学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

生き残り

2007-07-29 | 教育
学校現場で,
よく「生き残りをかけて」などという言葉を
聞くようになった。

少子化の影響で,
ついに大学までこの言葉を使うようになった。

でも,なぜ生き残らなければならないのだろうか?

子どもが減るのだから,
学校もまた減るのが当たり前なのである。

当然減るべきものを減らさずに,
少なくとも自分の職場だけは減らされずにおきたいという
気持ちが,「生き残り」などという言葉を生むことになる。

いったい学校はだれのためのものだろうか?
教師の生活のために学校があるのではないのである。

「生き残り」をかけて行う学校改革で,
学校がよくなるはずがない。
それは,根本が間違っているからである。
子どものためではなく,学校を維持するための
改革に陥っているからである。

生徒や学生が減れば,
学校を閉じればよいだけのことである。

ただそれだけのことなのに,
そこに競争を生み出そうとする教育行政のあり方も
また問題である。

学校は子どものためのものである。
最後まで純粋に子どものために学校を運営し,
時がくれば,静かに閉じればよいのである。

ただ,それだけである。
見苦しい改革はもうやめようではないか。

「やればできる」の苦い思い出

2007-07-26 | 教育
もうずいぶん昔のことになるが,
私のクラスに
なかなか成績の伸びない生徒がいた。

私もまだ若かった。

私は,その生徒に
「やればできる」と言い続け,
毎日のように1対1で補習授業を行った。

その生徒は,まじめに私の補習授業を受けていた。
そして,毎日,自分が家で問題を解いてきたノートを
私に提出していた。

だが,なかなか成績は伸びなかった。
厳密に言えば,ほんの少しずつは
伸びてきていたように思うのだが,
はかばかしい伸びは見られなかった。

それでも私は,「やればできる」と言い続けた。
その生徒は,まじめに勉強を続けた。
だが,成績は伸び悩んだ。

ある日,その生徒が私に言った。
「先生はうそつきだ。やればできるなんてうそだ!」
普段は口数の少ない生徒であったが,
そのときは,腹から絞り出すような声で,
はっきりと,そう言ったのだ。

私は,はっとした。

そのとき,その生徒が,
本気で努力を続けていたことを悟ったのだ。
その言葉の真実に,胸を打たれたのだ。

そして,「やればできる」と言い続けた
私の軽率さを深く悔いた。
生徒の悲しみを,理解できていなかった
自らの軽率さを悔いた。

その時以来,私は「やればできる」という言葉を
軽々しく使うことができなくなった。

生徒はそれぞれ,
様々な資質や運命を背負って生きている。

努力して自分の夢を実現できる者は幸せであろう。
しかし,努力しても,精一杯がんばっても
うまくいかないことも多いのである。
そのような人生の悲しみを,
本当はだれもが背負っているのである。

教師は,そのような悲しみを見続けなければならない。
教師は自らの無力さをいつも自覚していなければならない。
教師もまた,生徒と同じように,
人生の悲しみを背負っているのである。

その悲しみを本当に分かち合うことができたとき,
私は教師としての職責を果たしたと言えるのだろう。
しかし,未だ道半ばである。

むかしむかしあるところに

2007-07-22 | 教育
昔話のはじまりでよくあるパターンは
「むかしむかしあるところに,
 おじいさんとおばあさんが住んでいました」
というものである。

実は,この書き出しは,
「いつ」「どこで」「だれが」「どうした」という
要素を全て含んでいるのである。
そしてその状況設定のなかで
「なに」が起るかに読者の期待を持たせる構造と
なっているのである。

このように5W1Hの基本構造は
昔話にもしっかりと組み込まれているのである。

さらに言えば,高校で習うような古文のさまざまな作品のなかに
極めて論理的な各種の思考パターンを読み取ることができるのである。

してみると,我が国に論理的思考力が不足しだしたのは,
いつからということになるのであろうか?

保護者対応

2007-07-21 | 教育
これからの学校は,保護者への対応の仕方を
明確に決めておく必要があるであろう。

以下がその要点である。

1 保護者からの相談・要望は,原則として来校していただいて
  お聞きする。その際,担任がひとりで対応することは避ける。
  学年主任などが同席する。重要案件の場合は,教務主任などの
  主任,あるいは教頭(副校長),校長の同席を依頼すべきである。
  面談者のひとりが記録を正確にとる。

2 電話での相談・要望は,必ず学校の勤務時間内に受ける。
  学校の電話は録音可能なものとし,重要な事項は録音しておく。
  電話が長時間にわたる場合は,電話での対応をお断りし,
  来校願うこととする。

