学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

中高一貫校のつくり方

2009-05-30 | 教育
 最近は一貫校ばやりである。今回は,そのなかでも中高一貫校をとりあげ,本質的な一貫性とは何かという観点から,中高一貫校のつくり方をご説明したい。
 よく中高一貫校をつくろうとすると,すぐにカリキュラムを一貫化することに目がいきがちであるが,カリキュラムなどはどうとでもなる。3年,3年に分かれていたものを6年一貫にするのであるから,くっつければよいだけである。それでは芸がないというのであれば,順番を入れ替えたり,除いたり付け加えたりして,それらしい理屈をつければよい。しかし,問題はカリキュラムではないのである。
 そもそも中高一貫校の最大の矛盾点は,中学校段階が義務教育であり,高等学校が義務教育でないということにある。この点で,私立の中高一貫校をみると,私立は中高一貫校をあとでつくったのではなく,戦前の中等学校の枠組をそのまま引き継いだり,最初から中高一貫を前提につくられたりした学校がほとんどなので,本質的にもともと一貫した教育が行われているのであって,あえて極論を言えば,高等学校的な発想や理念で運営されているところが多いと思う。
 すなわち,私立では,中学校段階は義務教育であることは当然であるが,それ以上にその学校の教育理念が優先されているし,事実それが法令的にも可能になっている。すなわち,私立学校は義務教育段階の生徒を退学にすることができるのである。
 公立学校の場合は,中と高のこの乖離はなかなか埋まらないであろう。公立中高一貫校は,本質的に保護者の義務としての教育と本人の自由意志に基づく教育の,ふたつの理念を抱え込んだ矛盾した存在とならざるを得ないのである。もしそれでも一貫校を作りたいというのであれば,中学校の理念よりも,高等学校の理念に従うべきである。
 歴史的にみても,もともと中等教育を戦前から担ってきたのは,現在の高等学校すなわち旧制の中学校,高等女学校の理念である。そもそも,現在の公立中高一貫校の構想そのものの深層には,戦後教育システムの見直し,もっと言えば,戦前の学校制度へのノスタルジーがあると思う。すなわち,中高一貫教育は,我が国においては,戦前のような一種のエリート教育としてしか存在しなかったし,おそらくこれからも存在し得ないであろう。なぜなら,エリート教育でない,ふつうの義務教育としての中高一貫校など存在意義がないからである。
 一方,新制中学校は,もともと義務教育の延長すなわち小学校の延長上に置かれたものであり,戦後の新しい制度である。新制中学校こそ,戦後民主主義教育の象徴的存在であり,戦前の教育からの継続性を持っていない。中学校に戦後教育の矛盾が集中的に表れたのも,そのあたりに一因があるであろう。
 したがって,新制中学校すなわち義務教育の理念は,中高一貫校の理念としては全く不十分である。また,生徒の成長を6年間で見通すことを考えてみても,その完成形態を請け負う高等学校の理念を敷衍した方がスムーズなのである。
 あとは,形の問題である。制服を中学校と高等学校で分けないこと,職員室を中高別にしないこと,教員は年度ごとに中学校と高等学校をいったりきたりするようにすること,校長,副校長などの管理職はもちろん教務主任その他の主任,教科主任等はそれぞれ中高同一人物が担当すること,中学校と高等学校で生徒のきまりを分けないこと,中学校の卒業式をしないことなど,すべてを一貫化する方向へもっていかなければ結局はうまくはいかないのである。蛇足だが,中高一貫校では,勉強にせよ部活動にせよ,工夫しないと中学生はよく伸びるが高校生は伸び悩む傾向があるように思われる。そこのところも課題となるであろう。
 中学校と高等学校が分かれているか一貫しているか,どちらがよいかについては,カリキュラム的制度的側面では,一長一短である。だが,理念的な側面から見ると,理念上での一貫性を保持することができない一貫校にはあまり意味がないように思われる。

資質能力の向上?

2009-05-27 | 教育
よく「教員の資質能力の向上をはかる」という表現に出合う。
また,学習指導要領の解説書などでも,
「資質や能力の基礎を培う」といったような表現に出合うことがある。

