学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

さっさと歩く のろのろ歩く

2006-09-28 | 教育
子どものころ,よく「さっさと歩きなさい」などと
いわれたものである。
そのおかげか,かなり,さっさと歩いているつもりである。

それはさておき,
最近気づいたことなのだが,
学校によって,
登校時の子どもたちの歩くスピードが異なっているのである。

登校風景をみていると,
ある小学校の子どもたちは,全体的にさっさと歩いて学校にいくのに対して,
別の小学校の子どもたちは,なんだかのろのろ歩いて学校に行くのである。

中学校の場合,歩行スピードの遅さと
制服の乱れ具合が比例しているような場合には
なんとなくその理由が想像できるのだが,
それ以外の場合,
とくに小学校の場合は,服装には差異がみられず,
歩くスピード以外は際立った違いが見られないのである。

とても興味深い現象なので,
いったい何が違うのだろうと考えているのだが,
いちいち学校の中まで様子を見に行くわけにもいかず,
なぜだろうと考え込んでいる次第である。

何が違うのであろうか??
不思議である。
これも一種の学校間格差であろうか。

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学校は「遊び」の空間

2006-09-26 | 教育
学校は,実利を離れ,
遊ぶことを許された空間である。

個性の違った人たちが集まって,
一緒に共通の知的な経験をする。

その知的な経験には,実利的な意味はない。
効率や利益とは無縁な,純粋な知的な経験を
することができるのが,学校である。

クラス全体が,目を輝かせ,
「へぇ~」「なるほど~」と感嘆の声をあげるとき,
学校は,その本来の意味であるスコレーに立ち戻るのである。

ただ知ることそのものが喜びであると感じられる瞬間,
「何のために知るのか」「それが何の役に立つのか」というような
邪魔な問いを忘れ去る瞬間,
その瞬間をクラス全体で共有できたとき,
学校は,純粋な「遊び」の空間となる。

いま,学校から「遊び」が取り去られようとしている。
生徒たちは,純粋な知的な喜びから遠ざけられ,
効率や効果といった邪魔者が「遊び」の空間を踏みにじる。

知は乾き,薄っぺらなものになり,
誰も,本当には,知ることを欲しなくなる。

学校が担っていた,ある大切な部分が,
いま忘れ去られ,失われようとしている。

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分かれ道

2006-09-24 | 教育
単純化して考えてみる。



どの子も,ある一定の水準までは伸ばそうとする教育と,

できる子はどんどん伸ばし,できない子はできない子なりに教える教育。



どの人にも,ある一定の力を得ることのできるようにしようとする社会と,

力のある者がどんどん力を伸ばし,力のない者は,力のないなりに生きる社会。



どの人にも,ある一定の水準までの収入は得られるようにしようとする社会と,

お金持ちはどんどんお金持ちになり,貧しい人は貧しい人なりに生きる社会。




分かれ道に立って,どちらに進もうとするのか。

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いま学校に必要なこと

2006-09-23 | 教育
いま学校に欠けていること。

教師同士がお互いに信頼しあうこと。
教師がすべての子どもたちの可能性を信じること。
子どもたちのつくる未来を信じること。

いま学校に必要なこと。

教師同士がお互いに信頼しあうこと。
教師がすべての子どもたちの可能性を信じること。
子どもたちのつくる未来を信じること。

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教育改革の本当の意味

2006-09-22 | 教育
なんのために教育改革が喧伝されるのか,
このことは最近かなり鮮明になってきたように思う。

教育改革を推進しようとする勢力にとって,
現在の教育の枠組みは,日本国憲法及び教育基本法に象徴されるように
戦後民主主義そのものの表象なのである。

戦後民主主義の枠組みを打破したいという政治的な意図が,
教育改革の真意である。

たとえば,いわゆる一貫教育は,
戦後教育の象徴である6・3制の打破がその真意であり,
教員養成や教員の資質に関する議論は,
戦後の教員養成の開放性の見直しと師範教育への回帰がその真意であろう。
心の教育の推進は,
徳の涵養というよりも,国民精神の育成がその真意であろう。

戦後民主主義のパラダイムの変更が教育改革の目的なのである。

教育の目的が,人格の完成ではなく,人材育成に矮小化され,
選択と多様化という名の不平等が推進され,
効率的に能力養成を行うことが,
あたかも学校の使命であるかのように,
教育の意味そのものがいつの間にか変質させられていく。

それは,決して教育の現場からの発想ではない。

次々と繰り出される教育改革の方向性は,
現場感覚からみると,
とても教育を改善するものとは思われないものが多いのである。

もともと現在の教育改革に,教育的な意味合いは希薄なのである。

教育がいきづまっているという世論が強力に形成され,
学校は,社会の矛盾のスケープゴートと化している。
そして,改革したら教育はよくなるという,
ほとんど盲信に近いプロパガンダによって
教育改革はすすめられていく。

どのような教育の枠組みにも,メリットとデメリットがある。
それらを冷静に評価した議論は見当たらないのである。

これこれの改革を行った場合,
メリットはこれこれで,デメリットはこれこれであるということを
きちんと教育現場の声をもとに議論したうえでの改革は,
ほとんどみられない。

