学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学校の安全管理

2008-06-28 | 教育
学校の安全管理は,
学校の教育活動すべてに優先する。

にもかかわらず,おろそかになりがちなものである。

例えば,学校の教室,校舎,校庭などには
さまざまな危険が想定される部分が存在するが,
それらが日常の風景となってしまうと,
教師も子どもも危険を感じなくなってしまう。

部外者から見れば,危険が明らかなのに,
そのなかで生活する者から見れば,
危険ともなんとも思わないということがある。

そのような意識を変革するためには,
危険予知トレーニング(KYT)を
教師も子どもも受けることが
有効ではないだろうか。

私の体験したKYTは,
一枚の絵を見て,
その絵の中にどのような危険が潜んでいるかを
見つけあうというものであった。

これを,学校のいろいろなところの写真を用いてやれば,
見えなかった,あるいは見過ごしていた危険を意識し,
その対策を考えあうことができるのではないだろうか。

学校は,子どもの命を預かっている。
その責任の重大さは計り知れない。

学習指導要領の在り方を問い直す

2008-06-27 | 教育
教育改革をいうのならば,
学習指導要領そのものも問い直すべきではないか。

現場の教員が,
学習指導要領をあまり読まないということが批判される。
私の場合は,
読まざるを得ない場合は読むが,
自主的には読む価値を感じない。

読む価値のあった学習指導要領といえば,
昭和20年代の試案時代の学習指導要領には読む価値がある。
教育に対する誠意がいまとは全く違うから,
読んでいて,その内容の当否に議論はあるにしても,
当時の関係者のご苦労に本当に頭の下がる思いがする。

いまの学習指導要領にどれほどの価値が認められるのであろうか。
そもそも10年ごとに改訂してきたことそのものが,
教育の混乱を招いてきたとさえ思われるのである。
もし,あのとき,この改訂をしていなければ,
このような教育状況にはならなかったのではないかということを
検証してみることも必要ではないか。

現場感覚としては,ひっきりなしに改訂されている感じで,
そのたびに教科書が変わる。どうにも落ち着かないのである。
それも,いつも使いにくく変わっていく印象なのである。

学習指導要領は,もっとざっくりと,
国が公教育で必ず教えるべきであるとする内容を示すにとどめ,
教育方法や学習観については現場や地域にまかせてはどうか。
そして,少なくとも50年ぐらいは変えないつもりで
作ってはどうだろうか。
教育は国家百年の計である。
その半分ぐらいはもたせてほしいものである。
すぐに,
「変化の激しい時代」云々という声が聞こえてきそうだが,
そのような変化の激しい時代にあっても,
変化しない部分をきちんと見極めて教えることのほうが
初等中等教育にとっては大事なことなのである。

それに,キャッチフレーズをいちいち作る必要はない。
「教育の現代化」,「ゆとりと充実」,「新しい学力観」などなど,
時代とともに消えていったところからみると,
「生きる力」も「知識基盤社会」も「習得・活用・探求」もやがて
消えていくであろう。
教育は,
そのような消えゆくものに翻弄されるわけにはいかないのである。


「これからの時代は」言説の憂鬱

2008-06-22 | 教育
次のような言説を聞くと,一気に憂鬱になる。

これからの時代は,
グローバル化が一層進み,
新旧のパラダイムの転換を伴う知識基盤社会である。
それに対応した教育の変革が求められる。

すべて仮説である。
未来のことはわからないのに,
どうしてかくも断定的に語ることができるのか。
むしろ,そのような社会がくることを想定することの方が,
パラダイムの固定化を招くかもしれないし,
未来がそのような想定と異なるものであった場合,
大きな過ちを招くかもしれないのである。

このような未来想定は,
バイアスのかかったものであると知ることが大事である。

あくまでも,未来は未知である。
どうなるかわからない未来に対応していくためには,
謙虚に過去を振り返ることしかできないのである。

教育においては,
過去の実践でうまくいったところを継承し,
うまくいかなくなったところを修正していくという
日常的な改善しか
実際には意味をもたない。

何らかの未来仮説を想定して,
そのための学力を論じても,
威勢はいいかもしれないが,
全く無意味である。

よく教育行政の立場の方から,
新しい学習指導要領の考え方が浸透していないとか,
新しい学力観が理解されていないとか,
今までも現場があたかも無知無理解であるかのような
批判を受けることがあったが,
それは,そうではなくて,
現場は,そのような仮説や想定や夢物語で
動くわけにはいかないから,
そのように見えるだけである。

