学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

よいこととわるいことを明確に

2006-03-31 | 教育
いまの学校では,
よいこととわるいことをきちんと区別する規範が
あいまいになっていはしないか。

これは,こと学校だけのことではなく,
社会全体の風潮の影響をはからずも受けていると
考えたほうがよさそうである。

遅刻しないほうが,遅刻するよりもよい。
欠席しないほうが,欠席するよりもよい。
まじめにやるほうが,ふまじめにやるよりよい。
けんかはしないほうが,けんかをするよりもよい。
人の話を静かに聴くほうが,私語をしながら聞くよりもよい。

などなど,あたりまえのことに対して,
疑問を呈することが,
あたかも子どものことを深く考えているかのような
風潮は,もうやめたほうがよいのではないか。

たとえば,
「授業中私語をするのは,
 授業が魅力的でないからであり,
 教師がもっと魅力ある授業をすれば,
 私語は減るはずだ」というような議論は,
その議論を信奉する者が少数派であるときにだけ,
教師に自省をうながすということで意味があるのであり,
もしもその議論が多数派になってしまえば,
生徒の私語に正当性をあたえ,規範を乱すという
マイナスの効果を生むのである。

いまの学校では,
あたりまえの規範よりも
こうした少数派として価値がある議論のほうが
大手を振って歩いているように思える。

いまの学校に必要なのは,
あたりまえの規範を
堂々と主張することである。
いろいろと搦め手から考える議論には取り合わないほうがよい。

「私語をするのは,
 静かに聴くべき授業を妨害するという意味において
 私語をする者が悪いのであり,
 それ以外ではない。」ということを
一点の曇りもなく主張すべきである。

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場所と思い出

2006-03-27 | 教育
3月は卒業のシーズンである。

学校を卒業してから,
学校をなつかしく思い出すことがあるとすれば,
その思い出は,
人にまつわる思い出と共に
場所やものにまつわる思い出もあるだろう。

学校という場所は,
多くの卒業生が懐かしむ場所として存在する。

何十年もたって
ふとしたきっかけで学校を訪れたとき,
学校の校舎や教室や机やいすが,
いつまでも変わらずにそこにあるということは
うれしいものである。

新しい時代に即応して
どんどん新しい校舎を建て,
新しい設備を整えるのは結構なことだが,
学校のどこかに懐かしい場所を残しておいてほしいものである。

また,学校の運営に関わる人たちには,
そのようなつつましい感性にぜひとも敏感であってほしいと願う。

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授業評価

2006-03-23 | 教育
近頃,生徒による授業評価を
学校単位で一斉に行うことが盛んである。

もともと授業というものは,
人が人を教えるわけであるから
本質的にどのような授業形態にしろ,
インタラクティブな人間関係を
前提にしているのである。

そのため,わざわざ取り立てて
授業評価などを制度化しなくとも,
授業を受けている者からのフィードバックは
授業者の意識如何によって,
随時得ようと思えば,得られるのである。

したがって,意識の高い教師は,
制度化された授業評価がなくとも
自己反省が可能であるし,
逆に意識の低い教師は,
制度化された授業評価があっても
自己反省はしないものである。

ひるがえって,生徒や学生の側からみると,
制度化された授業評価で,
毎年毎年,すべての授業について,
ほとんどかわりばえのしない
質問項目に答えなければならないのであるから
苦痛以外のないものでもない。

したがって,
制度化された授業評価は,
継続的に実施すればするほど,
実効性が失われるというジレンマをもっている。

さらに,匿名での授業評価などになると,
教育的にはデメリットのほうが大きい。
匿名で特定の他者を評価したり批判したりすることは
学校で生徒に行わせるべきことではない。

「生徒による授業評価をやっています」というと
いかにも生徒を大事にしている学校という印象を与えるが,
それは単なる印象にすぎない。
生徒による授業評価をやっているだけでは,
もしかしたら教育的には
デメリットのほうが大きい場合があるのである。

大切なのはむしろ,
日常的に行われる,
個々の教師による自分の授業の分析である。

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教育改革を考える

2006-03-21 | 教育
教育改革の論議は常に性急すぎる。

わが国の戦後教育の歴史をみると,
常にある教育方針の結果が現れる前に
その教育方針に反対する声高な批判によって
教育方針の修正がはかられてきたのである。

そのことが,わが国の戦後教育を迷走させたのである。

わが国の戦後教育の歴史をみれば,
「学力低下批判」と「詰め込み批判」が
交互にあらわれていることがわかる。

つねに正反対の方向へゆれる学習指導要領に
いちばん翻弄されてきたのは,
教育現場である。

私立学校の教育に注目が集っているようだが,
そのひとつの理由は,
私立学校は公立学校に比べて
教育行政の影響を受けにくい構造になっており,
その点,自分の学校独自の教育を
練り上げることができたということにあろう。