これが「能力」だけなら分かる。
能力は,教育によって,
向上をはかったり,培ったりできる。

しかし,「資質」については疑問が残る。

広辞苑では,「うまれつきの性質や才能。資性。天性。」とある。
そして,「―に恵まれる」「作家としての―がある」という例示がある。

この語義からみると,
どうしても「資質」というのは生得的なもので,
教育によってどうこうできるものではないように
思われるのである。

英語では,「資質」はnatureである。

どうしても,「資質」を
人為的に向上させうるとは考えにくいのである。

それとも,教育の世界では,
「資質」に別の意味を付与しているのであろうか。
不勉強でそこまではわからないのだが,
どなたか教えていただければ幸いである。

子ども中心でよいか

2009-05-25 | 教育
子ども中心主義とか児童中心主義という立場がある。

子どもの可能性を信じ,
子どもに内在する可能性を引き出すのが教育(education)だと考え,
子どもの主体性や自主性を出来る限り尊重しようとする立場である。

この考え方は,
子どもの純真さや無垢さを純粋に愛するわが国では
広く受け入れられている。

ところが,この考え方だけでは,
授業をうまく運営できないことは,
経験ある教師なら知っている。

なぜなら,学習指導要領にせよ,教育法規にせよ,
学校制度を規定しているすべてのものが,
大人の論理で考えられているからである。

大人が定めたゴールが厳然として存在しており,
子どもたちは「自主的」「主体的」に
そのゴールに到達することが求められているのである。

これは,
大人が期待する自主性・主体性以外は認められないということを
意味している。

よく学校の研究授業などで,
子どもたちが,教師の指図なく,
生き生きと自主的に学習に取り組んでいるのを
目にすることがある。

しかし,冷徹な見方をすれば,
それは,
子どもたちが大人の期待するように振舞うべきことを知っている,
あるいはそう仕向けられているからうまくいくのであり,
かなりの強制力が働いているとみるべきであろう。
そのような成功例をもって,
子どもの自主性や主体性を尊重すれば授業が成功すると
喧伝するのは片手落ちではないかと思うのである。

教育(education)とは,
子どもに内在する可能性を「引き出す」ことではなく,
子どもを,子どもの世界から,
別の世界(大人の世界)へと「引き出す」ことである。
少なくとも語源的にはそのように解釈されるべきであると思う。


学校は過剰対応が当然である

2009-05-24 | 教育
新型インフルエンザに対する対応をめぐって,
いろいろなところで過剰な対応であるとの声が高まり,
その対応の仕方が変化してきている。

このことを,学校レベルで考えてみたい。

学校の一番重視しなければならないのは,
児童生徒の安全確保である。
教育活動は,安全確保に優先しない。

今度の新型インフルエンザは,
未だワクチンもなく,
ウイルスの変異の可能性も指摘されている。

児童生徒の健康管理を考えれば,
でき得る限りの予防策を取るというのは
当然のことである。

修学旅行が中止になったり,
海外研修が中止になったりすることは,
子どもたちにとって残念なことであろうが,
このような事態にあっては,
当然の処置なのだということを教えるのもまた教育である。

過剰対応だといわれるぐらいの対応をする学校のほうが,
児童生徒の安全を本当に大切に考えている学校であり,
リスク管理が徹底している学校である。

がんばらない

2009-05-24 | 教育
がんばっても事態が好転しないときは,
がんばらないというのもひとつの生き方である。

がんばりすぎて,
がんばれなくなるよりは,
がんばらないと決めて,
エネルギーを蓄えたほうがよいこともある。

前進も必要だが,後退も必要である。
攻撃も必要だが,撤退も必要である。

それが処世の智恵である。


あたりまえのこと

2009-05-20 | 教育
若い頃,受け持ちの生徒がある問題を起こしたことがある。

そのときのことである。

校長先生に
「指導が行き届きませんで申し訳ありません」
と私は言った。

校長先生は不思議そうな表情で,
「あなたが,そのこと(その問題行動)をするようにすすめたの」
とおっしゃった。

私は,
「いいえ,してはいけないといつも言っておりました。
しかし,その指導が行き届かなかったのは私の責任です」
と言った。

すると校長先生は,
「きちんとしてはいけないことを言って聞かせていたのに,
その言いつけをやぶって,やったのだから悪いのは生徒でしょ。
あなたがそそのかしていたのならあなたが悪いが,
そうでないのなら,あなたの責任というのはおかしい」
と毅然としておっしゃった。

確かに校長先生のおっしゃることは,
筋が通っている。

そのあたりまえさに私は打ちのめされた。
打ちのめされたが,
その言葉の重みには気づいていなかった。

生徒がやった過ちの責任を,
教師が自分の責任であるかのように言うことは,
一見生徒思いの言い方のように思いがちであるが,
本当の意味で教師が「責任」を負うことはできないのである。
生徒自身にその生徒の行動の「責任」をきちんと負わせることが
真の意味で,その生徒を尊重することになるのだということに
気づいたのは,それから何年も経ってからである。

