学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

読解力の大切さ

2009-03-24 | 教育
読解力は大切だとこのごろつくづく感じる。

読解力とは,
書き手の思考の流れを
なぞることのできる力だと考えている。

たとえ,書き手の考えが,
自分の考えと違っても,
書き手の思考に自分の頭を同調させて
理解に努めてはじめて,「読める」のである。
そうしてはじめて,
本当の意味で論評できるのであり,
その論評が書き手にも受け入れられるようになるのである。

もし,それができない場合は,
「読めない」わけであるから,
当然,論評することもできないはずである。

自分の思考の在り方を,
書き手の考えにあてはめようとすることは,
傲慢である。

よく批判的思考力ということが言われるようになったが,
相手の思考の流れに寄り添ってはじめて
意味のある批判ができるのであり,
自分の思考の枠組にしがみつきながら
発せられる批判は,
批判としての価値を持たないのである。

そのあたりが理解できないで,
相手の言葉を自分が批判しやすいように
言い換えたりすり替えたりしてなされる批判は,
批判ではなく,単なる暴力でしかない。

単純な話

2009-03-19 | 教育
学校のふつうの教員,教育学者,教育評論家,
ジャーナリスト,マスコミ,各種教育審議会の委員,
このなかで,一番発言力のないのは言うまでもなく,
学校のふつうの教員である。

ところが,
教育学者も教育評論家もジャーナリストも
マスコミも各種教育審議会の委員も,
誰一人いなかったとしても,
学校教育は成り立つのである。
つまり,
彼らは学校教育に責任を負う存在ではないし,
必要不可欠な存在でもない。

ただ,
学校のふつうの教員だけはいてもらわないと
学校教育が成り立たないのである。

日々の学校教育を担っている者に
最も社会的に発言力がないということが,
我が国の学校教育を迷走させている。



教職免許更新制の不思議

2009-03-17 | 教育
 文部科学省のHPを見ると,教員免許更新制の目的として,「教員として必要な資質能力が保持されるように定期的に最新の知識技能を身に付けることで,教員が自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ることを目指す」ものである旨の記述があり,「不適格教員の排除を目的としたものではありません」という注記がある。

一方,免許状更新講習規則の第六条では,「修了認定は試験による成績審査に合格した者に対して行うものとし、当該修了認定の基準は、文部科学大臣が別に定める。」とあって,修了認定にあたっては,試験による成績審査に合格することが求められている。さらに,文部科学省のHPの「教員免許更新制Q&A」には,「免許状更新講習の修了認定が受けられなかった場合、教員は失職するのですか。」という問いに対して,「教員免許状が失効し、教員の職を失うこととなります。」という記述がある。

とすると,試験による成績審査に合格しなかった教員は失職する,すなわち排除されるわけだが,不適格教員ではありませんよという解釈になるのであろうか?

不思議である。

「学校経営」という言葉

2009-03-15 | 教育
かつて大学で教職課程の授業を受けていたときに,
「学校経営」という言葉に違和感をもった。

なせ,学校で「経営」が必要なのかと思ったのである。
それほど「経営」という言葉に,
経済活動,営利活動の意味合いを強く感じていたのである。

この場合の「経営」という言葉は,
英語で言えば,administrationあるいはmanagementになるのであろうが,
もともと,日本語では「管理運営」というのに近い用語である。

ところが,特にmanagementや「経営」という言葉には,
実際,経済的活動の運営という意味合いが強く,
「学校経営」という言葉には,
本来そのような経済的活動タイプの顧客サービス的な観点は
含まれていなかったにもかかわらず,
企業経営のアナロジーで理解されてしまっており,
だれもそのことに疑問を持たない。

学校の管理運営と企業経営は,
全く異なる活動であるにもかかわらず,
企業経営に有効な分析手法や目標設定方法が,
無批判に学校経営(マネージメント)の名の下に導入されている。