ともあれ,性急な教育改革は,
批判者の溜飲をさげることにはなっても,
冷静に見た場合,教育効果は薄いのである。

教育においては,
「うまくいかないから変える」のではなく,
「うまくいかないけれど,このままやってみる」ことが
大切なのである。

なぜなら,
急に変えることは,
変えないことより,たちが悪いからである。
それに,「変える」のは,
「変えたくてたまらない」人がいるからであり,
多くの場合,その人は教育現場の人間ではない。
また,変えてうまくいく保証はどこにもないのである。
短期的にはよくなったようにみえても,
長期的にデメリットが生ずることのほうがむしろ多い。

教育現場では,制度をいじらなくても
個々の教師レベルで,漸次改善がはかられていくものである。
ほんとうは,これが真の教育改革なのである。
すなわち,教育改革は,現場の自浄作用によって
常に行われているのである。

この自浄作用の働かないような学校は,
やがて自然に淘汰されるので,
わざわざ外から教育改革をするなどというのは,
むしろ根本の問題を先送りするだけである。

真の教育改革は,緩やかな変化として現れるべきである。

今,いわゆる教育改革を拒否することこそ,
もっともラディカルな教育改革なのである。

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市場化と学校

2006-03-19 | 教育
学校に市場原理を導入しようとする議論がさかんである。
学校に市場原理を導入するということの意味について考察してみたい。

学校という組織に市場原理をあてはめると,
保護者と生徒が顧客であるということになる。
ところがこの顧客は,一定の年限で顧客ではなくなるので,
学校としては,
現在の顧客に対するサービスよりも
新規顧客の開拓に力を注ぐことが必要になる。

さらに,新規顧客は学校選択に際して,
数値化されたデータ(偏差値や進学率,スポーツなどの戦績)と
イメージを基準にする。
学校は,いきおいデータとイメージの改善に力を注ぐことになる。

とくにデータは一朝一夕には改善できないので,
イメージ改善が至上命題となる。

そのため,まずは広報によるイメージ改善に精力を注ぎ,
お金をかけたパンフレットやポスターができあがるのである。
イメージ改善のためには,パフォーマンスも必要である。
地道な教育実践を続けて良質な教育を提供するよりも,
教育効果もさだかではない新しい教育を導入したと宣伝するほうが,
広報価値が高い。

さらに,新規顧客に好まれるよい学校イメージというのは,
実は案外画一的である。
いろいろな学校のパンフレットやHPが
驚くほど似かよっているのはそのためである。

そこにおいて教師は,現存の顧客を少なくとも怒らせず,
学校イメージをそこなわない教師であることが求められる。
つまり,人当たりがよく批判的でなく従順な教師である。
授業力は,顧客から批判が来ない程度でよい。

なぜなら,新規顧客は,
「あの学校,いい授業してくれるらしいよ」という価値基準では
決して学校を選ばないからである。
むしろ,
「あの学校の説明会にいったけど,
 感じのいい先生が多いね」というほうが,価値が高いのである。

批判力のある個性の強い教師や,
地道な教育実践の重んずる教師,
伝統を重んじる地味な教師や
学識や授業力にすぐれてはいるがあくの強い教師は,
敬遠されることとなる。

かくして市場化によって
実は学校の個性化などは進まず,
学校の没個性化がすすむのである。

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究極の授業改革

2006-03-17 | 教育
現在の教育改革はうさんくさいので
基本的に反対の立場をとっているが,
あえて今回は究極の授業改革案を提示する。
教育改革に熱心な皆様のご批判を仰ぎたいものである。

その1 白紙の状態で授業を行う。

一切授業準備をせず,
教材も授業開始後はじめて目にする状態で
授業をしてみる。
これで1時間の授業をその場で構成する力があるか,
わからないことをごまかさないで授業ができるか,
自分の今もっている本当の授業の力がわかるのである。

