文部科学省がいうところの
「確かな学力」と「豊かな心」という表現は,
学校教育のめざすところを的確にあらわしているとともに
その矛盾をもあらわしている。
その点について,考察してみたい。
学力は,
「確かさ」,すなわち正確さや精緻さ,
論理的な整合性や秩序を重視する価値観に支えられている。
例えば,知識についていえば,
あやふやな知識が多いだけではだめで,
正しい知識がないといけないのである。
一方,心あるいは情操・情緒,
または感性ということも入るかもしれないし,
はやりの個性などもこちらの部類だが,
こちらを形容するのは,「豊かな」という言葉である。
すなわち,多面性・多様性を重視する価値観である。
ところが,よくよく考えてみると,
「正しさ」は「豊かさ」を保障しないし,
「豊かさ」は「正しさ」を保障しないのである。
それぞれ異なった方向性をもつ価値観なのである。
それゆえ,次のようなことが起こる。
例えば,授業場面で,
一見「豊かさ」を求めた言い方として,
「自分の感じたこと・思ったことを,
感じたまま・思ったままに書いていいのですよ」と
いうようなことを教師がいう。
豊かさとは,多様性と広がりであるから,
子どもが自由に感じたことを書けばそれで
「豊かさ」への方向性は満たされていくはずである。
ところが,子どもが自由に書いたことが
そのまますべて是認されていくわけではない場合が多い。
たちまち,「正しさ」のフィルターがあらわれてくるのである。
「正しさ」のフィルターなしには,評価などできないのである。
このように考えてみると,
学校教育のめざしているのは,
本当は「豊かさ」そのものではなく,
「正しさ」なのだということが見えてくる。
少なくとも,
わが国の場合,多様性を「正しさ」とする考え方は
根付いていないのではないだろうか。
実際のところは,
「豊かな心」がめざされているのではなく,
「正しい」心,感性,情緒,個性などなどが
めざされているのである。
そこでは,「正しい」という価値,すなわち
一定の文化的な規範性に縛られることになる。
学校教育の場では,
多様性や個性を認めるべきだ,
あるいは多様性や個性を認める教育を行っていると
標榜しながら,
ある一定の文化的な規範を植えつけていく機能をもっている。
ここに,学校教育の価値のねじれがある。
いや,この価値のねじれは,
社会全体をも覆っているのであって,
「感性」や「情緒」,
あるいは「品格」といったものを
重視する論調もまた,
豊かな感性や情緒あるいは気品を求めているのではなく,
ある一定の方向性をもった価値の尊重を
求めるものなのである。
その際,「豊かな」という形容を冠することによって,
その価値の是非についての判断を停止させる強制力をもつのである。
少なくとも,学校現場では
そのことを自覚しておくべきであろう。
「確かな学力」と「豊かな心」という表現は,
学校教育のめざすところを的確にあらわしているとともに
その矛盾をもあらわしている。
その点について,考察してみたい。
学力は,
「確かさ」,すなわち正確さや精緻さ,
論理的な整合性や秩序を重視する価値観に支えられている。
例えば,知識についていえば,
あやふやな知識が多いだけではだめで,
正しい知識がないといけないのである。
一方,心あるいは情操・情緒,
または感性ということも入るかもしれないし,
はやりの個性などもこちらの部類だが,
こちらを形容するのは,「豊かな」という言葉である。
すなわち,多面性・多様性を重視する価値観である。
ところが,よくよく考えてみると,
「正しさ」は「豊かさ」を保障しないし,
「豊かさ」は「正しさ」を保障しないのである。
それぞれ異なった方向性をもつ価値観なのである。
それゆえ,次のようなことが起こる。
例えば,授業場面で,
一見「豊かさ」を求めた言い方として,
「自分の感じたこと・思ったことを,
感じたまま・思ったままに書いていいのですよ」と
いうようなことを教師がいう。
豊かさとは,多様性と広がりであるから,
子どもが自由に感じたことを書けばそれで
「豊かさ」への方向性は満たされていくはずである。
ところが,子どもが自由に書いたことが
そのまますべて是認されていくわけではない場合が多い。
たちまち,「正しさ」のフィルターがあらわれてくるのである。
「正しさ」のフィルターなしには,評価などできないのである。
このように考えてみると,
学校教育のめざしているのは,
本当は「豊かさ」そのものではなく,
「正しさ」なのだということが見えてくる。
少なくとも,
わが国の場合,多様性を「正しさ」とする考え方は
根付いていないのではないだろうか。
実際のところは,
「豊かな心」がめざされているのではなく,
「正しい」心,感性,情緒,個性などなどが
めざされているのである。
そこでは,「正しい」という価値,すなわち
一定の文化的な規範性に縛られることになる。
学校教育の場では,
多様性や個性を認めるべきだ,
あるいは多様性や個性を認める教育を行っていると
標榜しながら,
ある一定の文化的な規範を植えつけていく機能をもっている。
ここに,学校教育の価値のねじれがある。
いや,この価値のねじれは,
社会全体をも覆っているのであって,
「感性」や「情緒」,
あるいは「品格」といったものを
重視する論調もまた,
豊かな感性や情緒あるいは気品を求めているのではなく,
ある一定の方向性をもった価値の尊重を
求めるものなのである。
その際,「豊かな」という形容を冠することによって,
その価値の是非についての判断を停止させる強制力をもつのである。
少なくとも,学校現場では
そのことを自覚しておくべきであろう。