学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

スクール・ニューディールとはよく言った

2009-06-20 | 教育
スクール・ニューディールという政策があるようだ。
学校の耐震化・エコ化・ICT化を推進するものであるようだ。

ところでこのネーミングは実にうまい。
ニューディール政策とは,
ご存知の通り,アメリカのフランクリン=ローズヴェルト大統領が
世界恐慌克服のために推進した社会資本充実を中心とする経済政策である。

とすると,スクール・ニューディールとは,
学校の施設充実による景気浮揚のための経済政策である。
これは,教育政策ではなく,経済政策である。
そう見るのが妥当なように思われる。

耐震化はもちろん学校にとってすぐにでもやってもらいたいことである。
エコ化は,教育的に見れば,リデュースを中心とすべきものであろうが,
それでは,景気浮揚にならないから,太陽光発電施設などという
発想になるのであろう。
ICT化については,ちょっと早とちり気味である。
教員に一人一台のパソコンはありがたいが,
電子黒板はそれほど有効性の高いものであろうか。疑問である。
使わないときは,結構じゃまである。
それに,エコ化と矛盾する。全国の学校で一斉に電子黒板を活用し出したら,
一台あたりの消費電力はわずかでも,全体では相当なものになるだろう。

ともあれ,一時的に予算をくれても,
とくにICT関係の機器などは維持費や修理費,施設更新の費用がかかるのである。
永続的にその予算が保証されないと,結局数年のうちに使えなくなる。
そのあたりまで考えてくれているのであろうか。

結局,景気浮揚のための経済政策としてみれば,
電子黒板などは,とりあえず一気に購入して,
使わないで倉庫に置いておくのが,
予算的にもエコ的にも最も理にかなっているということになりかねない。

考えものである。

修学旅行引率心得十か条

2009-06-20 | 教育
1 行き先の地理,歴史,風物,自然に精通すべし。
  バスガイドの説明に頼るべからず。
  必ずガイドさんを補ったり質問したりして,
  子どもたちにわかりやすいように配慮すべし。
  バスの中,電車の中も,貴重な学習の場なり。

2 旅行中は,常に笑顔で旅行を楽しむ姿勢をとるべし。
  教師の仏頂面は,旅行を台無しにする。

3 旅行で一番大切なのは,子供たちの安全管理である。
  引率の際は,常に先頭を歩くべし。
  教師たる者,後ろを振り向かなくても,
  子どもがついてきているかどうか察知できるぐらいであるべし。
  教師は常に危険な方に立ち,子どもたちを自分の体を盾にして守るべし。

4 修学旅行は「修学」のための旅行なり。
  子どもたちが「よく見,よく聞き,よく味わう」ことが大切。
  決して,思い出づくりのために連れていっているのではないと心得るべし。

5 旅行の行程,時間については,すべて頭に叩き込んでおくべし。
  旅行のしおりをいちいち見なければいけないようなら半人前なり。

6 旅行の責任者は,学校であり教師である。
  添乗員やカメラマンに,子どもの指導を押し付けるべからず。
  集合写真の写真隊形をつくるのは,添乗員やカメラマンの仕事にあらず。
  教師の役目なり。

7 一切の供応を受けるべからず。
  すべてこれ,子どもの負担なり。

8 教師たる者,旅行中は就寝時も勤務時間なり。
  いつでもすぐに飛び出せる格好で寝るべし。

9 旅行中のすべての決断は団長から発せられる。
  旅行中は,上意下達の命令系統を遵守すべし。

10 荷物は小さく。行動に支障のないようにすべし。
  土産を買いすぎて荷物が大きくなりすぎるのはご法度なり。
  

見えない仕事

2009-06-20 | 教育
教師の仕事というものは,
どうも一般には軽く見られているようである。

誰でもできそうな暇な仕事に見えるのだろう。

子どもの成長のために,あるいは子どもの安全のために,
どれほどの見えない労力が割かれているのかということが
あまり分からないのだろう。

見えない仕事の内容は,
あまりにも日常的で多岐にわたっているので,
まじめな教師ならすぐに理解できるだろうが,
なかなか,うまく説明できないものである。

ということで,
一般の人に見えやすい目立つ仕事だけにして,
見えないところで
子どものためにやっている諸々の配慮をやめてしまえば,
教師は楽になるし,学校の評価も上がるという訳だ。

実際,学校が,
そっちの方向に徐々に動いている気がしてならない。

かくして,
見えない仕事はベテランから新人へと伝わっていかず,
教師の仕事の意味も変質していってしまう。

残念なことである。
これで本当にいいのだろうか?


