市場原理が学校に侵入してきて困ることの最大のものは,市場原理が短期的な目前の利益しか追い求めないということである。いま何をすれば儲かるかということが,市場の行動原理になっている。明日になれば,また明日儲かる手段を考えればよいのであって,常に「今」が一番大切なのである。ところが,教育の場合は,そのような短期的な利益をそもそも求めていない。そこに価値観の違いがあるのだが,市場原理主義者から見ればまことにグズグズのんべんだらりとしているように見えるらしい。学校の教師たちは,そんなことでは生き残れないぞと脅かされ,おろおろと目先の利益のようなもの,つまり入学者の数だとか,卒業者の進路だとかというものに目を向けさせられている。しかし,本当はそんなものには,学校教育の価値などは現れてこない。よく落ち着いて考えてみればわかるのだが,教育や教育者が「生き残れない」ことなどあり得ないのである。歴史を落ち着いてみてみれば,真の教育者はなんとか生活をたてて生きているのである。教育の原点に戻れば,そうばたばたあわてることはないということである。
新自由主義的教育改革の進展の結果,義務教育諸学校までもが競争に駆り立てられることが当たり前になってしまった。各々の学校はなんとか特色を出そうと苦心し,またその特色を地域や社会にアピールする必要に迫られるようになった。学校はこぞってホームページを開設し,日々の学校生活の様子や学校行事,特色ある実践などを掲載するようになった。ところが,改革が進んでいるように見えるこれらのことが学校教育に極めて本質的な部分で悪影響を与えていることはあまり論じられていない。
本来,教育活動の成果というものは,教師個人のあるいは教師集団の長年にわたる地道な教育実践の積み重ねがあってはじめてぼんやりと現れてくるものであって,何かを始めたから劇的に効果が現れるといった性質のものではない。したがって,今日メディアでよく取り上げられるような効果的な教育方法や内容というものは一種の「物語」にすぎず,もしそれが現実であったとしても極めて特殊な例といってよいものである。
ところが,いま学校は,そのような「物語」を求められている。そのため広報的な「物語」として価値のある教育活動を行うことに腐心することになる。その教育活動が,本当にその学校や子どもたちにとって意味のあることかを教師間でじっくり議論することもなく,最近注目を集めているとか,よくメディアに登場するといった理由で教育活動が選択されがちになっている。国際化,情報化,キャリア支援,体験活動等々,考え方そのものは意味のあることであろうが,それが,自分の学校とそこに通う子どもたちにとって意味があるかどうかが精査されることなく,とりあえずやってみようということで実施され,ホームページに掲載されるのである。子どもたちに感想を聞けば,当然目新しいことに関しては好意的な感想が寄せられる。そのことをもって,「やってよかった」ということになり,意味のある教育活動をしたかのような錯覚に陥ってしまうのである。その教育活動を行うことで,圧迫され削減された他の日常の教育活動,本来は教師が子どもと接したり授業準備をしたりするはずであった時間の損失,あるいはその教育活動のなかでの子どもたちの様子などを細かく吟味しようという批判的視点は封じられるのである。なぜなら,競争原理のもとでは,学校は,学校外に教育活動をアピールできるかどうかが最も重要な問題になるからである。「よい教育」であることを盛んにアピールすれば,それがどんな教育であれ,「よい教育」として認知されるのである。かくして地道な教育活動が圧迫され,子どもたちがじっくりと腰を落ち着けて学習する時間や環境がどんどん失われていく。目新しい活動に活発に取り組んでいる子どもたちは,その活動が教育課程の中で他の教育活動の緊密な連携をもって取り組まれている活動でないことを知る由もない。
これらの問題点に現場の教師はだれもが気づいているが,それを言うことは許されていない。なぜなら,それは,「よい教育」に対する反逆であるからだ。
今のままでは学校教育の空洞化は着実にすすんでいってしまうであろう。
本来,教育活動の成果というものは,教師個人のあるいは教師集団の長年にわたる地道な教育実践の積み重ねがあってはじめてぼんやりと現れてくるものであって,何かを始めたから劇的に効果が現れるといった性質のものではない。したがって,今日メディアでよく取り上げられるような効果的な教育方法や内容というものは一種の「物語」にすぎず,もしそれが現実であったとしても極めて特殊な例といってよいものである。