教育改革が,教育を改善するために行われているのではないからである。

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「特色ある学校」の特色のなさ

2006-09-20 | 教育
どうも最近感じていることだが,
「特色ある学校づくり」によって,
それぞれの学校の個性が
逆に失われているのではないかということである。

「特色ある学校づくり」がすすめられ,
特色を出すことが至上命令と化した結果,
各学校は,無理にでも特色をひねり出すことになった。

ところが,どの学校でも考えることは似たり寄ったりで
ほとんど「特色」といえるものはないのである。

「特色」と学校が表現しているものは,
実は「特色」ではなく,
「以前はやっていなかったことで新しくはじめたこと」にすぎない。
その「新しくはじめたこと」は,
教育課程の全体構造に関わらない範囲での学力向上策であったり,
地域の人材等の活用や単発的な国際化教育や体験活動などであったりする。

これらの「特色」については,
子どもにも,教師にも,保護者にも,
目新しさも手伝っておおむね好評であることが多いが,
これらの「特色」を継続的に行っていった場合に
学校にどのような影響が生じるかはきちんと検証されてはいない。

気をつけておかなければいけないことは,
これらの「新しくはじめたこと」のために,
長い時間をかけて育んできたはずの学校の特色が
失われる可能性があるということである。

これらの「特色」は長期的に見ると,
おおむね教師の存在感を相対的に低下させるものが多く,
学校そのものの組織としてのまとまりを
希薄にする方向に動かすものが多いのである。

従来,教師と生徒の人間関係のバランスのなかでつくりあげられてきた
独自の学校文化や校風といったようなものが,
「特色ある学校づくり」のなかで
失われていくように思えてならない。

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学校の樹木や花々

2006-09-11 | 教育
学校の花壇には,
四季折々いろいろな花々が咲いているのが好ましい。

学校の花壇が荒れているのは,さびしい。

学校には,いろいろな樹木があるのが好ましい。

学校の樹木が手入れもされず,
ひこばえが生え放題になっているのは,さびしい。

どの先生に聞いても,
樹木の名前や花々の名前を教えてもらえる学校は,
好ましい学校である。

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心の教育をめぐって

2006-09-08 | 教育
最近の心の教育の流れをみると
いささか疑問を感じざるを得ない。

わが国の「よさ」に目を向けさせることや
わが国の先人たちの業績や自分の祖先に敬意を払うことから
わが国を愛する心情を導き出そうとすることには,
慎重でなければならないと思う。

わが国を愛する心情を導き出す前提には,
わが国の国民が自国を愛すると同じように
どんな国の国民もその国の「よさ」を愛しているのだという共感を
常に前提にしていなければ,
一種の党派心を植えつけているにすぎなくなる。

自国や自らの属する共同体の「よさ」への気づきや
祖先,先人への敬意という,人間の自然な感情の発露は,
党派心とは,重なり合うものではないのである。

自国への愛着を喚起するにとどまらず,
それを超えて,
他国への共感を,自国への愛着と同様に
重視していくことが,むしろこれからは必要なのではないだろうか。

シノペのディオゲネスのように
コスモポリテースだという意識をもっていたいものである。

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学校のどこを見る?

2006-09-02 | 教育
時々,いろいろな学校を訪問する機会がある。

そのとき,
私は,その学校の校門に着いたら,
すぐに学校に入らずに,
学校のまわりを一周することにしている。

その学校について,
さまざまなことがわかる。

とくに校舎の裏が見える場合には,収穫が多い。

校舎の裏まできちんと整備されている学校と,
乱雑に廃物が散乱している学校とでは,
やはりその学校の精神性に違いがあるのである。

校門をくぐってみる。
四季折々に花をかかさない学校と,
花壇が荒れたまま放置されている学校では,
やはり精神性に違いがあるのである。

校舎のなかに入ってみる。

雨でもないのに,
傘たてにたくさんの傘が入ったまま放置されている学校,
とくに教職員用の傘たてがそのような状態の学校は,
ちょっと困ったものである。

窓ガラスのひび割れや,壁についた足跡,
ピータイルなどのはがれ,
おそらく,自分の家ならすぐ直すであろうものが,
そのまま放置されているのも
やはり困ったものである。

これらのことが教師の目に見えなくなっているとしたら,
あるいは,見えていてもそのままでよいと思われているとしたら,
その学校は,すでに教育の場ではなくなっていると言わなければならない。

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防災・防犯の難しさ

2006-09-01 | 教育
防災・防犯ということを考えると
教室という環境の中では
とても難しいことがたくさんある。

不審者が授業中侵入してくることを防ぐためには,
教室のドアに鍵をかけておくことが確実な防犯対策になる。

しかしながら,教室に鍵をかけておくということは,
防災上問題がある。
いざというときの逃げ道が閉ざされるからである。

防災のことを考えても,
火災の際は,教室の窓は閉めてから逃げたほうがよい。
ところが,地震を感じたら,窓やドアはすぐさま開けなければならない。

防災と防犯は両立せず,
しかも防災も,災害の種類によって対応が違うのである。

教師として,
とっさのときにどのような行動をとるべきか,
あらゆるケースを想定して,
シュミレーションしておかなければならない。

すくなくとも,
教室内に固定されていない背の高い什器があるのは,
鈍感すぎる。

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