学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

厳しさとやさしさ

2006-11-30 | 教育
子どもにやさしく接することは,
おそらく,どんな教師にもできることである。

しかし,やさしさだけでは
子どもは育たない。

そこで,ある種の厳しさが必要になってくるのだが,
子どもに厳しく接することは
どんな教師にもできるというわけにはいかない。

厳しさは,
苛酷さやむごさ,いじの悪さ,独裁性,独善性などと
隣り合わせであるからだ。

よほど人格的に優れた教師でもない限り,
子どもに厳しく接することは難しい。

愛情のある厳しさをもつ教師というのは
実は得がたい存在なのである。

教育再生会議が考えているという
いじめた子どもを出席停止にするという案に
私は賛成ではあるが,
果たして,この出席を停止する権限を
正統に行使できる教師が
いったいどのくらいいるのだろうか。
その点は疑問である。

よい先生

2006-11-22 | 教育
教師の資質の向上などということが
よく言われている。

しかし,教員の資質の向上といっても
おのずから限界があるであろう。

どんな職業でも,
資質の高い者ばかりが集まっているところはなかろう。

ましてや,あなたのまわりで教師になった人たちが,
あなたから見て,学力優秀・人格高潔な人ばかりであっただろうか。

「いやいやその逆だよ」という声が聞こえてきそうである。

そう考えると,多くの教師は,
その人がもともと持っている資質の割には,
よくがんばっているといえるのではないだろうか。

教師は,教育現場の経験によって学ぶものである。
同僚や子どもたちに教えられながら
だんだんと教師になっていくのである。

決して,競争したり評価されたり,
現場を離れた研修を行うことで
資質向上するわけではない。

そのことを閑却した教員の資質の向上などは
本当はありえないのである。

むしろ,もともとそれほど高くなかった資質を
つぶされてしまうような気がしてならないのである。

と,資質の乏しい教員である私はぶつぶつ考えている。

よい学校

2006-11-19 | 教育
だれにとっても,
どんな生徒にとっても,
よい学校などというものは
存在しない。

理想的な学校というようなものは
ないのである。

どんな学校も
良い面と悪い面をもっている。

学校というものは,
個々の状況に応じて,
よかったり悪かったりするものである。

個々の生徒の人柄や性向によって,
向いている学校,向かない学校,
向いている教師,向かない教師というものが
あるのである。

ところが,残念なことに
その学校が,
その生徒に向いているか,
向かないかということは,
入学してみなければ本当のところはわからないのである。

教師との出会いとなると
これはもう運命としか言いようがない。

そう考えると,
よい学校,よい教師を求めて
学校選びをしようというのは,
実はほとんど不可能なことなのである。

むしろ,何事も運命として受けいれる
一種の諦念が必要とされるのである。

学校や,教師との出会いも,
まさに人生の禍福の一部であって,
人智によっては如何ともしがたいものなのである。

よい学校に通いたければ,
自分の通っている学校を
よい学校だと思い込むことである。

それができないならば,
別の学校をよい学校だと思い込んで,
その学校に移るべきである。

しかしながら,
自分が通っている学校以上に
よい学校がある確率は
実はそれほど高くないのである。
ただ,よい学校だと思い込める確率ならば
少々期待できるかもしれない。

学校とは実は,その程度のものである。

夜間中学

2006-11-16 | 教育
中学校の夜間学級を参観した。

その学校は,
何らかの事情で中学校を卒業できなかった人のために
設けられている。
さまざまな年齢の,
さまざまな国籍の人が学んでいる。

それこそ,戦後の混乱の中で
学校に通えなかった人や,
外国からやってきて,
日本語の読み書きを覚える機会のなかった人や,
不登校のために中学校を卒業できなかった人や,
さまざまな人が学んでいる。

