学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

教師の熟練ということについて

2009-01-31 | 教育
 教師が熟練するということはどういうことだろうか。視野が広がるとか,新任教員の気づかない子どもの気持ちに気づくとか,もちろんそういうことはあるだろう。しかし,本当にそれは熟練の結果なのだろうか。私自身がいろいろな先生と接してきた経験から考えるに,子どもの気持ちに気づくとか視野が広がるということは,むしろその人自身の資質によるところが大きいのであって,必ずしも熟練によって達成されるものではないような気がするのである。これらのことは,資質に恵まれた者が長年の熟練を経てはじめて達成されるものであって,誰もが到達しうる境地ではないのである。
 むしろ熟練とは,他のさまざまな事柄における熟練と同じように,「力が抜ける」ということにあるのではないかと考える。つまり,無駄な力が入っていない,一つの目的を達成するために最小限の力で達成することが可能になっている状態をいうのではないかと考えるのである。つまり,繰り返し行なわれてきた事柄,例えば何年も続けてやってきた授業の単元などに対しては,巧まずして所与の目的を達成しうる,それが教師における熟練と呼ばれるのにふさわしいのではないか。
 そう考えてみると,熟練者にはできることとできないことがあることがわかってくる。熟練者は,経験している事柄については最小限の力で最大限の効果をあげることができるようにはなっているが,経験していない事柄には全く歯がたたないのである。熟練が他の事柄に転移するということも時にはあるであろうが,それほど期待できないことのように思われる。教職のように,人間相手の仕事の場合,全く予測できない事態というのはいつでも起こり得るし,世代による考え方の変化というのも予測しにくい事柄である。そうなると,学級の中で想定外のことが起こった場合には,熟練者もまた新任者と同じようなパフォーマンスしか発揮できないということがあり得るということになる。
 教職における熟練者が,教室で起こる未知の事態に適切に対応できる能力を備えることは,事実上不可能なのである。教職の専門性というものが仮に存在するとしても,その専門性には限界があることを我々は知らなければならない。

教師にむいていないところ

2009-01-29 | 教育
教師を1年でもやってみると,
自分のなかに教師にむいていないと思うところが
出てくるものである。

その後も教師を続けるとすると,
自分のなかの「教師にむいていないところ」と
ずっと付き合っていかざるを得ない。

自分のなかの「教師にむいていないところ」を克服しようともがくか,
それを無視しようとするか,
なんとか折り合いをつけて,だましだましやっていくか,

「教師にむいていないところ」とどうつきあっていくかによって,
教師としての在り方が決まってくるような気がする。

つまるところ,教育問題とは,
教師にとっては自分自身の内面の問題に還元されるのである。


教育の限界

2009-01-07 | 教育
教育は,
教育の対象となる子どもが,
その子どもの現在の状態よりも優れた者となるための
きっかけを与えるにすぎない。

このあたりが,
教育の限界ではないかと思われる。

本当に,今の自分より優れた者となるためには,
本人自身の努力による訓練や練習が必要であり,
他人より優れた者となるためには,
素質が必要であろう。

ただ素質というものは,
いうなれば,天が与えたものであるから,
その子どもに素質があるかどうかということを,
人間が判断することなどできないことに
留意すべきである。

したがって,
子どもが無限の可能性を秘めているということも
あり得ないし,それを内から引き出す力を
教育が持っているわけでもない。

教育の限界を謙虚に考え直すことから,
実りある教育が生まれてくるように
思われる。