
愚かにも,このような言葉を認めるようになってきている。

こんな言い分を認めては,子どもは育たない。

「がんばった」かどうかは,
そのがんばりを見ていた他者が決めることであって,
当人が決めることではない。

当人が言えるのは,せいぜい「精一杯やった」とか
「自分なりにベストを尽くした」ということであろう。
これらは他者が評価するしないとは別次元である。

「よくがんばったね」とか「がんばりが足りなかったね」というのは,
他者が当人にかける言葉であって,
自分はよくがんばったのだから,
それを評価せよなどということを
子どもや若者に言わせるべきではないし,
認めるべきでもない。

自分をほめてあげたかったり,本当の自分はすてきな自分だったり,
きっと私はすばらしかったり,自分はとってもがんばっていたり,
どうも,このような自己評価の肥大化が広がってきていて,
そのような精神性を認める大人が増えてくることは
とても危ういことである。

「考える力」の落とし穴

2010-07-24 | 教育
「考える力」が重視されるようになって久しいが,
さて,学校現場でどれほどの成果があったであろうか。

我が国の教育学者や教育関係者が,
「考える力」というのが一体何なのかを吟味した上で,
さまざまな教育提案をしているとは到底思えないのである。

「考える力」の重視は,
知識偏重へのアンチテーゼとして語られることが多いが,
その実,「知識よりも考える力が大切」というときの
根拠がはなはだ希薄なのである。

この点,PISAショック云々と言っておきながら,
PISAに代表される欧米の「考える力」についての知見は
まったく学んでいないように思われる。

「考える力」の育成を考えたとき,
子供が,自分の頭で自由に考えて,
ユニークな考え方を発表したということなどには,
ほとんど何の意味もないのである。
それは,考えたのではなく,気づいただけである。

「気づき」などは,本当は教育の目的にはならない。
「気づき」のメカニズムが明らかではないからである。

「考える力」の育成とは,
欧米の思想史を見ればわかることだが,
ある一定の考え方の「型」を訓練によって身に付けさせることである。
フィンランドでもアメリカでもイギリスでも,
初等教育で重視しているのは,
まさにこの「考え方」の「型」を身につけさせることであり,
その方法はまさに訓育的である。
それは,その「考え方」の「型」さえ共有していれば,
文化を共有しない他者とのコミュニケーションも可能になるからである。

PISAが問うているのは,
PISAが考えるグローバルスタンダードの「考え方」の「型」が
身についているかどうかなのである。

結局,
子供の純粋さがそのままで価値があるとみなす我が国では,
「考える力」を身に付けて一人前になるためには
厳しい修練で「型」にはめなければならないということを
認めたくないのであろう。

子供の「気づき」のよさなどは,
世阿弥の『風姿花伝』にいう「時分の花」のようなもので,
やがては消えていくものである。

「時分の花」を教師が喜んでいるうちに,
「まことの花」を身につける機会を失わせているのではないか。

子供をめでているばかりで,
「知識」も身につけさせず,
さらに「考える力」も身につけさせない教育の末路を
考えるだけでもぞっとするのである。





覚えることは大切

2010-07-17 | 教育
どうも「覚える」,
すなわち記憶するということを,
現在の学校教育は
軽視しすぎているように感じる。

「覚える」ことについては,
「丸暗記」や「つめこみ」などというマイナスイメージが強く,
「覚える」ことよりもむしろ,
「考える」ことや「表現する」ことを
重視する傾向がある。

しかし,記憶は確実な知識獲得手段であるが,
思考や表現は,流動的である。

よく考えてみると,
小学生ぐらいの年齢の子どもは,
記憶力にすぐれている。
それは,この時期の子どもたちが,
発達段階からいって,これから生きていくために
多くのことを記憶すべき時期であるからであろう。

この記憶力の充実している時期に,
記憶を軽視するべきではない。
「丸暗記」や「つめこみ」と言われている事柄の
内実をもう少し精査して見直すべきであろう。