これは危ういことである。

すべての経営を
一つのものさしで割り切ることはできるはずがないのに,
今は,企業のものさしを学校にあてようとしているのである。

校長が,そのものさしを使い慣れていないのは当たり前である。
今まで違う学校のものさしを使っていたのである。

企業経営者サイドから言えば,
企業のものさしを使えない人間など無能以外の何者でもない。

学校のものさしなど,
企業のものさしを信奉する人間から言えば,
ただ役に立たないものさしにしか見えないのである。

教学と(経済的)経営を分離することが
事実上不可能になってきている現在の状況は
実は,喜ぶべきことではない。

むしろ学校を支える経済基盤がゆらいできていることを
指しているに過ぎないのである。

単純に言えば,学校の校長や管理職に
マネジメント能力を持て持てと盛んに言っているのは,
校長や管理職に,教育と教員管理に専念させる余裕,
つまり学校のものさしを使わせておく余裕が,
社会全体から失われたことを指しているに過ぎない。
それに代わる真に有効なものさしなどないにもかかわらず,
とりあえず企業のものさしをあてがおうとしているのである。
更に悪いことに,
学校は,企業にとっては最後の未開拓の市場のひとつでもある。

かくして,
学校は崩壊への道をひた走っているのである。



学校となつかしさ

2009-03-12 | 教育
学校の価値ということで軽視されがちなのが,
学校の「なつかしさ」ということである。

学校というところは,多くの卒業生にとって
「なつかしい」場所であるべきである。

学窓を巣立った後も,
折に触れて思い出すのは
学校で過ごした日々のことである。

その記憶のなかの学校が,
現実に存在し続けていてくれることほど
ありがたいことはない。

卒業後何十年も経って
母校に戻ったときに,
昔と変らない木々が茂っており,
昔と変らない校舎があり,
昔と変らない教室と机がある。

これほど幸せなことがあろうか。

学校というところは,
合理一辺倒でどんどん変えていくことを
喜んでよい場所ではない。
最新設備を誇り,
入学志願者の耳目をひきつけようとすることなど,
歴史ある学校においては児戯に等しい。

学校は,
かつてそこで時を過ごした多くの人々の情緒によって
支えられているのだということを
片時も忘れてはならないのである。

学校は,その存在そのものが,
一編の「詩」でなければならない。

学校を改革しようとする者は,
そのことを忘れてはならないのである。

仰げば尊し

2009-03-11 | 教育
「仰げば尊し」という歌は「蛍の光」とともに
学校のあり方を示す象徴的な歌である。

企業経営のマネジメントを導入して,
「売り」となるセールスポイントをたくさんつくり,
消費者たる生徒へのサービスに徹し,
一方で,卒業生の進路を
広報材料としているような学校の卒業式で
「仰げば尊し」を歌ったりしていれば,
それは,明らかな論理矛盾である。

授業評価アンケート改善案

2009-03-11 | 教育
授業評価アンケートの問題性はすでに指摘したとおりだが,
初等中等教育において,授業改善の効果があがり,
かつ,長幼の序や師恩といったわが国の美質を
見失わないようにする方法を思いついた。

それは,最後の授業で,先生にお手紙(お礼状)を書くのである。
それは,先生の授業で,自分がどんな点で成長できたか,
自分がどのように変ったかを先生に感謝し報告する形で書くのである。
当然,その手紙には,
授業をもっとこうしてほしいなどの希望を書いてもよいのだが,
あくまでも,師に対する礼を失しないように工夫して書くのである。

その手紙に対して,
先生のほうでも,一人一人に返事を書けば,
より教育効果は高いであろう。

先生も生徒も気分のよい
この案はいかがだろうか?

「夢はかなう」の欺瞞

2009-03-09 | 教育
「夢をもて」「夢は必ずかなう」などという言葉が
よく教室で聞かれるようになった。

果たしてこれは教育の場で言われるべきことであろうか。
前にもこのブログに書いたことだが,
生徒に語るにふさわしい言葉は,
「夢」などというあやふやな言葉ではない。

「夢は必ずかなう」にいたっては,嘘である。
世の中には,
夢がかなった少数の事例と,
夢がかなわなかった多数の事例があるだけである。
夢がかなった人と夢がかなわなかった人の間に,
優劣があると果たして誰が言い得るであろうか。
自分の目の前にいる生徒の幾人が
夢を実現し得るのであろうか。
そのことを考えるだけで,
「夢は必ずかなう」などという怖い言葉は
口に出来ないはずなのである。
そんなことを言うのは,
自分の夢がかなったと思っている人間の驕りである。

