学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

授業料未納と卒業

2009-02-27 | 教育
授業料未納「卒業証書渡さない」=県立高8校、家庭に通知-島根(時事通信) - goo ニュース

このニュースを見て思ったのだが,
卒業単位の修得だけでなく,
授業料完納が卒業の条件であるというのは,
高校や大学ではごく普通のことある。

高校以上の学校は,
義務教育ではないのだから,
当然授業料を支払わなければならない。

もし卒業までに完納できない場合は,
除籍というのも普通に見られる規程である。

いくつかの救済のための
留保条件をつけている学校もあるだろうが,
いずれにしても,
学校が保護者からの正式な授業料支払不能の申し出を受けて,
支払計画を確約させてということになるであろう。

それにしても,通常は,学校というところは
卒業してしまえば縁が切れてしまうのであるから
授業料未納のまま卒業させた場合,
授業料を回収できる確率が低いのが現実である。

もしも,今回,学校が行った通知が,
その学校の学則を逸脱するものであれば問題だが,
学則を逸脱していないのであれば,
何ら問題ではないのではないだろうか。

高校生本人の責任ではないのだから
という議論もあるだろうが,
高校生ともなれば,子どもではないのだから,
家の経済状況をきちんと認識させるべきであるとも
考えられるのである。

私が小学生のころは,貧しい時代であった。
家計を助けるために毎朝新聞配達をしてから
学校に来る友人もいたことを思い出す。



授業評価アンケートの愚かさ

2009-02-26 | 教育
授業者が,自らの授業を振り返るために
学習者の意見を聴取することはもちろん大切なことである。
そんなことなら,心ある授業者ならば,
大昔からやっていたし,
授業のなかでの学習者とのコミュニケーションを通じても
日々,授業というものは修正されていくものである。

ただし,昨今流行の「授業評価アンケート」は愚劣である。
生徒や学生に,どの授業も一律の質問紙とアンケート用紙を配って
集計するというあのアンケートである。

もしも,私が生徒や学生であった時代に
このようなアンケートが行われたら,
すいぶん当惑したことだろう。

私は,
教師を評価するなどというおこがましいことを
しようなどとは思わない世代に属する。
むしろ,「三尺下がって師の影を踏まず」と
言われるほうがしっくりくる。

私には恩師として敬愛する先生がいる。
その先生の評価を,
マークシートに記入するなどという浅ましいことを
考えただけでもぞっとする。

純粋な師弟関係は,
評価などを超越したところにある。

授業評価アンケートは,
そのような師弟関係が育まれる土壌を
まったく破壊するという意味においてのみ有効である。

思うに,
このようなものに価値ありとする文化には,
「師」は存在しないのであろう。


学校をよりよくするために

2009-02-25 | 教育
学校というところは,昔も今も
いろいろと問題の多いところである。

よい学校,問題のある学校というのも
相対的な話であって,
どんな学校も,多かれ少なかれ,
問題を抱えているものである。

したがって,
よい学校,理想の学校というのは存在しないし,
学校外の人々が,
学校をよくしようと奔走することが,
かえって,学校を悪くすることはよくあることである。

学校の欠点をあげつらうよりは,
その学校の持つわずかな美点をでも認めていくほうが
結果的には,学校をよりよくすることにつながるのである。

その学校の教師の持つ能力で
なし得る最善の教育が,
その学校の最もよい状態なのである。

それ以上に優れた教育を学校に望むことは不可能である。

授業評価の妥当性

2009-02-25 | 教育
学期ごとに学習者による授業評価を行うというのが,
大学ばかりではなく,中学校,高等学校でもはやっている。

多くの場合,
マークシートを利用したアンケート形式になっているようだ。

この授業評価項目というのは,さまざまあるのだが,
ある項目について,その項目の評価を敢えて下げる授業や
上げる授業というのを試みてみた。

ところが,なかなかうまくいかないのである。

評価を下げる授業をしているのに下がらなかったり,
評価を上げる授業をしているのに上がらなかったりするのである。

こうなると,
評価項目に対する評価の妥当性がはなはだ危ういものに
思われてくる。

結局のところ,項目が何であったとしても,
たいして評価の変動はなく,
授業者の人物評価,あるいは授業者と学習者の相性診断に
なってしまっているのではないかと危惧されるのである。

こんなことなら,
教師の人気投票でもしたほうが,
まだましである。

このようなアンケートの結果でもって,
授業評価の眼目であった授業改善に資するという目的を
達成することははなはだ難しい。

これは,自由記述の場合も同じである。
授業について,肯定的な意見を書くか,
否定的な意見を書くか,
あるいは書かないかということは,
その学習者の性格に依拠するところが大である。
したがって,異なる学級で,
全く同じ授業をやっても,
学級の構成員が違えば,
評価は全く異なるということがままある。

このような評価を分析的・客観的にみて
授業改善をしようというのは,
ずいぶん不都合な話である。

授業を受ける姿勢

2009-02-25 | 教育
授業を受けるには
作法というものがあってしかるべきである。

授業の最初と最後には,
きちんと起立してお辞儀をする。

話を聴くときは,
きちんと先生の目を見て,
背筋を伸ばし,手を膝の上に置く。

話を聴くときとノートをとるとき,
作業をするとき,などなど,
動作にけじめをつける。

居眠り,私語,立ち歩き厳禁。

このような授業作法を早いうちから
叩き込んでおけば,
それだけで教室は崩れないし,学力は伸びる。

何も奇をてらうことはないのである。
昔から学校では当たり前とされていたことを
当たり前にやり続ければよいのである。

教師には,その教師の能力を超えた授業はできない。
教師の能力には限界がある。
優れた教師がいつも存在するわけではない。
だとすれば,学習者の側の学ぶ姿勢の有無,
それも外面的にはっきりわかる学ぶ姿勢の有無が,
授業の価値を大きく左右するのである。