3 自宅の電話番号を保護者に教える必要はない。
  あくまでも電話対応は原則として勤務時間内,
  少なくとも学校で他の教師と相談できる状況下で対応すべきである。
  教師と保護者との対応は,
  あくまでも公的な場に限られるべきである。

4 トラブルを生じる可能性のある場合には,早めに弁護士等に
  相談する。自分の対応の仕方がよくないことを反省させられる場合もある。
  学校というところは,リーガルマインドという点が極めて弱い。
  その点で,学校は顧問弁護士を持つべきであろう。

5 メールでの対応は,細かい表現のしかたによって不要なトラブルを
  招く可能性が高いので,できれば避けたほうがよく,
  どうしてもメールでの対応が必要な場合には,
  くれぐれも慎重に公的な手紙に使われる表現をくずさないことが必要である。

6 なにより大切なことは,教師は保護者との共通理解をはかれるように
  相手の主張の真意を探り,こちらの主張も誠実に伝え,
  子どものために最善の方策を探るという心構えで対応するということである。

思いつくことを書き連ねてみたが,
これらのことのうち対応方法に関する部分は,
年度当初に管理職が,
保護者に対してきちんと周知することが必要であって,
担任に全責任を負わせるようなことは厳に避けなければならない。

また担任不在のところで,管理職が保護者と面談することも
原則として避けるべきである。

以上,
モンスターだのなんだのと不毛で有害なことを言うより前に,
実効力のある対応を考えるべきであろう。

競争するために

2007-07-20 | 教育
学校に競争原理をもちこもうとする人たちが
多くなっている。

競争するためには,所定の条件が整っていることが必要である。

運動会の徒競走をみればよくわかる。

条件1 だれにでも参加資格があること。
条件2 参加者の肉体的な条件に,
    競走の結果があらかじめ全く明らかであるほどの差がないこと。
条件3 スタートラインが同じであること。
条件4 走る距離(ゴール)が同じであること。
条件5 ゴールがあらかじめわかっていること。
条件6 一斉にスタートすること。

などである。

今議論になっていたり,実施に移されている
学校への競争原理の導入は,
これらの条件を果たして満たしているのであろうか。

もし満たしていないとすれば,
それはフェアーな競争とはいえないのである。

アンフェアーな競争ほど
おそろしいものはないのである。

教育は問題ではない

2007-07-18 | 教育
学校教育に関することは,実はあまり大きな問題ではない。

学園紛争でバリケードがはられているわけでもなく,
校内暴力が頻発し,
日常茶飯事のように器物損壊が起こっているわけでもなく,
学級崩壊など若干の問題はあるにせよ,
おおむね学校の秩序は
まがりなりにも保たれているところが多いと思う。

実は今は,学校が荒れている時代ではないのである。

学力低下など,もし実際に起こっているとしても,
それは一種,歴史的にみれば,
豊かで成熟した社会から衰退期に入っていく証のようなものである。

それを一層の発展期にある国々のように
競争原理を導入して活性化をはかろうとしても
ひずみを大きくするにすぎない。

学校教育を今あえて政治課題にする必然性は
本当はあまりないのである。
今の学校を取り巻く問題は,
学校の自助努力に任せてしまえばよい方向にむかう
問題が多いのである。

教育以外に緊急の困難な政治課題は山積している。

にもかかわらず,
政治家にとって,
大規模な予算措置やリスクをともなわず,
誰もが好印象を持ちやすいのが
教育改革に取り組んでいるという姿勢を見せることなのである。

実際に学校で子どもを教えるということは,
実はかなり知識や経験を必要とするものなのだが,
学校教育の評論というのは誰でもできるし,
自由に論評が可能である。

学校教師の経験がなくとも
民間人校長にはなれるし,
一定の成果もあげることができる。

私がもし教育行政の担当者であって,
民間人校長を採用するとしたら,
その学校の校長以外のスタッフに
他校に比べて経験豊富で有能なスタッフをそろえる。
校長が学校に不在で,講演やテレビ出演をしていたとしても
副校長以下のスタッフで十分に学校運営ができるように
あらかじめ仕組んでおくようにする。

本来は,校長に教職経験が豊富で,
しかも学校に常時つめているのでなければ,
学校運営は難しいというのが通常のはずである。

話題がそれてしまった。

どうも天邪鬼ゆえ,
教育が問題になるからくりが気になるのである。

教師の言葉遣い

2007-07-13 | 教育
教師が児童生徒に対して
どのような言葉遣いをしているかということについて
考えてみたい。

私が驚いたのは,学園を舞台にした古いテレビドラマを
見たときである。
とくに『青い山脈』などで
教室のなかで教師と生徒がかわす会話の言葉遣いが
とても丁寧なのである。
お互いに敬語を使って話している。
このドラマは,私立女子高校が舞台であるから
特殊なのかもしれないが,
しかし,そのほかの古い映画やドラマをみても
一般に,大人が子どもに対して話す言葉遣いが
一定の敬意をこめた言葉遣いであることが多いのだ。