もし,
今以上に「指導」よりも「支援」に走っていたら,
新学力観のほうに走っていたら,
教育の混迷はさらにひどいものになっていたであろう。
腰の重い教育現場のおかげで,
なんとか今の教育水準が維持されていることを
きちんと見直すべきであろう。

未来がどうなろうとも,
初等中等教育の段階で教えるべき事柄は,
大きく異なるわけではない。
それは,
人類が過去において蓄積してきた学問的系統に
裏打ちされているからである。

何千年の蓄積がある事柄に対して,
昨日今日の思い付きを優先させようとする
無責任な教育言説はそろそろやめにしてもらいたい。






「生きる力」をはずしてみては?

2008-06-19 | 教育
以前にも書いたことがあるが(TB参照),
「生きる力」というのは,
よくよく考えてみても,
わかりにくい言葉である。

新しい学習指導要領が発表されたが,
「生きる力」の理念は継承されたとのことである。

「生きる力」の理念を共有したり実現したりすることが
教育にとって大切なのだそうである。

「生きる力」の解説を何度読んでもピンとこない。
論者によって,微妙に意味合いがずれている。

思い切って,
この「生きる力」というマジックフレーズを使わずに,
教育理念を語ってみてはいかがだろうか。

そのほうがずっと実質のある議論ができる気がするのだが。

教師の発達段階

2008-06-09 | 教育
教師の発達段階というのがあるような気がする。
これまた一種の戯画であるが,いかがでしょうか?

第1段階
初任者の段階。とにかく一所懸命に何事にも打ち込むが,
子どもの様子や周囲の状態がよく見えていない段階。
ちょっとしたことで,すぐうれしくなったり,
すぐ落ち込んだりする。
熱心に勉強するが,空回りしていることが多い。
何かよりどころがほしいので,
わかりやすい教育思潮にとらわれやすい時期でもある。

第2段階
第1段階の過ごし方によって,第2段階は2種類に分かれる。
ひとつは,自信過剰コース,ひとつは自信喪失コースである。

自信過剰コース:
第1段階で高い評価を得た場合に多く,
何でも自分の力でできると思い込み,
学級経営なども失敗はないと過信する。
研修・研鑽に励み自らの資質能力向上に余念がないが,
自分の目の前の子どもが本当には見えていないことが多い。
ときに,年上の教師やベテランを軽蔑する傾向がある。
相変わらず高い評価を受けるが,時に大失態を演じ,
一気に問題教師となることもある。
確かに授業も学級経営も上手だが,柔軟さに乏しく
少しのことで崩れやすい。
経験を自信が上回っている状態である。
「よい教育」というものが存在すると考えている。
この段階にとどまったまま出世コースを歩む者も多いが,
よい管理職にはなれない。
また,自分が十分な評価を受けることができなかった場合,
上司をより軽蔑したり,ひがんだりする傾向が強い。


自信喪失コース:
第1段階で高い評価を得られなかった場合に多く,
自らのアイデンティティーを,
教室以外の自分の居心地の良い場所に置く。
学校以外のところに生きがいを見出す場合が多い。
授業や学級経営は一応こなしてはいるが,
それはルーティンワークとしてやっているに過ぎない。
そこに喜びを見出してはいないし,
価値も見出していない。
よって,あいかわらず評価は普通かやや低いが,
改善への意欲に乏しい。
この段階が長くなると,いかなる批判も
じっと我慢して耐えられるようになる。
誰か周囲の者が少しでもこの教師の実践を評価すると
がらっと変って生き生きと働き出すこともあるが,
このまま,定年まで進むことも多い。

第3段階
第2段階の自信過剰コースあるいは自信喪失コースから
周囲の支えによって何らかの形で抜け出すことのできた者のみ,
第3段階に進むことができる。

この段階の教師は,自分の限界をよくわきまえている。
授業にしろ,学級経営にしろ,
うまくいくこともあれば,
うまくいかないこともあることを経験的に知っている。
うまくいかないときの対処の仕方を知っているので,
大きく崩れることがない。
保護者の要求に対して,迎合はしないが理解はしている。
子どもに対して,厳しくかつやさしい。
教育に対する情熱は失っていないが,
ある種の諦念ももっている。
自分の業績を誇らず,むしろ隠している。
ただ,子どもと共にあることを楽しんでいる。

さて,あくまでも戯画ですが,
いかがでしたでしょうか?