私は,この夜間学級のある授業にショックを受けた。

何も新規なメソッドや教育機器が使われていたわけではない。
授業内容にはとても工夫がこらされていたが,
オーソドックスな授業風景である。

しかし,授業空間としての教室の空気が違うのである。
私は,あのように温かい授業風景をみたことがない。

年齢も国籍も違う人たちが,机を並べ,
楽しそうに,とても楽しそうに,
ひらがなの読み書きの勉強をしておられた。

とにかく覚えようと真剣な顔,
間違えて,てれくさそうに笑う顔,
こりゃあ難しいやとなかばあきらめたような顔,
どの顔も生き生きと輝いてみえるのだ。

私はこの夜間学級の授業にショックを受けた。

学びの原点見たからである。

優劣を競い合うためでもない,
せかされて学ぶわけでもない,
ただ,ひたすらに学ぶ,
あるのは,学びの喜び,学びあう喜び。

学ぶということが,こんなにも人の顔を輝かせるのか。
学ぶということが,これほど人を自由にするのか。

学びたい人が,学ぶことによって,
自分を新しい世界へ解き放っていく姿。

教える,学ぶ,実利を超えた静謐な空間。

教育とは,学校とは,いったい何なのか,
再びこの問いに立ち戻らせてくれたひとときであった。

教育基本法改正について その2

2006-11-12 | 教育
日本教育学会歴代会長「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」という
HPがある。

http://www.kyouikukanrengakkai.org/

「教育基本法関連2法案を廃案とし,
現行法の精神をより豊かに発展させることを求めます」という要望文が,
多くの教育学研究者の賛同をもって関係各方面に提出されている。

このように,
教育基本法の改正に関しては,
現場だけでなく教育研究者からも,反対の声があがっている。

教育に直接たずさわったり,
教育を専門的な研究対象としている人々が,
反対の声をあげる中,
いったいだれが,
教育の本質を変えようとしているのであろうか。
その姿が見えてこない。

教育に直接関わっていないにも関わらず,
教育を何らかの意味で利用したい人,
教育基本法の改正によってメリットを受ける人,
そのような人が姿をかくして
存在しているとしか思えない。

この国は,
教育に人生をささげてきた人の思いを
かくも簡単に無視してゆくのだろうか。

いったい誰が得をするのか。

それが,
子どもたちでないことは確かである。

教育基本法改正について

2006-11-07 | 教育
いよいよ教育基本法の改正案が
衆議院で可決されそうな雲行きになってきた。

私は,教育基本法の改正に反対である。

理由はさまざまある。
ここでは,いささか情緒的ではあるが,
根本のところを述べる。


理由その1

私は,現行の教育基本法が好きである。

前文や第1条にこめられた,
戦争への反省と
新しい平和な日本の国づくりにこめられた理想や,
教育の力に対する信頼が
教師としての私に力を与えてくれるのである。

改正法案からは,このような理想はかけらも感じられない。

とにかく,文章の気品や格調の高さが違いすぎる。



理由その2

国民に対する信頼の度合いが違う。
子どもに対する愛情の度合いが違う。

現行基本法は,国民を信頼し,
教育は,その国民の直接の付託によって行われ,
行政による関与を教育の諸条件の整備確立に限定している。

これは,戦前の教育が
戦争へと国民を駆り立てる役割を果たしたことへの
痛切な反省から,
二度と同じ過ちを繰りかえさないように
教育の独立性を担保したものであったであろう。

改正法案では,
この教育の独立性が,国による教育政策のなかに
かかえこまれているように思われる。

子ども自身のために行う教育から,
国家のために子どもを育てる教育へと
変質しているのである。

子どもを人間として育てるのか,
子どもを人材として育てるのか,
その根本の理念が違う。


理由その3

教育基本法を改正する理由がほとんどない。
現在の教育の混迷は,
教育基本法の精神にのっとって
教育を行ってこなかったからにほかならない。

教育基本法の改正によって,
教育がよりよくなると考えるのは
まったくの幻想である。

とにかく,教育の機能が著しく矮小化されている。
道具化された教育では,人は育たない。

大学受験と高等学校

2006-11-06 | 教育
今回の未履修問題でたいへん驚いたのは,
高等学校があまりにも露骨に受験シフトを
組んでいるということである。
今にはじまったことではないのかもしれないが,
どうなのであろうか。

さて,受験を考えた場合には,

多くの高校生は,
できるだけ楽に志望する大学に入りたいと願っている。

高等学校は,
できるだけ多くの生徒に受験に成功してもらいたいと願っている。
それが,高等学校の実績になるからである。

この時点で,建前論は別として,
高校生と高等学校の利害は完全に一致している。

ここで,高等学校教育はいかにあるべきかということを
度外視してしまえば,
今回のような未履修も横行するであろうし,
また,成績評価などにも
影響を与えなくはないであろう。