いくら一所懸命やっても,夢はかなわないことがある。
そのことをきちんと教えるべきなのが学校教育である。

そのうえで学校教育において,生徒に語るべきことは,
「目の前にある為すべきことを誠実にやり遂げよ」
「他人のために為すべきことを為せ」というに尽きる。

報われても報われなくても,目の前にあることをこつこつと,
自分のためだけでなく他人のために為すことの出来る人間を育てるのが,
学校教育の純粋な目的であろう。

大事なのは,「夢」などではないのである。

しかし,どうもこのような考えはすでに少数派のようである。



教育言説についての疑問

2009-03-08 | 教育
いろいろな教育関係の書物や,
あるいは教育関係の審議会報告などを読んで
いつも疑問に思うことがある。

「これからの時代は,○○する力が大切である」
「これからの時代は,○○型の学力が必要である」
などの見解が随所に述べられているのである。

よくわからないのは,
「これからの時代」がどんな時代かということを
どうして知り得たのかということである。

そして,その時代に○○する力や○○型の学力が必要だと
どのような根拠から言えるのかということである。

そのあたりがどうもはっきりしない。

したがって,私はこのような教育言説を信じない。

教育は,時代の変化に対応するのではなく,
時代の不易の部分に即して行われるほうが
よっぽど実効があると思うのだが。

望ましい教師の資質

2009-03-04 | 教育
望ましい教師の資質を考えてみた。

1 明るい人
   その人の笑顔で周囲が明るくなるような人がよい。
   ユーモアを解するというのも大切な資質。

2 まじめな人
   まじめであることは大切。不器用でもまじめな人がよい。

3 誠実な人
   とにかく素朴でまっすぐでうそをつかない人がよい。

4 人の弱さと悲しみの分かる人
   強きをくじき,弱きを助ける人がよい。
   他人の悲しみを共に泣ける人がよい。

5 お金や権力に魅力を感じない人
   お金や権力に拒否感を持っている人がよい。

6 妙なプライドをもたない人
   あの人はプライドが高いと言われないような人がよい。

7 他人の欠点を非難しない人
   他人の欠点は自分の欠点でもあることが分かる人がよい。

8 筋の通っている人
   状況によって態度が変らない人がよい。

9 勉強の好きな人
   勉強が好きでなければ教える資格はない。

10 陰徳を積むことの出来る人
   人知れず,善行を行うことの出来る人がよい。

11 敏感さと鈍感さが同居している人
   変化を敏感に察知でき,かつ鈍感になれる人がよい。

こう考えてみると,
やはり教師というのは「人」相手の仕事である。
さらに「子ども」相手の仕事である。
だから,何より人柄である。
授業のうまさなど,まじめで勤勉な教師なら,
あとからついてくるものである。
   

未納問題はモラルの問題ではない

2009-03-01 | 教育
授業料未納や給食費の未納について,
保護者のモラルの低下を嘆く論調が多いが,
根本の問題は,モラルではないのである。

学校というところは,教育を行うところである。
考えてみればわかることだが,
教育者として日頃子どもや保護者に接している教師が,
「金を出せ」とは言いにくいものである。

ところが,これは教育行政の重大問題だと思うのだが,
学校では,このお金の取立てを,
教師にやらせようというところが多いのである。

これは,無理である。

このような未納問題など金銭に関わることは,
教育行政が学校とは切り離して,
直接に,クールに法的に処理すべき問題である。
当然,その家庭の経済状態なども
行政サイドならば正確に把握する権能ももっているのだから,
それに応じた対処ができるであろう。

学校が,そのスキルもノウハウも能力もなく,
家庭の経済について情報収集する権能ももっていないのに,
金銭の取立てなどできるはずがないのである。

教師を専門職といい,その教育的資質を云々する前に
教師が教育に専念することができるように,
より専門職化することのほうを考える必要があるのではないか。

未納問題は,つまるところ,
教育行政の怠慢によって起こっているのである。

本来は教育行政が処理すべき,困難な問題を
学校に,教師に,押し付けていることが
もともとの問題である。

保護者のモラルの問題にしては,
問題の焦点がぼやけてしまう。