「こんなにがんばったのに,どうして評価してくれないのか」,
最近,表現は違っても,この種のことをいう子どもや若者が増えてきた。
そして,彼らを導く役目の大人さえもが,
愚かにも,このような言葉を認めるようになってきている。
こんな言い分を認めては,子どもは育たない。
「がんばった」かどうかは,
そのがんばりを見ていた他者が決めることであって,
当人が決めることではない。
当人が言えるのは,せいぜい「精一杯やった」とか
「自分なりにベストを尽くした」ということであろう。
これらは他者が評価するしないとは別次元である。
「よくがんばったね」とか「がんばりが足りなかったね」というのは,
他者が当人にかける言葉であって,
自分はよくがんばったのだから,
それを評価せよなどということを
子どもや若者に言わせるべきではないし,
認めるべきでもない。
自分をほめてあげたかったり,本当の自分はすてきな自分だったり,
きっと私はすばらしかったり,自分はとってもがんばっていたり,
どうも,このような自己評価の肥大化が広がってきていて,
そのような精神性を認める大人が増えてくることは
とても危ういことである。
最近,表現は違っても,この種のことをいう子どもや若者が増えてきた。
そして,彼らを導く役目の大人さえもが,
愚かにも,このような言葉を認めるようになってきている。
こんな言い分を認めては,子どもは育たない。
「がんばった」かどうかは,
そのがんばりを見ていた他者が決めることであって,
当人が決めることではない。
当人が言えるのは,せいぜい「精一杯やった」とか
「自分なりにベストを尽くした」ということであろう。
これらは他者が評価するしないとは別次元である。
「よくがんばったね」とか「がんばりが足りなかったね」というのは,
他者が当人にかける言葉であって,
自分はよくがんばったのだから,
それを評価せよなどということを
子どもや若者に言わせるべきではないし,
認めるべきでもない。
自分をほめてあげたかったり,本当の自分はすてきな自分だったり,
きっと私はすばらしかったり,自分はとってもがんばっていたり,
どうも,このような自己評価の肥大化が広がってきていて,
そのような精神性を認める大人が増えてくることは
とても危ういことである。