その2 教師が楽しめる授業を行う。

次に,授業を楽しむことを考える。
生徒を楽しませるのではない。
授業の題材を,
自分がおもしろいと心から思えるものに
限定するのである。
生徒がわかろうがわかるまいが関係ないのである。
ただひたすら自らの知的興味にしたがって
授業を構成する。
心から知ることを楽しんでいる様子を
生徒に見せつけるのである。

その3 沈黙の授業を行う。

授業中,生徒の前でしばらくの間
沈黙するのである。
授業の途中で,
はたと2分ほど沈黙して考え込み,
その後,おもむろに授業を再開する。
生徒がそれでもざわざわしなければ,
あなたの授業の力は大したものである。

その4 生徒を寝かせる授業を行う。

授業で生徒の眠りをさそう語りを試みる。
教室の生徒のうち,
どのくらいの人数を眠らせることができるか,
語りの腕が分かる。
逆に,眠り込んだ生徒を,語りの力だけで
目覚めさせることを試みることも重要である。

その5 雑談の授業を行う。

1時間の授業を雑談で埋め尽くしてみる。
ただし,プライベートな話題や,
生徒が興味を持っている芸能スポーツ関係は
除外する。
ためになる雑談だけで,
1時間をもたせることができるか,
試してみるのである。

さて,いかがだろうか。
教師がどの程度プロフェッショナルであるかが
はっきりわかってしまう授業改革案である。

ただ,実際に試みた場合に,
いかなる結果が生じても
当方としては,
一切責任をもちませんので
その点ご了承願いたい。

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「蛍の光」再考

2006-03-12 | 教育
「蛍の光」の1番の歌詞には,
学校教育のひとつの本質が表現されている。

やはり,「蛍雪の功」の故事のように
苦労して勉強することに価値があるのであり,
「書(ふみ)読む月日 重ねつつ」とあるように,
価値のある書物を読みふけるという意味での
読書三昧の日々が,
学校生活なのである。
そんな生活を続けているうちに,
「いつしか年もすぎ」てゆくというのが
学校生活なのである。

このような刻苦勉励の姿勢が
今の学校に残されているであろうか。

何事も,楽に,合理的に,効率的に,
かつ楽しく,わかる授業ばかり受けていたのでは,
到底及びもつかない境地が
「蛍の光」には描かれているのである。

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教えたいこと

2006-03-06 | 教育
いささか時代錯誤かもしれないが,
私が子どもたちに学校で教えたいこと。

要領よくやることではなく,愚直にやること。

ぱっぱとやることではなく,じっくりやること。

結果が大事なのではなく,過程が大事であること。

さらっとこなすことではなく,こつこつやること。

速くやることではなく,丁寧にやること。

スマートにやることではなく,まじめにやること。

テストで
要領よく点数をとれる解法を身につけることなど
何の意味もないこと。
そんなものは,学力ではないこと。

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指示の言葉

2006-03-06 | 教育
教師が子どもたちに指示するときの言葉のことだが,
できるだけ丁寧な言葉を使いたいと思う。

でもそうもいかないこともある。
それでもいわゆる命令形は
できるだけ避けるようにしている。

たとえば,早くしてほしいときの言い方。

「早くしろ」とは言わない。
 相手の尊厳を傷つける。

「早くせよ」,これは命令形だが,「早くしろ」よりは
 擬古文調で少しマイルドに聞こえるようだ。

「早くする!」,案外言い方によっては,終止形でも
 指示はできる。どうしても,命令口調になりそうなとき,
 これを使う。

「早くしなさい」,教師の口調としては,ほぼ一般的。
 落ち着いて穏やかに言うべし。

「早くしましょう」,時と場合による。
 いつもこれでは,ちょっと無理がある。
 指示したいときに勧奨の文を使うのは,
 いささか偽善のにおいがするので私は好まない。