あたりまえのことをあたりまえに考えること,
それが生徒指導の基本だと思うが,
案外それが学校教育の世界では出来にくくなっているような気がする。


昔の学校の豊かさ

2009-05-18 | 教育
昔の学校には,
普通の家庭にはないすごい実験器具やさまざまな道具,
スポーツ用具などがあった。

それは,ふつうの家庭が今ほど
豊かではなかったからでもあろうが,
学校は相対的に豊かな部分があったと思う。

また,知的な面でも,
昔の学校の先生は,
保護者よりも相対的に学歴が高い場合が多かった。
今の学校の先生は,
保護者からみて,
知的な面での優位性を失っている。

今の学校は権威を失ったとよく言われるが,
やはり学校が
このあたりの知的施設的な豊かさや凄みを失ったことも
かなり作用しているのではないかと思う。



Carpe Diem

2009-05-17 | 教育
学校に行けば,
子どもたちがいる。

この子どもたちと貴重な時間を共有する。

Carpe Diem.(カルペ ディエム)
「今日一日の花を摘め」
ローマの詩人,ホラティウスの詩句である。

教師にとって誠に信じるべきものは,
変転極まりない未来や空虚な言説ではなく,
今日一日,子どもたちと共有する時間のなかにある。

願わくば,そこに喜びが見出されますように。

Carpe Diem.

教育可能性を考える

2009-05-17 | 教育
「教育可能性」という言葉がある。

学校でいえば,
教師の教育活動によって,
子どもが教育される可能性のことである。

この言葉はたいへん深みのある言葉である。

可能性であるからには,
不可能であることも想定し得るのである。

つまり,教師が教育しても,
子どもが教育されない可能性があるということである。
考えてみれば,あたりまえのことである。

子どもは,意識的にせよ,無意識的にせよ,
教室にきちんと座ってはいても,
教育されないことを選び取る可能性がある。

教育されるかされないかは,
実は,子どもの主体的選択にまかされていると言ってもよい。

そして,その子どもの主体的選択は,
大人が教育活動の工夫によって,
完全にコントロールできるものではない。

ところが,我が国の教育論は,
この教育可能性を過大評価する傾向が強い。
すなわち,教師の働きかけによって,
子どもの教育が
完全にコントロールできるかのような論を立てるのである。
この論の立て方からいくと,
子どもの教育がうまくいかないのは,
教師の働きかけのまずさによるということに
簡単に帰着してしまう。

確かに教師が原因で,
教育がうまくいかないことも多い。

しかし本当は,
子どもの教育をコントロールする教師の力には限界がある。
そして,そこに学校教育の限界がある。

このことを丁寧に見つめた上で,
教育を語るべきではないだろうか。

気持ちのよい授業

2009-05-16 | 教育
今日の授業は,うまくいった。
気持ちがよかった。

そう感じるときがある。

それほど多くはない。
だが,確かにそう感じるときがある。

確かな手ごたえを感じる,気持ちのよい授業。

子どもたちにとっても,
おそらく,それはよい授業であっただろう。

そのような気持ちのよい授業が,
1学期に1回,いや年に1回でもあれば,
教師は,それを支えにすることができる。

情報化社会の陥穽

2009-05-10 | 教育
情報化社会が進展すればするほど,
情報の劣化や知識の劣化,
ひいては知的水準の劣化が起こる可能性がある。

情報化のすすんだ社会では,
情報源に直接当たった一次情報よりも
二次情報や三次情報,
さらにまた聞きといった情報が発信されることが
多くなるのではないかと思う。

その結果起こることは,
自分の考えに合った情報が,
もっといえば,
自分の既有のバイアスと合致する情報を
選択的に入手することが可能になるということである。

そうすると,
自分のバイアスや正確さを欠く知識は
修正されずに増幅される。

その結果,もともとの情報源からは
到底解釈できないような解釈が
情報として成立してしまうということになる。

このような危険をおかさないためには,
情報は,できるかぎりそのニュースソースまで戻って
自分で確かめ,そのうえで解釈を下す習慣を身につけることである。

これはとりもなおさず,
伝統的な学問的態度というものであって,
それが情報化社会の進展によって希薄化していくことは
たいへん危険なことである。

情報化社会において,
人は,情報にふりまわされているのではなく,
自分の都合のよいように利用できる情報を
自分から進んで受け入れてしまうのである。

教育界においても,たぶんにその傾向がある。
メディアで紹介される教育言説のもととなっている情報を精査してみると,
どうして,ここからこのような言説が生じるのか,
はなはだ疑問に思うことが多い。

