学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

確かな学力と豊かな心

2007-08-31 | 教育
文部科学省がいうところの
「確かな学力」と「豊かな心」という表現は,
学校教育のめざすところを的確にあらわしているとともに
その矛盾をもあらわしている。

その点について,考察してみたい。

学力は,
「確かさ」,すなわち正確さや精緻さ,
論理的な整合性や秩序を重視する価値観に支えられている。
例えば,知識についていえば,
あやふやな知識が多いだけではだめで,
正しい知識がないといけないのである。

一方,心あるいは情操・情緒,
または感性ということも入るかもしれないし,
はやりの個性などもこちらの部類だが,
こちらを形容するのは,「豊かな」という言葉である。
すなわち,多面性・多様性を重視する価値観である。

ところが,よくよく考えてみると,
「正しさ」は「豊かさ」を保障しないし,
「豊かさ」は「正しさ」を保障しないのである。
それぞれ異なった方向性をもつ価値観なのである。

それゆえ,次のようなことが起こる。
例えば,授業場面で,
一見「豊かさ」を求めた言い方として,
「自分の感じたこと・思ったことを,
 感じたまま・思ったままに書いていいのですよ」と
いうようなことを教師がいう。
豊かさとは,多様性と広がりであるから,
子どもが自由に感じたことを書けばそれで
「豊かさ」への方向性は満たされていくはずである。

ところが,子どもが自由に書いたことが
そのまますべて是認されていくわけではない場合が多い。
たちまち,「正しさ」のフィルターがあらわれてくるのである。
「正しさ」のフィルターなしには,評価などできないのである。

このように考えてみると,
学校教育のめざしているのは,
本当は「豊かさ」そのものではなく,
「正しさ」なのだということが見えてくる。

少なくとも,
わが国の場合,多様性を「正しさ」とする考え方は
根付いていないのではないだろうか。

実際のところは,
「豊かな心」がめざされているのではなく,
「正しい」心,感性,情緒,個性などなどが
めざされているのである。

そこでは,「正しい」という価値,すなわち
一定の文化的な規範性に縛られることになる。

学校教育の場では,
多様性や個性を認めるべきだ,
あるいは多様性や個性を認める教育を行っていると
標榜しながら,
ある一定の文化的な規範を植えつけていく機能をもっている。

ここに,学校教育の価値のねじれがある。

いや,この価値のねじれは,
社会全体をも覆っているのであって,
「感性」や「情緒」,
あるいは「品格」といったものを
重視する論調もまた,
豊かな感性や情緒あるいは気品を求めているのではなく,
ある一定の方向性をもった価値の尊重を
求めるものなのである。

その際,「豊かな」という形容を冠することによって,
その価値の是非についての判断を停止させる強制力をもつのである。

少なくとも,学校現場では
そのことを自覚しておくべきであろう。


学校・家庭・地域の連携?

2007-08-27 | 教育
教育の世界で,
広く肯定されるような言説については,
とりあえず疑ってみることにしている。

今回は,「学校・家庭・地域の連携の推進」について
考えてみたい。

学校・家庭・地域は,
それぞれ,子どもを育てる機能をもっているが,
自ずからその立場や視点は異なっている。

三者三様に子どもの異なった面を見ており,
異なった価値観をもって育てている場合も多い。
各々その機能は独立しているのである。

この三者三様のあり方が,
一人の子どもの中で複雑な過程を経て
統合されていくというのが,
子どもが大人になっていくということなのであろう。

機能から言えば,
家庭・地域が
基本的には自然発生的なプリミティブなものを
背景として持っているのに対して,
学校はあくまで,
人為的につくられた近代的な装置あるいは機関である。

したがって,子どもを育てる上においても,
根本のところでは,対立的な側面をもっているのである。

例えば,学校は,社会的機能として
擬似共同体的な部分と序列化機能をともにあわせもっており,
知識や技能を与えることに特化した
秩序や機会の平等性をもとうとしているが,
家庭や地域は,
序列化機能をもたない共同体であり,
知識や技能を与える機能に特化しているというわけではない。

それゆえ,
学校と家庭の場合には,
学校から家庭をみたり,家庭から学校をみたりすると,
「なんだかおかしい」ということになりがちなのである。
子どもをみる価値観において,相容れない部分があるのである。

また,学校と地域の場合は,
本質的なところで利害や理念が一致していない場合が多い。
例をあげれば,連携の一環として,
学校が地域行事に積極的に協力しましょうという場合,
地域行事には,宗教性を帯びたものが極めて多い。
公立学校の場合は,
宗教的に中立の立場をとらなければならないことになっているが,
このあたりから生ずる問題も多いのである。
また,地域と学校のあいだでは,ギブ&テイクの関係がないと
うまくいかないことが多いのであるが,
そこにも問題は潜んでいるのである。

かくして,学校・家庭・地域の三者の連携というのは,
お題目としては魅力的でも,
実質的には困難なことなのである。
あえて,困難をおして連携を推進したとしても,
その労力に比して,
「連携した」という以上のよい結果を生むとは限らない。
連携の名の下で,
学校がやるべきことを家庭や地域に依存するという形での
学校の専門性放棄を生む場合すらある。

むしろ,三者の連携においては,
学校・家庭・地域の独立的な機能の尊重と,
お互いの専門的な領域には介入しないという意味での相互理解と,
可能な範囲においての情報交換程度にとどめておくべきであろう。

夏休みはゆっくり休もうよ

2007-08-21 | 教育
近頃は,学校の教師といえども,
夏休みにゆっくり休むというようなこととは
無縁になっている。

授業時間の確保とやらで,
夏休みそのものが削られたり,
学力補充というような名目で
補習授業があったりと,
教師だけでなく,
子どもたちの休みも減ってしまっているのである。

学校の教師も,
休みを取らずに
職務に精励することが
あたかもよい教師であるかのように
思われるようになってきた。

もともと,学校などというところは
のんびりゆったりしていなければならないところなのである。
世間とは違う時間の流れが必要なのである。

実社会と学校が同じ価値観,
同じ時間の流れのなかで動いていて
どうしてよい子どもが育つのだろうか。

実社会を離れて,
のんびりゆったりと過ごすことのできる場所,
それが学校なのである。

学校に来ると,ほっとする,
それが大切なのではないだろうか。

ともあれ,何はなくとも
もっと休みがほしいのである!!

予算配分に競争原理?

2007-08-08 | 教育
公立学校への
学校選択制の導入と,
それにともなって
多くの児童生徒を集める学校に
重点的に予算配分をしようという考え方がある。

予算配分の面にまで競争原理を導入しようという考えである。

つきつめて考えるとこれはへんである。

学校の人気不人気を決めるファクターは
さまざまあるであろうが,
学校の人気不人気の原因をどこに帰するかという問題である。

学校の予算配分は,
直接的には,
その学校に通う子どもたちの利益不利益に
関わっている。

予算配分を重点化すれば,
不人気な学校に通う子どもは
不利益をこうむるということに
なりかねないのである。

学校選択制と予算配分による競争原理を
本当に導入したいのであれば,
学校運営の予算配分を重点化するよりも
フェアな競争ができるように
予算の面での子どもへの不利益が生じないようにすることと,
教員の人事異動をなくして教員を学校に固定し,
さらにその学校の人気不人気によって
教員の給与のほうに格差をつけるというのなら
まだ話はわかる。

競争原理を導入するのなら,
誰がその競争で,利益を得るのか,
また不利益をこうむるのかを
きちんと考える必要がある。

公立学校の場合,
競争による不利益をこうむるのが
子供だけになる可能性があるということを
誰も問題にしないのであろうか。

不思議である。