リアルタイム修学旅行実況に思う

2009-06-18 | 教育
最近はインターネットの普及で
いろいろなことが可能になってきた。

例えば,
修学旅行中に撮影したスナップ写真などをまじえて,
修学旅行中にリアルタイムでWEBページをアップロードし,
保護者に旅行中の様子を伝えるという心憎いサービスが
可能になっている。

このようなサービスに,
保護者の満足度が高いのは当然であるが,
よくよく考えてみてもらいたい。

いったい,誰がその作業をしているのか。
わざわざそのために業者を連れていくほどの
資金的余裕のある学校もあるかもしれないが,
多くは教員がその役割に当たっているのである。

そうするとその教員は,
旅行中,カメラマンでもないのに
写真撮影に時間をとられ,
宿に着くや否やWEBページを作成するのである。

この教員が,
児童生徒を指導するのに割くべき時間が,
大幅に奪われているのである。

だいたい修学旅行というのは,
教員の手数は足りないのが普通である。
にもかかわらず,
WEBページの作成のような不要不急の仕事に,
本来の教育活動のための教員の時間が
取られるのである。

このような内部事情を保護者に理解せよというのは
難しいであろう。
保護者としては,我が子の様子が知りたいのである。

しかし,本来,教員の仕事として,
何が本当に大切なのかを見極めるのは,
それこそ管理職の重要な仕事ではないか。

喜ばれるサービスが,
必ずしも正しいサービスだとは限らないのである。

ちなみに私は修学旅行などには
カメラは持っていかないことにしていた。
教師は,子どもたちから目を離さないことが仕事である。
ファインダーを覗いていては
その仕事は完遂できないと思ったからである。

保護者との連携

2009-06-15 | 教育
保護者と学校の連携はとても大切なことだとは思うが,
とても難しいものである。

学校にさまざまな要求をしてくる保護者もいるが,
それは,少数派であろう。
多くの保護者は,学校のやることに口出ししないものである。

保護者による学校評価というのもあるが,
その結果を鵜呑みにしない方がよいだろう。
多くの保護者は,学校に対して悪い評価はしないものである。

参観日にアンケート用紙をおいてある場合もあるが,
そこに書かれたことも心して読む必要がある。
多くの保護者は,まずい授業だなと思っても,
そんなことはアンケートには書かないものである。
よっぽどでなければ,
日頃お世話になってありがたいと書くのが,
常識をわきまえた大人の対処であろう。
保護者は,学校がダメだと思えば,
ひそかに他の私教育の方法を模索するのである。

多くの保護者は,よほど腹に据えかねることが続き,
学校外のいろいろな人に相談しても解決せず,
いろいろ策を自ら講じてみて,埒があかず,
我慢の限界に達してはじめて,
学校に異議申し立てをしている。
学校はそのことに気付かない。
だから,保護者は余計に腹を立てる。

保護者は,我が子の学校だからということで,
言いたいこともぐっとこらえて,
善意に解釈できるところは最大限善意に解釈し,
無理な協力要求にも答えてくれているのである。

保護者を呼ぶさまざまな会合を
平日の早い時間に行うというのも無神経な話である。
多くの保護者は,自分の仕事をやりくりして
来ているのである。
学校の必要から保護者を呼んでいるのであるから,
まず,保護者の都合を打診するなり,
学校の教師のほうが自分の勤務をやりくりして,
無理のない日程を組むぐらいの配慮は必要であろう。

一口に学校と保護者の連携というが,
それは学校の都合からしか言われていないことが多い。
そのような一方的な連携要求ならば,
本当は保護者は希望していないのである。

