学校教育を考える

混迷する教育現場で,
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応援の意味を込めて書いています。

学習指導要領解説における「原子力」

2011-05-19 | 教育
平成23年度は,小学校の新学習指導要領の全面実施の年である。

さて,原発事故問題は未だ予断を許さない状況であることを踏まえて,
新学習指導要領解説において,原子力がどのように取り扱うこととされているかを
社会科と理科について検証してみた。

まず,社会科は以下の通りである。

小学校学習指導要領解説 社会編
火力発電所や原子力発電所においては環境に配慮していることや安全性の確保に努めていることについて取り上げることも考えられる。

高等学校学習指導要領解説 公民編 政治・経済
環境負荷を最小限にとどめ,持続可能な社会を構築するためには,省資源・省エネルギーの推進,原子力の活用,太陽光や風力などの新エネルギーの利用など,様々な方策を検討する必要があることを理解させる。


中学校については,「原子力」という言葉は見当たらないが,小学校と高等学校の政治・経済で扱うことになっている。小学校においては,原子力は「環境に配慮」して,「安全性の確保」に努められているものであるという位置づけである。原子力発電の危険性については,触れる余地のない記述である。高等学校においても,環境負荷という観点から,原子力の活用は推進されるべきものとされている。今回の事故を踏まえると,このまま取り扱うことは非常に難しいし,このまま取り扱うべきではないように思われる。

次に理科についてみてみよう。

中学校学習指導要領解説 理科編
原子力発電ではウランなどの核燃料からエネルギーを取り出していること,核燃料は放射線を出していることや放射線は自然界にも存在すること,放射線は透過性などをもち,医療や製造業などで利用されていることなどにも触れる。

高等学校学習指導要領解説 理科編 物理基礎
原子力については,関連して,α線,β線,γ線,中性子線などの放射線の特徴と利用,線量の単位など,放射線及び原子力の利用とその安全性の問題にも触れる。その際,放射線がその性質に応じて,医療,工業,農業などで利用されていることに触れることが考えられる。

電力の総消費量と水力,火力,原子力,太陽光などの各発電量の時間的な推移の調査を行い,それぞれの発電の仕組みや特性との関連から効率的な電力の利用について探究させることや,霧箱や放射線測定器を用いて放射線の観察,測定を行い,放射線の利用や安全性の問題について探究させることなどが考えられる。


小学校については,「原子力」という言葉は見当たらないが,中学校と高等学校で扱っている。中学校では,核燃料が放射線を出していることはしっかり扱っているが,「放射線」とは自然界にも存在し,医療や製造業などでも利用される役に立つものという位置づけであり,あまり危険なものであるという印象は受けない文章である。高等学校の物理基礎でやっと放射線の性質及びその「安全性の問題」に触れることになっている。しかし,気になるのは,ここでも,「危険性」ではなく,「安全性」である。

今回の原発事故を踏まえて,文部科学省は早急にこの学習指導要領解説の文言を再検討すべきであろう。もし,このまま何の修正もないとすれば,公的な「解説」なのであるから,このまま学校現場で教えなさいよという意味にとれてしまう。このコンセプトで原子力を扱うのは,今となっては,いくらなんでも無理であろう。

【追記】
この記事を書いた後,日本原子力学会から,「新学習指導要領に基づく高等学校教科書のエネルギー関連記述に関する提言」と「新学習指導要領に基づく小中学校教科書のエネルギー関連記述に関する提言」が出されていることがわかった。この提言が考慮されたかどうかはわからないが,これらの提言も,今日の視座で読むと誠に興味深い。http://www.aesj.or.jp/information/session.htmlからたどっていけば見られる。





教育実習の矛盾

2011-05-15 | 教育
教育実習生が来ると,必ずといっていいほど,
実習校では,将来,教職に就くつもりがあるのかどうかを聞く。

そこで,教職に就くつもりはない,将来役に立つかもしれないから
免許だけがほしいのだなどと答える実習生には,
教育実習はお断りしたいというのが本音である。
実際にお断りするケースも多々ある。

