生き残り
2007-07-29 | 教育
学校現場で,
よく「生き残りをかけて」などという言葉を
聞くようになった。
少子化の影響で,
ついに大学までこの言葉を使うようになった。
でも,なぜ生き残らなければならないのだろうか?
子どもが減るのだから,
学校もまた減るのが当たり前なのである。
当然減るべきものを減らさずに,
少なくとも自分の職場だけは減らされずにおきたいという
気持ちが,「生き残り」などという言葉を生むことになる。
いったい学校はだれのためのものだろうか?
教師の生活のために学校があるのではないのである。
「生き残り」をかけて行う学校改革で,
学校がよくなるはずがない。
それは,根本が間違っているからである。
子どものためではなく,学校を維持するための
改革に陥っているからである。
生徒や学生が減れば,
学校を閉じればよいだけのことである。
ただそれだけのことなのに,
そこに競争を生み出そうとする教育行政のあり方も
また問題である。
学校は子どものためのものである。
最後まで純粋に子どものために学校を運営し,
時がくれば,静かに閉じればよいのである。
ただ,それだけである。
見苦しい改革はもうやめようではないか。
よく「生き残りをかけて」などという言葉を
聞くようになった。
少子化の影響で,
ついに大学までこの言葉を使うようになった。
でも,なぜ生き残らなければならないのだろうか?
子どもが減るのだから,
学校もまた減るのが当たり前なのである。
当然減るべきものを減らさずに,
少なくとも自分の職場だけは減らされずにおきたいという
気持ちが,「生き残り」などという言葉を生むことになる。
いったい学校はだれのためのものだろうか?
教師の生活のために学校があるのではないのである。
「生き残り」をかけて行う学校改革で,
学校がよくなるはずがない。
それは,根本が間違っているからである。
子どものためではなく,学校を維持するための
改革に陥っているからである。
生徒や学生が減れば,
学校を閉じればよいだけのことである。
ただそれだけのことなのに,
そこに競争を生み出そうとする教育行政のあり方も
また問題である。
学校は子どものためのものである。
最後まで純粋に子どものために学校を運営し,
時がくれば,静かに閉じればよいのである。
ただ,それだけである。
見苦しい改革はもうやめようではないか。