学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

本当に論理的思考力なんてあるの?

2013-10-31 | 教育
「論理的思考力」という言葉があり,教育行政方面の確度不明の未来予測であるところの知識基盤社会だったりグローバル化社会だったりという社会(子供が大きくなるころは,もうポスト・グローバル社会かもしれないが)では,ぜひとも身につけなければならないということになっていて,論理的思考力を鍛えるためのワークシートだったり教材だったりがいろいろと出回っているのである。

学校教師というのは,このようなタームに弱いので,このような新しいタームが出てくると,何か大切なことだと思って,無批判にすぐに飛びついてしまう。この批判力のなさが,学校教師という職業の戦前戦後を通じての弱点である。それはさておき,よくよく考えてみると,我々は論理的に思考をしているであろうか。何か判断を求められた時,何か考えなければならない時,実は,直観的にばらばらに思考というのは発生してくるのではないか。直観には,言語すら介在していないこともある。それは思考ではないという人もあるかもしれないが,頭の中は,決して論理的に動いてはおらず,多種多様な考えが混とんとして浮かんでは消えているのであって,その豊かさが,思考の豊かさに通ずるのではないか。それを,意図的に導こうというのが,ブレーンストーミングの考え方である。実は,その混沌とした思考のままでも,自分一人の場合には,何ら問題なく行動できるし生活できるのである。ともかく考えて動こうと思ったら,いちいち論理的にしていたら間に合わないのである。

では,思考を論理的にすることはどうして必要なのか。それは,他人に伝えるときにはじめて必要になるのである。論理とは,思考力を鍛えるものではなく,他人に了解可能な型に,自らの思考をはめこんで表現するためのものである。そして,社会では,論理的整合性をもつ考え方を正しい考え方ということにしているのである。もしも,実際に,論理的整合性のない非論理的な考え方が,現実に正当性を持ってしまった場合には,後付けで新たな論理が構築され,論理的整合性が実はあったのだということにするのである。

そう考えると,論理的であることの訓練は,「思考」のためではなく,「表現」のためであると分かる。学校教育の場で,「思考」が論理的であることを求めるのは間違いだということになる。そんなことを教えては,逆に思考力が低下するおそれがあるのである。「思考」は自由奔放で直観的でもよいし,混とんとしていてもかまわない。しかし,それを「表現」する段階においては,論理の型を守らないと他人には理解されませんよ,というふうにきちんと分けて教えるべきである。そこのところをデリケートに考えていかないと,危ういのではないかと感じる今日この頃である。

なんのことはない,正しい日本語表現,とりわけ接続詞を正しく使い,話し,書くことを身につけさせることで,立派な論理的「表現力」育成になっているのである。漢文の文型も実に有効な論理的表現の型であるし,西洋発祥の古典論理では,三段論法で表現できれば,日常生活での論理表現はほぼカバーできるだろう。

教材研究はほどほどに

2013-10-24 | 教育
授業改善のためには教材研究が大切だと言われる。
その通りである。
がしかし,その通りではないとも言える。
とくに,教材研究が大事だと思いすぎている教員にとっては,教材研究のやりすぎがひとりよがりの授業をしてしまう原因になることもある。

「ねらい」だの「児童の実態」だの「教材観」だの「評価」だの,そういった本当は教育にとってちっとも本質的ではないものをいったん離れて,授業をただ楽しむことを考えてみればどうか。
間違ってはいけない。今はやりの「楽しくわかる授業」ではない。これは全くダメである。そうではなくて,教師が授業を楽しむのである。それは,教師自身が体験した知の喜びを子どもたちと共有することを教師が楽しめる授業である。本当は,これがよい授業である。

よい授業をしたいと思ったら,教材研究はほどほどにして,教材を離れた勉強をすべきである。幅広く豊かな知識を教師自らの好奇心に従って求めていけばよい。教材を離れた幅広い教養を身につければ,そして,教師自身が向学心をもてば,それがおのずから授業によい効果をもたらすものである。

ひとことでいえば,「教える」ということの本質に立ち戻るのである。長い人類の歴史のなかで,大人は子供に何をどんな思いで語ってきたのか,それに思いをはせてみることだ。

教師を,教材研究だの研修だのと,授業者の立場を一歩も離れないような近視眼的な努力に駆り立てている限り,決して,授業改善や学校改善はできないのである。

教師集団が教養を重んずる紳士淑女の集まりにあり,職員室が知の喜びに満ちた教養あるサロンになればよいのである。

それには,教師に十分なゆとりと心の安らぎが必要なのである!