保護者がどういう気持ちで学校と接しているか,
教師や学校はもっと気づくべきであろう。

教育実習生に

2009-06-11 | 教育
居眠りしている子がいます。
隣の子としゃべっている子がいます。
内職している子がいます。
ノートをとっていない子がいます。
教科書が机の上に出ていない子がいます。
教科書の全く違うページを開いている子がいます。
姿勢が崩れてしまっている子がいます。

なぜ,ほおっておくのですか。
なぜ,気がつかないのですか。
なぜ,声をかけないのですか。

頭のなかでいろいろ理屈を考えて迷っていても,
何も声がかけられず,
何も行動できないのなら,
そんな人は教師になってはいけません。

授業のこの大切な時間が,
クラスみんなの成長の糧となりますように。
その祈りの気持ちのない者は,
教師とはとても呼べません。

どんなに立派な指導案が書けたとしても,
どんなに優れた授業の展開ができたとしても,
参加していない子どもが一人でもいたら,
それは授業とは呼べません。
子ども一人一人に力の差はあって当たり前。
でも,どんな子どもであっても,
まじめに授業に参加しないのならば,
その子どもの成長は望めない。

いろいろ言いたいことはあるかもしれないが,
いろいろあれこれ言う前に
教師なら,全員すっきりこっちを向かせてみよ!



世の中がどんなに変わっても

2009-06-11 | 教育
いつの時代も,結局はそうなのだが,
次の世代が生きる時代がどんな時代になるのか,
正確に予想することは難しい。

いま言われている知識基盤社会化やグローバル化などにしても,
これからの社会がそのようになるという確実な保証はない。

突然の危機が訪れることもあろうし,
想定とは全く逆の事象が起こることもあろう。

学校教育で本当に必要なのは,
世の中がどのように変化しても生きていける,
そのための智慧や考え方を
子どもたちに与えることなのではないだろうか。

「生きる力」を育むために何が必要かという内容的な面が
未来の社会の在り様を想定することからさまざまに考えられてはいるが,
むしろ,
「いかに生きるべきか」ということをもっと正面から見据えることが
本当は大切なのではないだろうか。
それは,世の中がどんなに変わっても変わらない問いである。
どうもそのあたりが欠落している気がしてならない。

「目標」を考える

2009-06-11 | 教育
学校には,「目標」がつきものである。
学校教育目標からはじまって,
学年目標,学級目標,班の目標,係の目標,個人目標などなど,
さまざまなレベルで目標をたてて,
そのもとで行動することが求められている。

この目標を立てて行動するという考え方は,
生き方に対するある種の価値観を表明している。

すなわち,人生は,
目標を立ててその達成をめざして
歩むべきであるという考え方である。

もちろん,これは他の考え方もできる。
人生は,全く無常なものであって,
未来のことは全くわからないのだから,
不確実な未来を前提とするのではなく,
ただ与えられた一日一日を
精一杯生きるということが大切だという考え方である。
そのほかにもいろいろな考え方があるであろう。

まず,学校は,
目標を立てた段階で,
ある種の人生観を表明しているのだということに
自覚的であるべきである。


さらに,「目標」を立てるということは,
よい価値のなかから,
ある価値を選択するという行為であるということに
自覚的であるべきである。

よく学校の目標などで,
教育の全方向を射程に入れた抽象的な目標があるが
(これは学校の教育の目的から言えば,
 まさに正しい目標なのであるが),
その目標は,行動の規範となる目標にはなりにくい。

つまり,目標が意味のあるものであるためには,
あらゆる価値の中から,
限られた価値を抽出したものでなければ
ならないのである。

つまり,目標は,進む方向を指し示すものでなければならない。

例えば,大雑把に言えば,
「学力を確かなものにし,
 豊かな人間性を涵養し,
 健康と体力を身につける」
というのは,学校教育全般の価値を反映したものであるが,
行動の規範となる目標とはなりにくい。
むしろ,
「体を鍛える」という価値に限定すると,
とるべき行動を指し示す力がより強い。
また,「毎日朝6時に起きる」というように数値が明確であると,
さらに行動を規定する力が強い。