ところが,いま学校は,そのような「物語」を求められている。そのため広報的な「物語」として価値のある教育活動を行うことに腐心することになる。その教育活動が,本当にその学校や子どもたちにとって意味のあることかを教師間でじっくり議論することもなく,最近注目を集めているとか,よくメディアに登場するといった理由で教育活動が選択されがちになっている。国際化,情報化,キャリア支援,体験活動等々,考え方そのものは意味のあることであろうが,それが,自分の学校とそこに通う子どもたちにとって意味があるかどうかが精査されることなく,とりあえずやってみようということで実施され,ホームページに掲載されるのである。子どもたちに感想を聞けば,当然目新しいことに関しては好意的な感想が寄せられる。そのことをもって,「やってよかった」ということになり,意味のある教育活動をしたかのような錯覚に陥ってしまうのである。その教育活動を行うことで,圧迫され削減された他の日常の教育活動,本来は教師が子どもと接したり授業準備をしたりするはずであった時間の損失,あるいはその教育活動のなかでの子どもたちの様子などを細かく吟味しようという批判的視点は封じられるのである。なぜなら,競争原理のもとでは,学校は,学校外に教育活動をアピールできるかどうかが最も重要な問題になるからである。「よい教育」であることを盛んにアピールすれば,それがどんな教育であれ,「よい教育」として認知されるのである。かくして地道な教育活動が圧迫され,子どもたちがじっくりと腰を落ち着けて学習する時間や環境がどんどん失われていく。目新しい活動に活発に取り組んでいる子どもたちは,その活動が教育課程の中で他の教育活動の緊密な連携をもって取り組まれている活動でないことを知る由もない。
これらの問題点に現場の教師はだれもが気づいているが,それを言うことは許されていない。なぜなら,それは,「よい教育」に対する反逆であるからだ。
今のままでは学校教育の空洞化は着実にすすんでいってしまうであろう。
デジタル教科書の導入への機運が高まっている。
デジタル教科書を小学校や中学校に導入するということに
どのような理念があるのか,今ひとつわからないのである。
近視眼的な発想に過ぎはしないかと危惧するのである。
義務教育学校で行う教育は,
子供がその後の人生を生き抜く力を与えるために
行われるべきものである。
子供の人生がその後70~80年続くと仮定して,
70~80年後の世の中は,
現在と同じような豊かな生活が可能であり,
IT環境が持続されたり,発展したりしているのか,
それとも,さまざまな地下資源も枯渇し,
水の供給や食料環境も不安定で,
さらに電力の供給もままならないような世の中になっているのか,
本当には誰にも予測できないのではないか。
そうすると,学校教育で,
子供に今与えるべき力は,
よりプリミティブな力,
すなわち,
できるだけ原始的な道具で学び,生活する力ではないか。
つまり,話を聞くことで学ぶ,本を読むことで学ぶ,
字を書くことで学ぶなどの,
歴史的にみて安定した方法で学ぶ力を与えることである。
世の中がどんなに変わっても,
生き抜いていくために使える方法を身につけさせること,
これが,未来の世の中を見ることのできない大人が
未来の世の中で生きていかなければならない子供に
残してやれる遺産なのではないだろうか。
学校教育の意味を根本的に問い直してからでも
デジタル化は遅くないのではないか。
多少便利だからといって,
性急に導入するのはいかがなものか。
学校教育をそのような視点から見直してみれば,
デジタル教科書がいかに危ういものであるかが見えてくるであろう。
さらに言えば,デジタル機器はまだ不安定である。
パソコンを日々使っている人なら分かるであろうが,
デジタル機器の不安定さや信頼性のなさを
カバーするためにどれだけの投資が必要かは考えてみればわかるであろう。
本気で学校のデジタル化を進めるのであれば,
子供が使う機器なのであるから,
少なくとも,各学校に専門のSEを複数常駐させなければ
まともに機能しないことぐらいは
わかりきったことであるように思われるのだが。
事実,20年ほどまえ,当時のマルチメディア教育を調査していたとき,
当時の最先端のある私立学校の先生に聞いたところ,
その先生は,ITの専門的な知識を持った方であったが,
コンピュータ教室に寝袋を持ち込んでおられた。
生徒用のパソコンに生じたトラブルを解消し,
明日の授業できちんと機能するようにするために,
夜通し調整する必要があることがたびたびあるからだというのだ。
その先生は,使命観をもってやっておられたが,
これが全国の学校でできるのだろうか。
それとも,いまのIT機器には,トラブルは起こらないのだろうか??