まじめさ,几帳面さ,正確さ

2008-06-06 | 教育
学校教育においては,
まじめさや几帳面さ,正確さは,
いつも変らず
重視されなければならない。

それは,
学問的な態度としても大切なものであるし,
また,
子どもたちの人生を切り開く礎ともなるからである。

とかく愚直なまじめさが軽蔑されがちな昨今ではあるが,
学校においては是非ともこれを重視したい。

最近は,学校教育においても,
コミュニケーション能力や表現力といった
実利的な,外に現れる能力が重視される傾向にあるが,
それらを根底で支えているべき,
まじめさや几帳面さ,正確さといったものを失うならば,
それは,ただ単に軽佻浮薄な人間をつくるにすぎないのである。

学校そのものも,
外向きの見栄えを競ってよくすることよりも,
まじめさや几帳面さ,正確さのにじみでるような朴訥な趣をこそ
大切にすべきであろう。

相互不信学校カリカチュア

2008-06-01 | 教育
(注意)
このエントリーは,
あくまでも相互不信に満ちた学校を空想し,戯画化したものです。
現実の学校とは一切関係はありませんし,
決して現実の学校の様子を描いたものでもありません。
誤解のなきよう,切にお願いいたします。



うちの学校の教員はどいつもこいつも役に立たない奴ばかり。
改革改革いうのなら,こんな教員じゃあ何にもできるわけないだろう。
もっといい教員をくれ!

うちの校長てんでだめ。子どものことなどまるでわかっちゃいない。
実績をあげることばかりで,また無理難題を押し付ける。
なんでこんなに書類書かせるの?

校長になるには,校長側に立っておいたほうがゆくゆくは有利とみた。
ここはひとつ校長側で様子をみるか。

もうすぐ管理職だし,とりあえずここは沈黙を守っておこう。

あいつはなってない,
おれのほうが仕事をしているのにぜんぜん報われない。

年ばっかり食いあがって,給料高いくせに,全く仕事もしやしねえ。

若造の癖に,何にもできないくせに,理屈ばっかりこねあがって。

子どもの世話は苦手なくせに,業績作りだか何だか知らないが,
論文書きにしか興味のない奴,はやく大学でも何でも行ってくれ!

ああ,もうあの人,魂ぬけちゃってるわ。早くやめればいいのにねえ。

私のクラスは何をやっても一番で,私は教師の鑑ですって顔しないでよ。
もお,いいかげんにしてよ!

私をいじめないで。お願い!

私には教師の資格がありません。学級は落ち着かないし,
保護者から苦情はびしばし言われるし。
もともと私,まじめでおとなしい,いい子だったんです。
学校が好きだったから教師になったのに。ぜんぜんイメージ違いました。
相談相手もいないし。私これからどうしたらいいの?


うちの先生たち,何とかならないかねえ。
職員室の机の上は,ぐちゃぐちゃだし,
もってきた傘はもってかえらないから,傘立てもぐちゃぐちゃ。
トイレももっと綺麗に使えないのかねえ。
だれが後始末してると思ってるの。
これで子どもには整理整頓しましょうなんてよく言えたねえ。

かだんのはなです。かれかけてます。
せんせいとこどもたちが,わたしのたねをここにうえてくれたんで,
わたしがんばって,めをだしたの。さいしょのうちは,こどもたちも
せんせいもわたしのようすをみにきてくれたし,
みずもたくさんくれたんだけど,
いまはだれもみにきません。
そういえば,となりのうさぎさんもかなしそう。
こやのなかは,だれもそうじしないからきたないし,
えさもなんにちまえのえさかしら。
さいごまでおせわしてよ。おねがいだから。

わたくし教室の机です。こわれてます。だれも気が付きません。
落書きでいっぱいです。だれも気が付きません。困ったものです。

私,卒業記念のモニュメントでございます。
ずいぶん昔からここに立っているのですが,ほこりだらけでございます。
盛大な除幕式があってみんなが私に拍手してくれたのも
もう遠い昔です。いまはだれも見向きもしません。私がここにいることを
たぶんだれも知らないんじゃないかなと悲しくなるのでございます。

ドッヂボールのボールです。
もう1週間前から運動場にころがったままです。
だれもかたづけません。

時計台の時計です。時間が狂ってます。
私がここにいる意味ほとんどありません!

校舎の裏の空き地です。
申し上げておきますが,私は粗大ゴミ置き場ではありません!

近所の者です。
この学校,だめだわ。