「論理的思考力」という言葉があり,教育行政方面の確度不明の未来予測であるところの知識基盤社会だったりグローバル化社会だったりという社会(子供が大きくなるころは,もうポスト・グローバル社会かもしれないが)では,ぜひとも身につけなければならないということになっていて,論理的思考力を鍛えるためのワークシートだったり教材だったりがいろいろと出回っているのである。
学校教師というのは,このようなタームに弱いので,このような新しいタームが出てくると,何か大切なことだと思って,無批判にすぐに飛びついてしまう。この批判力のなさが,学校教師という職業の戦前戦後を通じての弱点である。それはさておき,よくよく考えてみると,我々は論理的に思考をしているであろうか。何か判断を求められた時,何か考えなければならない時,実は,直観的にばらばらに思考というのは発生してくるのではないか。直観には,言語すら介在していないこともある。それは思考ではないという人もあるかもしれないが,頭の中は,決して論理的に動いてはおらず,多種多様な考えが混とんとして浮かんでは消えているのであって,その豊かさが,思考の豊かさに通ずるのではないか。それを,意図的に導こうというのが,ブレーンストーミングの考え方である。実は,その混沌とした思考のままでも,自分一人の場合には,何ら問題なく行動できるし生活できるのである。ともかく考えて動こうと思ったら,いちいち論理的にしていたら間に合わないのである。
では,思考を論理的にすることはどうして必要なのか。それは,他人に伝えるときにはじめて必要になるのである。論理とは,思考力を鍛えるものではなく,他人に了解可能な型に,自らの思考をはめこんで表現するためのものである。そして,社会では,論理的整合性をもつ考え方を正しい考え方ということにしているのである。もしも,実際に,論理的整合性のない非論理的な考え方が,現実に正当性を持ってしまった場合には,後付けで新たな論理が構築され,論理的整合性が実はあったのだということにするのである。
そう考えると,論理的であることの訓練は,「思考」のためではなく,「表現」のためであると分かる。学校教育の場で,「思考」が論理的であることを求めるのは間違いだということになる。そんなことを教えては,逆に思考力が低下するおそれがあるのである。「思考」は自由奔放で直観的でもよいし,混とんとしていてもかまわない。しかし,それを「表現」する段階においては,論理の型を守らないと他人には理解されませんよ,というふうにきちんと分けて教えるべきである。そこのところをデリケートに考えていかないと,危ういのではないかと感じる今日この頃である。
なんのことはない,正しい日本語表現,とりわけ接続詞を正しく使い,話し,書くことを身につけさせることで,立派な論理的「表現力」育成になっているのである。漢文の文型も実に有効な論理的表現の型であるし,西洋発祥の古典論理では,三段論法で表現できれば,日常生活での論理表現はほぼカバーできるだろう。
学校教師というのは,このようなタームに弱いので,このような新しいタームが出てくると,何か大切なことだと思って,無批判にすぐに飛びついてしまう。この批判力のなさが,学校教師という職業の戦前戦後を通じての弱点である。それはさておき,よくよく考えてみると,我々は論理的に思考をしているであろうか。何か判断を求められた時,何か考えなければならない時,実は,直観的にばらばらに思考というのは発生してくるのではないか。直観には,言語すら介在していないこともある。それは思考ではないという人もあるかもしれないが,頭の中は,決して論理的に動いてはおらず,多種多様な考えが混とんとして浮かんでは消えているのであって,その豊かさが,思考の豊かさに通ずるのではないか。それを,意図的に導こうというのが,ブレーンストーミングの考え方である。実は,その混沌とした思考のままでも,自分一人の場合には,何ら問題なく行動できるし生活できるのである。ともかく考えて動こうと思ったら,いちいち論理的にしていたら間に合わないのである。
では,思考を論理的にすることはどうして必要なのか。それは,他人に伝えるときにはじめて必要になるのである。論理とは,思考力を鍛えるものではなく,他人に了解可能な型に,自らの思考をはめこんで表現するためのものである。そして,社会では,論理的整合性をもつ考え方を正しい考え方ということにしているのである。もしも,実際に,論理的整合性のない非論理的な考え方が,現実に正当性を持ってしまった場合には,後付けで新たな論理が構築され,論理的整合性が実はあったのだということにするのである。
そう考えると,論理的であることの訓練は,「思考」のためではなく,「表現」のためであると分かる。学校教育の場で,「思考」が論理的であることを求めるのは間違いだということになる。そんなことを教えては,逆に思考力が低下するおそれがあるのである。「思考」は自由奔放で直観的でもよいし,混とんとしていてもかまわない。しかし,それを「表現」する段階においては,論理の型を守らないと他人には理解されませんよ,というふうにきちんと分けて教えるべきである。そこのところをデリケートに考えていかないと,危ういのではないかと感じる今日この頃である。
なんのことはない,正しい日本語表現,とりわけ接続詞を正しく使い,話し,書くことを身につけさせることで,立派な論理的「表現力」育成になっているのである。漢文の文型も実に有効な論理的表現の型であるし,西洋発祥の古典論理では,三段論法で表現できれば,日常生活での論理表現はほぼカバーできるだろう。