学校の目標体系の中で,
どの目標が
どのレベルの行動規定力をもつ目標にすべきなのか,
当然,下位目標の方がより限定的で具体的であるべきなのだが,
そのあたりの体系的な構造がうまくいっていないと,
目標というものは,
ただの貼紙にすぎないものになってしまうだろう。

また,学校に特色を出して,
ダイナミックな学校運営をしたいと思うのならば,
上位目標である学校教育目標そのものを
より限定的な価値に絞る勇気が必要であろう。
しかし,公立学校に
果たしてそれが許されるのかということは,
別の課題として残っている。





心の教育をめぐって

2009-06-08 | 教育
「心の教育」はたいへん重要である。
学校現場ではその重要性に鑑み,
あらゆる場面,あらゆる機会を捉えて
心の教育を行うべきであるとされている。

しかし,
「心」をダイレクトに教育することはできない。
もしも,「心」を
ダイレクトに教育することができるとすれば,
それは,教育ではなく洗脳である。
ある種の心情へと,子どもたちを誘導するとすれば,
それも一種の洗脳である。

教育の場においては,
「心」を教育するのではなく,
「心」の問題を「知」に置き換えて教育するのである。
そして,「知」が「心」を統御する力をもつように
教育するのである。

心情や感情にしても,
学校教育の場において,
それらが教育の対象となるときには,
必ず「知」に転換されて教育されているのである。

極端に言えば,
学校では「知」の形をとっているもの
(すなわち,論理的な言語で語ることができ,
反論可能性があるという意味だが)しか
扱うことができないのであり,
扱うべきではないのである。

「知」の力で「心」を統御することを教えることこそ,
「心の教育」の本質であるべきである。

評価をめぐって

2009-06-07 | 教育
児童生徒を評価することについて考えてみたい。

相対評価にしろ絶対評価にしろ,
形成的評価にしろ総括的評価にしろ,
明示的にせよ暗示的にせよ,
ある予め定められた目標なり規準なりに対する到達度を
評価しているのである。

したがって,
目標なり規準なりが設定されていない事柄については,
評価できないということになる。

つまり,児童生徒は,
教師が予め予期した範囲での
パフォーマンスを求められており,
その範囲を超えてしまった場合は,
たとえそれが優れたものであっても,
評価対象とはならないのである。

ところが,教師―児童生徒関係は,
人間と人間の関係であるから,
教師が,教育目標などを離れて
一人の人間として児童生徒を見る場合,
児童生徒の思いがけない「よさ」を認めることになる。
むろん,これは評価とは普通呼ばない。

いっそのこと,思い切って,
学校から,
評価に関するものをすべてなくしてしまったら,
どうなるだろうか?

通知表,内申書,試験などなど,
すべてなくしてしまうのである。
目標や到達度などという言葉を
すべてなくしてしまうのである。

そうすると,
新しい授業や学びの豊かな地平が
広がってくるような気がするのだが…。


何のために学ぶのか

2009-06-04 | 教育
「何のために学ぶのか」,
古くて新しい問いである。

私が子どもの頃は,よく先生が,
「何のために勉強するのですか?」などと
子どもたちに聞いたものである。
「おかあさんがよろこぶから」とか
「勉強するとほめてもらえるから」などといった
素朴な答えを言う子もいた。
たしかに,これらは勉強する理由としては
有力なものであろう。
大人でも,
誰かが喜ぶからとか,誰かから賞賛を得たいから
学んでいるという面はあるであろう。

また,
「将来○○の仕事につくため」というような答えもあった。
将来的な展望に立って,現在を見ているわけである。
将来,ある仕事に就くために
今勉強しなければならないというのは,
実際的で,これまたよく分かる理由である。
現在,学校教育の場で最も幅を利かせているのは,
小中高大を通じて,おそらくこの種の理由であろう。
「将来○○の学校に入るため」などというのも
この理由の亜種である。

よく似ているが,
「将来,人の役に立つ人になるため」というのもあった。
これは,高邁な理想である。
最近はあまり聞かれなくなったような気がするフレーズである。
「世のため,人のため」というのは
もう少し見直されてもよいように思う。