なぜなら,教育実習というのは,実習校の好意で行っているところがあり,
附属校でもないかぎり,実習生を受け入れる義務はない。
教育実習とは,実習校の好意と児童生徒の犠牲のうえに成り立っているのである。

ところが,よくよく考えてみると,
教育実習は,教職免許を取るための単位として定められており,
教育実習をやらないと通常,教職免許は取れない。
しかしながら,戦後の教員養成改革によって,
「開放制」原則がとられ,教員養成系ではない一般大学でも
教職課程の単位さえとれば教員免許の取得が可能になっている。
もともとの「開放制」の意義からいうと,多様な専門領域と広い教養を持った
さまざまな人材が学校教員となることを目指していたはずである。

ということはすなわち,教育実習を受けに来る学生が,
必ずしも教職に就くつもりが明確にあるとは限らないということを
制度的にはもともと許容していることになるのではないか。

そうすると,
教職免許のために実習を受けに来たという学生の答えは許容されるべきで,
冒頭に書いた実習校の質問は野暮な質問ということになる。

しかし,児童生徒を犠牲にしてまで,
その程度の動機で教員免許を取得しようとする学生の
相手をしなければならないのかと考えると,
そのような学生の実習を受け入れたくないというのが現場の本音ではある。

この制度的矛盾が解消されていないから,
もともと教職に就く気のあまりない学生に,
「必ず教職に就きます!」という嘘を
強いることになっているのではないかと思う。

教育実習は,このように矛盾した制度である。

教育実習期間を1年間に延長したいなどという議論をする人は,
だいたいにおいて,このような矛盾に無頓着か,
あるいは,「開放制」よりも師範学校制度をよしとする人たちであろう。


メディアリテラシーのジレンマ

2011-05-08 | 教育
大小様々のメディアの情報に接することが日常化した今日,
学校教育におけるメディアリテラシー教育の必要性がクローズアップされている。

しかし,メディアリテラシー教育の目的の一つである,
情報の真偽を判断する力をつけさせるというようなことが
本当に可能なのだろうか?

そもそもこの考え方は,
情報には真実が含まれているという前提に立っている。
すべての情報が偽りであった場合,
我々はすべての情報を偽りであると判断する力を持ちうるであろうか?
おそらくは,偽りの情報の中から,
自己の知識と経験に照らして,
もっとも確からしいと思われる情報を信頼することになるであろう。
しかし,そのように選び取られた情報は,真実ではないのである。

また,仮に真実の含まれている情報を入手できたとして,
その情報が真実であるという確証はいかにして得られるのであろうか?

日頃,マスメディアの情報あるいはインターネット上の言説に触れていれば,
感覚的に分かることなのだが,その情報が真実であるとする根拠を
ほとんどの場合,我々は得ることが出来ない立場にいるのである。
例えて言えば,部屋の中に閉じ込められていて,
壁にあいた穴から外の世界(と思わされているもの)を見てはいるが,
実際に外に出ることができない状況と同じなのである。
このような状況下で,
どうして,自分が見ているものが,
真実であるか虚偽であるかを判断することが出来るのであろうか。

結局のところ,我々は,多くの情報の中から,
自分の知識と経験,あるいは嗜好に応じて,
自分にとって好ましいと感じる情報を,
真実だと信じているに過ぎないのである。
そして,その情報が真実であるか虚偽であるかは,
かなり時間がたってから客観的に明らかになるか
(その時にはもうその情報は情報としての価値を失っていることが多い),
もしくは,永遠に明らかにならないかのどちらかである。

また,知識が多ければ,あるいは経験が多ければ,
虚偽の情報に惑わされないというものでもない。
知的エリートや人生経験豊かな人が騙される事例には事欠かない。

したがって,
我々には情報の真偽を判断する力もないし機会もないということを,
自覚していることぐらいしか,
有効なメディアリテラシーとして有効に機能するものはないのである。

かくして,
メディアリテラシー教育によって
情報の真偽が判断できる力がつくという言説もまた虚妄であるということになる。