「・・・・・・」,眼力があれば,
 何もいわずに,子どもたちにその意を通ずることができる。
 しかし多用すべかからず。人の顔色を伺うようになるおそれもある。

いずれも,一長一短がある。
いつも自分の言葉が,子どもたちにどんな印象を与えているかに
敏感でありたい。

ただ,自分の言うとおりに子どもたちを
動かせばよいのではない。

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すきまの大切さ

2006-03-05 | 教育
どうも,学校にせよ,授業にせよ,
「すきま」を大切にしなくなっている。

ここでいう「すきま」とは,ぽっかりと穴の開いたように
何もない時間のことである。

今の学校は,「ゆとり教育」批判もあってか,
妙に強迫的なところがあって,
「すきま」の時間を一生懸命埋めようとする。

授業前や授業と授業の間のせっかくの「すきま」に
何かを埋め込んでしまうのだ。
あたかも生産性向上をめざす工場か何かのように。

また授業中も,
先生も「すきま」なく教え,
子どもたちも「すきま」なく絶えず何かをやっている。

天気のよい日,すっきりと晴れた青空を
子どもも先生も,教室の窓から,
のんびりとただ眺めている。
授業中にも,本題とは関係のない
そんな「すきま」が必要なのだ。

その「すきま」には,
目に見える教育効果などはない。
研究課題にもなりにくいであろう。

ただ,学校をなつかしく思い出すときには
必ず「すきま」の時間に見た風景を思い起こすのだ。

「すきま」のある落ち着ける場所,それが学校なのだ。
学校施設そのものもまた
「すきま」の生きる空間でなくてはならない。

やがて春が来る。
「すきま」をつくるには絶好の季節である。

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仰げば尊し その2

2006-03-04 | 教育
「仰げば尊し」の歌詞を思い浮かべつつ
考えたこと。

「仰げば尊し わが師の恩」

先生に恩義を感じる心,
これを教師の側から論じるのはタブーであろうが,
あえて言えば,
やはり「師の恩」を感じる精神性は
大事にしたほうがよいのではないか。

「恩」というのにふさわしい英語は何であろうか。
favors, kindness, indebtedness,
いずれもどうもしっくりこない。

もっと含蓄の深い,
情緒的な言葉である。
そして,
もっと非合理な非論理的な部分を含んでいる。

教師は,子どものために
何の見返りも求めずに尽くし,
成長した子どもの姿を
喜びを持って見送り,
子どもはそんな教師の姿に
「恩」を感じて,
新たな世界に旅立つ。

それは,とても非合理な
あるいはナンセンスな世界かもしれないが,
そこにはとても美しい何かがある。

それは,経済合理主義や市場原理を超えた世界である。

教師の授業評価をやらされる生徒や,
その結果によって一喜一憂させられる教師は,
この美しい世界を垣間見る機会を失ってしまう。

今は,せいぜい教師はプロフェッショナルとして振舞い,
自分の仕事の価値に対して
それ相応の対価を要求することができれば幸せなほうである。

教師であることがそのまま人生そのものであることを許された
かつての「恩師」たちは,その誇りゆえ
教師としての仕事の価値にいちいち対価を求めなかったであろう。

プロフェッショナルであろうとすれば,
それも許されずに奉仕を要求され,
奉仕に徹していても
「恩師」であることすら許されない今の教師に,
いったいどんな誇りが残されているのだろうか?

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仰げば尊し

2006-03-03 | 授業の雑談
ずっと前,別のところでブログをやっていたとき
書いたことがあるのだが,
このブログには書いていないので,
もう一度書いておきたい。

3月といえば,卒業式の季節である。

卒業式といえば,「仰げば尊し」である。
とはいえ,「仰げば尊しわが師の恩」などとは
思ってもらえない御時世であるから,
この歌を歌わない学校のほうが多いかもしれない。

私のパソコンでも「わがし」は「和菓子」としか
変換されないのである。

それはさておき,
「仰げば尊し」の歌詞は,
古文の勉強をさぼっていると
わけがわからなくなる歌詞なのである。

一例をひとつ。

「いまこそ わかれめ」の
「わかれめ」は,
「分かれ目」ではないのである。

これは,係り結びなのである。

「こそ」の結びが「め」である。
「め」は助動詞「む」の已然形である。

かく言う私も,
はずかしながら
昔は「分かれ目」だと
思っていたのである。

卒業の季節になると
生徒に話すたわいのない雑談である。

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今日の授業はどうであったか

2006-03-02 | 教育
今日の授業はどうであったか。
今日の授業はいい授業であったか。

今日の授業は,子どものどんな能力を伸ばしたのか。
その能力を伸ばすことに,どんな意味があるのか。
その能力とひきかえに,失われたものはないか。

今日の授業は,子どもにどんな知識を与えたのか。
その知識を与えることに,どんな意味があるのか。
その知識とひきかえに,失われたものはないか。

今日の授業は,子どもにどんな態度を形成したのか。
その態度を形成することに,どんな価値があるのか。
その態度とひきかえに,失われたものはないか。

今日の授業は,ほんとうに子どものためになっているのか。

それにしても,振り返ってみると,
「いい授業ができた」と思える日の何と少ないことか。

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