つまり,大したことのない授業でも,
真剣に熱心に聴けば,学力は伸びる,
ということである。


教師の悪い癖

2009-02-19 | 教育
教師は,
どこかで自分が他人より優れていると
思いたがるものである。

だから,自分が他人より優れていることを
自分に納得させたいがために,
しばしば他人のことを心の中でこきおろす。

子供の不出来をこきおろし,
同僚の不手際をこきおろし,
上司の優柔不断をこきおろし。

そんなことをいつまで続けていても,
自分が優れた教育者になれるわけはない。

お互いがお互いを馬鹿にし合っていて,
優れた実践などが生まれてくるわけはない。

他人をおとしめることで,
自分の優秀さを誇示しようとすることほど
愚かなことはないのである。

どうも教師は,そのことに気づきにくいようだ。

教師は人格者であれ

2009-02-19 | 教育
どうも,学力とか進路とか,
学校教育の一部にばかり注目が集まり,
学力伸長のため,進路開拓のために
あたかも学校が存在しているかのような誤解が
それこそ正論であるかのように跋扈している。

教育の目的は人格の完成である。
そのことの原点に立ち戻るべきではないか。
児童生徒の人格を陶冶しようという営みが学校教育である。

当然のことながら,
人格を陶冶する役目を負った教師は,
人格者であるべきである。

教師の資質の向上といって,
専門性やスキルをあれこれ云々する以前に,
教師自身の人格を
教育者としてふさわしく陶冶することが
いかにすればできるのかを
自他共に考えなければならない。

このことを真正面から考えることを避けていては,
わが国の教育はますますゆがんでいってしまうだろう。



我が国の学校教育の特質

2009-02-15 | 教育
日本の学校教育の際立った特徴は,家庭教育や地域教育の伝統的な形をそのまま近代的な組織である学校に移植したところにあるのではないか。

とくに小学校では,家庭教育の形をそのまま保持したように思われる。すなわち,先生は,家庭における父や母,あるいは兄や姉のような存在であり,学力よりもむしろ生活面でのしつけや指導に重きを置き,全人的な成長を意図していた。学級においても,家庭的な温かさを作り出すことが学級担任のめざすところであった。現場の学校教師が,昨今の「学力」重視の論調に違和感を感じるのはこの伝統があるためである。

そして,昔の中学校は,地域における青年組のように「大人」の仲間入りの意味をもっていた。中学校に入学するに際して,社会は一種の通過儀礼を用意していた。小学校にはなかった窮屈な制服,男子の丸刈り,鉄道料金が大人扱いになるなどがそれである。先輩後輩の上下関係,厳しい校則なども,「大人」社会を経験させる上で必要なことであったのではないか。

西欧の学校教育を我が国の学校教育と比較すると,より合理的に「学業」を重視している。というよりも,その面にしか責任を負っていない。

我が国における昨今の教育改革が間違ってしまったのは、我が国の学校教育に秘められた伝統的な教育の智慧を理解することなく,西欧の学校教育の形を模倣しようとしたところにあったのではないか。我が国の学校教育は,ある意味では前近代的な特質をもっている。しかし,そのことの長所をもっと意識すべきであったのではないか。

もちろん,このようなことは,現場教師の皮膚感覚で分かることである。教育の研究者などには,本当の意味では実感できないことなのかもしれない。

「高大接続テスト」の報道に触れて

2009-02-08 | 教育
「高大接続テスト(仮称)」が検討されるという新聞記事を目にした。学力低下が著しい大学生の質の確保につなげる狙いもあるそうである。どうも解せない話である。

大学生の学力低下が起こるのはなぜかというと,大学の入学試験が機能不全を起こしているからである。少子化の影響で,大学は定員確保に必死である。大学等進学率は高校卒業者の50パーセントを超えた。この状況では,何を最優先にするかをはっきりさせなければ,実効ある対策は立てられない。

現在の大学が存続するための定員確保を優先するのであれば,学力よりも頭数が優先されるわけであるから,大学生の学力低下はやむを得ないこととして,大学そのものの教育を考え直すべきである。

大学生の学力維持を優先するのであれば,定員充足はあきらめるべきである。学力が一定水準に満たない場合には決して合格させてはならない。その場合,大学経営が支えられなくなるから,政策的な援助が必要となる。

このどちらかしか選択肢はないように思われる。このどちらかを選ぶことをせずに,いくら高大接続テストをやったからといって,大学生の学力が向上する可能性は薄いように思われる。また,もしこのテストによって,高校の教育に影響を与えようとする意図が仮にあるとすれば,それは本末転倒である。大学生の学力維持の責任は,高校にではなく,大学にあるからである。

A0入試や推薦入試が学力低下の原因であるならば,それをやめればよいだけのことである。それをやめることができない理由がありながら,学力を確保しようとする新たなテストを導入するなど,コストと労力の無駄に思えてならない。

本来の姿をもう一度見直すべきである。高校は高校の教育を行う。大学入試には関わらない。大学は,自分の大学で教育を受けるに必要な十分な資質と能力をもった学生を確保するための独自の入試をつくり,十分な資質能力をもった学生しか入学させない。その結果,経営が破綻しても,それはやむを得ないとするぐらいの気迫が本当は必要なのであろう。

もともと,教育と経営は両立しないものである。