惑わされないためには,
少なくとも情報の元をたどることが必要である。







「考える力」を考える

2009-05-09 | 教育
「考える力」について考えてみたい。

昨今は,知識よりも考える力が大切とか,
記憶力より思考力とか,
とかく人気の高い「考える力」である。

しかし,上述のような主張をする方々は,
もう少し「考える力」を鍛えた方がよい。

知識や記憶を前提としない思考など存在しないのである。

古代ギリシアの昔から,
記憶力の鍛錬や該博な知識が
教育の目指す重要な要素であることは
自明のことである。

さて,「考える力」があるのかないのかは
どのように判断され得るのであろうか。

人がどの程度どのように考えているかは
目に見えるものではない。
それは,実は,その人のアウトプットをみて
判断するしかないのである。

したがって,「考える力」は,
「表現する力」を前提としてしか,
判断され得ないのである。

それゆえ,教育において鍛錬すべきことは,
「表現する力」,すなわち,
「話す力」と「書く力」ということになる。

正しく話し,正しく書く力,
豊かに話し,豊かに書く力を育てる以外にないのである。

結局のところ,
広い意味での読み書きそろばんに帰着するのである。

さて,
教育言説をみるときには,
新しく見えることでも,
何等新しくはないということを銘記すべきである。

新しい教育言説がどんどん現れる今のような時代には,
教育の現場に迷いが生じ,
より教育効果が減衰するということが
実際に起こってきている。

新しい教育言説に惑わされず,
目の前の子どもが成長しているのかいないのか,
昨日できなかったことが今日できるようになっているかどうか,
よく見ることである。
できなければもう一度やりなおすということを
根気強く愚直にやり続けること,
教育とは,それだけのことである。




学校は変わらなければならないか

2009-05-07 | 教育
ここ数年,学校が危機的状況にあり,
学校は変わらなければならないというような言説が
自明の如く繰り返されてきた。

また教師に危機意識が薄いということが
問題視されてきた。

そして,企業向けのマネジメント理論を
学校用にアレンジしたマネジメント研修が
盛んに行なわれるようになってきた。

しかし,よくよく考えてみると,
学校は,危機的状況にはない。
戦後の学校の歴史をみても,
近年はかなり安定している時期に
入るのではないだろうか。

もちろん個々にみれば,さまざまな問題はあるが,
まったく処方箋のないような問題状況ではない。

むしろ,
企業の方が危機的状況に陥りつつある場合が多いのであって,
前述のような企業型のマネジメント理論が果たして
危機的状況を脱するのに有効か否か
はなはだ心もとないところがあるのである。

学校は,いままで,
時には,まるでくらげのようにゆるゆると,
時には,猛牛のように強引に
そのときそのときの現場感覚に頼って,
問題状況を打破しつつ,あるいは懐柔しつつ,
歩みを進めてきたのである。

そこには,理論化されてはいないが
複雑な問題解決のノウハウが秘められているのであって,
もしも学校が問題を抱えているとするならば,
むしろ企業に学ぶのではなく,
百戦錬磨の先輩諸氏に学ぶほうがよいようにも
思えるのである。

その問題解決の仕方はあざやかなものではなく,
いつの間にか問題がうやむやに雲散霧消するような
解決の仕方ではあったが,
それでも,問題をくぐりぬけてはきたのである。

学校は,多様な人間の寄り集まりであり,
学校自体が一つの社会である。
それゆえ目的合理的な組織ではあり得ない。
したがって,合理的効率的に問題を解決することはできない。
ただ問題が生じても,それに打ちのめされないだけの
柔軟さはもっているはずなのである。

このように考えると,
学校を「組織」として捉えようとするところに
すでに矛盾があるようにも思えてくるのである。

学校は変わらないように見えて,
常に変わりつつある。
変わらなければならないと力を入れなくとも,
変わらないように見えながら,
自然に変わり続けるものなのである。
ゆえに,
学校は変わらなければならないという
問題設定自体がすでに誤りである。

教師に必要なもの

2009-05-03 | 教育
とかく教師の資質が問題になるときに,
「マネジメント能力」とか「コミュニケーション能力」とか,
「対人関係能力」とかが問題視されがちである。

もちろん,それらも大切なことではあるが,
それ以上に,教師の知的水準を上げることの方が
いまや急務であるような気がする。

教師が教師たる所以を,
原点にさかのぼって考えてみると,
教師は,
生徒にないものをもっているということに
尽きると思う。

いま我々教師は,
生徒にないものを本当に持っているであろうか?

まずは何をさておいても,
正確な知識,該博な知識をわが身に蓄えることが
何よりも大切である。

それも,
マネジメントやコミュニケーションスキルといった
いま流行りの周辺部分の知識ではなく,
中心部分のみずからが担当する教科そのものの知識の豊かさが
まず教師の知的水準の源となる。

もう一度,勉強しなおす必要がありそうである。