ひるがえって大学は通常,
できるだけ多くの優秀な学生を集めたいと願っている。

できるだけ多くの学生を集めるためには,
受験の負担を極力減らす方がよい。
そのほうが受験生のニーズに合うからである。

できるだけ優秀な学生を集めるためには,
受験科目を増やし,受験の負担を増大させる方がよい。
そうすれば,受験生の数は一部名門大学を除いて
減少することは必至である。

現在のように少子化の影響が大学にまで及ぶようになり,
受験生獲得競争が激しくなってくると,
大学は受験生の量と質のどちらを優先するかという課題に直面する。

背に腹はかえられないわけであるから,
やはりおいおい量の重視という方向に進む。

このような動きの中で,受験生と高等学校と大学の利害は
完全に一致していくのである。

かくして,受験の負担はますます軽減され,
受験のもっていた選抜機能はますます失われていく。

調査書や推薦書や各種試験制度など,
従来の入学試験制度のシステムそのものが
破綻をきたしていくであろう。

そのような時代の変化のなかで,
大学は自然淘汰されていくであろうが,
高等学校は準義務教育として命脈を保つであろう。

そのとき,
受験の成功を最大価値としているような高等学校は,
生徒に学習のモチベーションを維持させることが
ますます困難になっていくであろう。

「何のために勉強するのか」という問いに対する答えを,
それは一種の新しい物語の構築であるのかもしれないが,
高等学校は早急に取り組むべきときにきている。

世界史未履修問題を考える その5

2006-11-04 | 教育
いわゆる未履修・履修漏れ・履修逃れ問題は,
政治的に結着される模様である。

もちろん卒業認定の権限は校長にあるが,
その権限を行使するに当たっては,
現行学校教育法施行規則では,
「高等学校学習指導要領の定めるところにより」
行われなければならないはずである。

多くの学校が学習指導要領の定めるところによらない
教育課程を編成していたのであるから,
今回の問題で問われるべきことは,
学校現場の法や省令に対する認識の甘さと,
それが蔓延していたという事実を
どう捉えるかということであろう。

今回のような学習指導要領違反が,
歴史的にずっと以前から慣習的に行われていたことなのか,
それとも最近になって始まったことであるのか,
学校現場の責任と学校の設置者の責任は
どのようなものであるのか,
それらの検証はまだほとんど行われていないといってよい。

今回の政治的結着によって,
事態を収束させるだけに終わることなく,
これらの事柄の検証は厳密に行われるべきである。

この検証なしに,表面的な解釈のみで,
教育基本法の改正を論じるべきではない。

理念的に捉えれば,学習指導要領の法的拘束力そのものも
歴史的に変化してきているのである。
そのこともふまえて,
教育行政や教育法規のあり方そのものも
もう一度検証しなおすべきであろう。
そうすれば,現在の教育基本法改正論とは
別の視点が見えてくるのではないだろうか。

とにもかくにも,
先生方に無記名でアンケートしてみるとよい。

「あなたは,教員採用試験を受けるとき以外に,
 学習指導要領をきちんと読んだことがありますか?」

いじめ自殺報道

2006-11-02 | 教育
いじめによる自殺という報道が相次いでいる。

悲しいことである。

これらの報道を見ていて思うのだが,
いつも「いじめはあったのか,なかったのか」という視点で
報道されていることが多いように思う。

しかし今大切なのは,このような視点ではなく,
「事実は何であったか」という視点である。

いったい,子どもたちの間で何があったのか,
そのことを冷静に究明することが最も大切なのである。

したがって,学校は,
事実がつかめるまでは,
「調査中」とだけしか言い得ないはずである。

事実がつかめた段階で,

*事実が何であったか
*その事実を学校としてどう解釈するか
*学校の指導体制の不備や反省点は何か
*子どもの実態に対してどのような指導を新たに為すべきか
*学校の指導体制をどのように改善すべきか

に関する見解を早急に取りまとめる必要がある。

学校には,これらの見解を冷静にまとめる環境を
与えるべきであろうし,
報道されるべきは,これらの学校の見解である。

「いじめはあったのか,なかったのか」という問いによって
見えなくなってしまうことがあまりにも多いように思われる。