ただ,機器を備え付ければこと足れりとする発想ならば,
デジタル化など,たんすの肥やしを増やすだけであろう。
デジタル教科書を小学校や中学校に導入するということに
どのような理念があるのか,今ひとつわからないのである。
近視眼的な発想に過ぎはしないかと危惧するのである。
義務教育学校で行う教育は,
子供がその後の人生を生き抜く力を与えるために
行われるべきものである。
子供の人生がその後70~80年続くと仮定して,
70~80年後の世の中は,
現在と同じような豊かな生活が可能であり,
IT環境が持続されたり,発展したりしているのか,
それとも,さまざまな地下資源も枯渇し,
水の供給や食料環境も不安定で,
さらに電力の供給もままならないような世の中になっているのか,
本当には誰にも予測できないのではないか。
そうすると,学校教育で,
子供に今与えるべき力は,
よりプリミティブな力,
すなわち,
できるだけ原始的な道具で学び,生活する力ではないか。
つまり,話を聞くことで学ぶ,本を読むことで学ぶ,
字を書くことで学ぶなどの,
歴史的にみて安定した方法で学ぶ力を与えることである。
世の中がどんなに変わっても,
生き抜いていくために使える方法を身につけさせること,
これが,未来の世の中を見ることのできない大人が
未来の世の中で生きていかなければならない子供に
残してやれる遺産なのではないだろうか。
学校教育の意味を根本的に問い直してからでも
デジタル化は遅くないのではないか。
多少便利だからといって,
性急に導入するのはいかがなものか。
学校教育をそのような視点から見直してみれば,
デジタル教科書がいかに危ういものであるかが見えてくるであろう。
さらに言えば,デジタル機器はまだ不安定である。
パソコンを日々使っている人なら分かるであろうが,
デジタル機器の不安定さや信頼性のなさを
カバーするためにどれだけの投資が必要かは考えてみればわかるであろう。
本気で学校のデジタル化を進めるのであれば,
子供が使う機器なのであるから,
少なくとも,各学校に専門のSEを複数常駐させなければ
まともに機能しないことぐらいは
わかりきったことであるように思われるのだが。
事実,20年ほどまえ,当時のマルチメディア教育を調査していたとき,
当時の最先端のある私立学校の先生に聞いたところ,
その先生は,ITの専門的な知識を持った方であったが,
コンピュータ教室に寝袋を持ち込んでおられた。
生徒用のパソコンに生じたトラブルを解消し,
明日の授業できちんと機能するようにするために,
夜通し調整する必要があることがたびたびあるからだというのだ。
その先生は,使命観をもってやっておられたが,
これが全国の学校でできるのだろうか。
それとも,いまのIT機器には,トラブルは起こらないのだろうか??
ただ,機器を備え付ければこと足れりとする発想ならば,
デジタル化など,たんすの肥やしを増やすだけであろう。
よく,子供の気持ちを理解することが大切だということが,
親や教師へのアドバイスとして言われることがある。
この場合,子供の気持ちに寄り添って,
共感的に理解するというニュアンスが強い。
この子供へのアプローチは,
子供の年齢によっては
適切なこともあろう。
しかし,いつまでもこれではいけないのである。
そもそも大人が,このような意味で,
子供の気持ちを理解することが
本当にできるのだろうか?
大人は,大人の立場で子供を見ている。
したがって,もしも子供の気持ちを理解したという大人がいても,
それは,子供に共感したというよりもむしろ,
大人の文脈の中に,
子供の気持ちの有り様を位置づけたに過ぎない場合が多い。
よく考えてみれば,教育にとって大切なのは,
大人が子供の気持ちを理解することではなくて,
子供が大人の気持ちを理解するようにさせることである。
大人は,子供の気持ちを理解しようとするのではなく,
子供のことを親身に想うのであれば,
子供を大人にするために教え諭すべきである。
もし,大人が子供に共感したとしても,
共感に終わる限り,子供は決して成長できない。
子供が,大人の考えと自分の考えの違いに気づき,
内省を深めるように促さない限り,
子供は決して大人にならないのではないだろうか。
親や教師へのアドバイスとして言われることがある。
この場合,子供の気持ちに寄り添って,
共感的に理解するというニュアンスが強い。
この子供へのアプローチは,
子供の年齢によっては
適切なこともあろう。
しかし,いつまでもこれではいけないのである。
そもそも大人が,このような意味で,
子供の気持ちを理解することが
本当にできるのだろうか?
大人は,大人の立場で子供を見ている。
したがって,もしも子供の気持ちを理解したという大人がいても,
それは,子供に共感したというよりもむしろ,
大人の文脈の中に,
子供の気持ちの有り様を位置づけたに過ぎない場合が多い。
よく考えてみれば,教育にとって大切なのは,
大人が子供の気持ちを理解することではなくて,
子供が大人の気持ちを理解するようにさせることである。
大人は,子供の気持ちを理解しようとするのではなく,
子供のことを親身に想うのであれば,
子供を大人にするために教え諭すべきである。
もし,大人が子供に共感したとしても,
共感に終わる限り,子供は決して成長できない。
子供が,大人の考えと自分の考えの違いに気づき,
内省を深めるように促さない限り,
子供は決して大人にならないのではないだろうか。
今必要なのは「こわい先生」なのではないか。
何も,怒りまくったり,
怒鳴りまくったりする先生のことではない。
そんな先生はこわくない。
ここで言いたいのは,
近寄り難い威厳のある先生である。
言葉遣いはあくまで丁寧で,
いつもおだやかで隙がなく,
それでいて,
人の内面を見抜くかのような
眼光鋭い先生。
子供の頃,そんな先生が一番こわかった。
そんな先生を最近あまり見なくなったような気がする。
何も,怒りまくったり,
怒鳴りまくったりする先生のことではない。
そんな先生はこわくない。
ここで言いたいのは,
近寄り難い威厳のある先生である。
言葉遣いはあくまで丁寧で,
いつもおだやかで隙がなく,
それでいて,
人の内面を見抜くかのような
眼光鋭い先生。
子供の頃,そんな先生が一番こわかった。
そんな先生を最近あまり見なくなったような気がする。