「勉強が楽しいから」,
これは少数派だが,
まじめで勤勉な子どもや
特定の教科などが大好きな子どもがそのように言う。
確かに,楽しくて勉強をするという場合があるだろう。
一種の趣味のような感覚である。
大人になってからする勉強などは,
この種の理由が多いのではなかろうか。

そして,多くの場合,
「自分のため」という淡白な答えを
先生は正解とされることが多かった気がする。
この答えは,解釈によっては利己的とも取れるのだが,
しかし,自分の将来の可能性を
実際的な意味で広げるという意味を超えて,
自己鍛錬など自己の人格陶冶の意味合いが
込められている理由だから,
これを正解とする先生が多かったのであろう。

我が教師生活を振り返るに,
「何のために学ぶのか」,
果たして,この問いを子どもに
きちんと考えさせてきただろうかと反省する。

さらに,
自分自身,
「何のために学ぶのか」と問われたとき,
果たしてきちんと答えることができるのだろうかと反省する。

もう一度,最初から考え直してみる必要がありそうである。

進学実績を考える

2009-06-02 | 教育
進学実績という言葉について考えてみたい。

よく中学校や高等学校などで,
どの学校に何人進んだかを示すのに
進学実績という言葉を使う。

この言葉のニュアンスは,
その学校があたかも進学について
功績があったかのように聞こえるし,
また,そのように受取られてもいる。

とくに中学校における学校選択制などがはじまると,
この進学実績というものは
強い影響力をもつようになる。

しかし,考えればすぐ分かることだが,
進学実績を作り出しているのは
ほかならぬ生徒自身である。
また,現在のように,
生徒の学習機会が,学校だけに限られず
学校外の私教育の場が豊富に与えられている状況下では,
学校が,進学「実績」を誇ることなど意味がないことである。

要は,進学実績は,
生徒の資質と能力と努力と運と機会の結果であって,
学校の「実績」ではない。

学校の「実績」といえば,
よい「実績」を出すことのできる生徒を
集めることができたという
広報や営業の実績ぐらいのことであろう。

いっそのこと,
学校の進学実績を公表することを
一切禁止してしまえば,
より実質的な学校選択が行われるように
なるのではあるまいか。


競争をどう捉えるか

2009-06-01 | 教育
私たちが,子どもたちを駆り立てている競争,
特に勉強における競争とはどのようなものかを考えてみたい。

**********
今まさに,それぞれの子どもたちが
これからはじまる長い競走の
スタートラインにつこうとしている。
幼い子どもたちである。
観客席では,親たちが我が子の勝利を信じて,
一所懸命応援している。

子どもたちも,自分こそは勝者になれるのだと
純粋に信じ込んでいる。

しかし,よくみると…,
子どもたちの姿が妙なのである。

ある子どもは,
親から買ってもらった最新型のウェアに,
最新型のランニングシューズを履いて,
いかにも走りやすそうである。
ある子どもは,
なんと全身,鎧をつけている。
ある子どもは,
骨折でもしたのであろうか,
松葉杖をついている。
ある子どもは,
裸で裸足である。

そんな,もろもろの格好をした子どもたちが,
いまスタートラインについている。
しかも,自分の姿には,
だれも気付いていないようである。
ただ自分が勝てることだけを信じて,
今まさにスタートを切ろうとしている。

親もコーチも,
「がんばれ,やればできる」と声をかける。
**********

さて,どう思われたであろうか?
馬鹿げた戯画に過ぎないと思われるだろうか?

確かにその後の走りっぷりによっては,
逆転も可能であろう。
しかし,もともとの走力や装備に差はあるのである。

このとき,賢明な教師であれば,
この競走を,他人との競走ではなく,
自分との競走であると位置づけるであろう。
「昨日よりは今日,今日よりは明日へと前進する」,
他人との比較ではなく自分の位置をより前へ進めること,
これが,競争に臨む者への唯一無二の励ましなのである。

競争を,
他人に勝つことではなく,
自己の成長の証と捉えることだけが,
競争を非教育的なものにしない方法なのである。