振り返ってみれば,私が子どもの頃の
近所の大人の子どもに対する言葉遣い,
あるいは学校の先生の子どもに対する言葉遣いは
今よりもっと丁寧であったような気がする。
気のせいであろうか。

どうも今の学校では,というか自分自身も含めて,
一人一人の子どもを大切にするといいながら,
子どもに対して,敬意を保った言葉遣いをすることが
減ってきているように思われる。

このあたりに,何か問題は潜んでいないだろうか。

educationの語義をめぐって

2007-07-08 | 教育
educationの語源は,
ラテン語のe-(外へ)+ducere(導く)というものであって,
子どもに内在する可能性を引き出すことだというふうな説明を
よく耳にしてきたし,それを疑うことはこれまでなかった。

ところが,ちょっとしたきっかけで
これに疑問をもち,
いろいろ調べてみると,
さらに疑問は深まってきた。

educationの語源には,ラテン語educereとeducareという
ふたつの動詞をあてはめることができるようである。

educereのほうは手許のLewisのElementary Latin Dictionaryによると
"to lead forth, draw out, bring off, take away"というような意味が
もとになっていて,"Of Children,to bring up, rear"という語義も見える。

educareのほうは,同じく,
"to bring up, rear, train, educate"というような意味が見える。

このことからみると,
「子どもに内在する可能性を引き出す」というような意味は,
そのままには見当たらないのである。

educereの意味をとったとしても,
それは,「連れ出す」「導き出す」というような意味であって,
ギリシア語のpaidagogos(pais(子ども)+agogos(導く人),
すなわち,子どもを学校に連れて行ってつれて帰ってくる奴隷,
あるいは一種のtutor)における
ago(導く)の意味のように,もっと直接的な意味ではなかったかと
思えてならないのである(ちなみに,ギリシア語のpaidagogos(paidagogia)は
pedagogy(教育学)の語源である)。

少なくとも,educationの語源をもとに,
そこに「引き出す」といった意味が認められるからといって
「子どもに内在する可能性」を「引き出す」のだといった説明は,
純粋な語源的説明とはいえないのではないかと思えてくるのである。

いったいどのあたりからそのような解釈が広まっていったのか,
目下の疑問である。

モンスターペアレンツ?

2007-07-06 | 教育
「モンスターペアレンツ」という言葉を
よく聞くようになった。

親は,わが子がかわいい。当然である。
教師はまずその親の気持ちを理解したうえで,
しかも毅然とした態度で接するべきである。

親がわが子を愛するがごとく,
教師も責任をもって子どもを育てている。

理不尽な要求は理不尽だと言えばよく,
的外れなことは的外れだと言えばよい。

ただ,
教師の側にも反省すべきことがないかどうか,
いつも謙虚に振り返るべきである。
どんな親からも学ぶべきことはたくさんある。

そういった意味からも,
「モンスターペアレンツ」と言う言葉は,
学校のなかでは使うべきではない。

「モンスター」という言葉の侮蔑的な響きは,
教師を傲慢にする。

親は親であり,モンスターではない。

教師であり続けるために

2007-07-03 | 教育
今の時代,
たとい報いられなくとも,
子どもたちの未来にとって
価値のある仕事をしているのだと,
いつも自分に言い聞かせていなければ,
とても教師の仕事を続けられるものではない。

教師の仕事は,
尊い仕事なのだと,
誰もが認めなくとも,
自分は自分に言い聞かせ続けるのである。

宿題は忘れてはいけない

2007-07-02 | 教育
宿題を忘れてはいけません。

たとえ,小学校の低学年であろうと,
宿題は忘れてはいけないのです。

きちんと提出すべきものは提出しなければなりません。

そのあたりが,いつのまにか,
いいかげんになっているのではないか。

きちんとした習慣の身についていない者は,
高校生になっても,大学生になっても,
やはり宿題や提出物を忘れるのである。
そればかりか,言い訳や言い逃れをするのである。

期日に遅れた提出物は,
本当は受け取ってはいけないのではないか。

やはり,このあたりの教師の側の甘さが,
学校教育をダメにしているひとつの原因であろう。

学力低下だの学習意欲の低下だのと評論するより前に,
遅れた提出物は受け取らないという毅然たる姿勢と気迫を
教師は身につけるべきではないだろうか。

と,考えつつ,遅れた提出物を受け取ってしまうのである。
やれやれ。