学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

流行にとらわれるな

2016-08-27 | 教育

不思議でならないのだが、どうして、アクティブラーニングとかICT利活用とかいったものにすぐに飛びついてしまうのだろうか?

教科書を音読すること、黒板に書かれたことを正確にノートに書き写すこと、書き取り読み取りのドリル、計算ドリル、九九の暗唱、都道府県の位置と名称や県庁所在地、植物の生長観察の方法などなど、子供が強いられて学ばなければならないことは山ほどあり、長い学校教育の歴史の中で、それらの効果的な方法は教育現場で蓄積されてきていた。そして、その方法は、先輩教師から後輩教師へ受け継がれてきていたのである。アクティブラーニングにしても、その種の教育方法には初等中等教育には長い蓄積がある。いやアクティブラーニングは従来からあるものではないという学者がいるが、アクティブラーニングを新しいものと思わせようとするただの詭弁である。戦後経験主義全盛のころにさまざまな試みがなされ、あるいは成功し、あるいは失敗しながら、やがて一部を残して衰退していった方法に過ぎない。

もし、初等中等教育の現場で、教育効果が以前よりも落ちているというのなら、その原因は教育現場の蓄積を軽視し、分断したことにこそあるのである。学習指導要領改訂のたびごとに、教育効果の不確かな目新しい学習方法やスローガンをかかげる教育行政やそれに追随する教育学者、彼らこそが学校教育衰退の元凶である。彼らが、一度でもその主張する教育の結果責任を引き受けたことがあるだろうか。

そもそも定期的に学習指導要領を全面改訂する必要などないのではないか。教育内容の大部分には大きな変化はないのであるから、新しく加えるべき内容を加え、削除すべき内容を削除する微調整で足りるはずである。教科目の名称をいじり、教育課程の構成をいじり、評価方法をいじり、それで効果が見込めるのだろうか。全面改定のたびに現場は混乱をきたし、十分には納得できない寝耳に水のやり方や内容を押し付けられる教師はたまったものではない。教師がそのやり方や内容について勉強不足だから理解できないのではない。現場にあわないから理解できないのである。教育現場の疲弊は結局この繰り返しから起こっているのである。

教師としては、目の前の子供たちに何をどう教えるかを流行にとらわれず自分で考え抜くしかないのである。そしてそれは、一般化できる方法論ではないかもしれないが、最も誠実な教育方法と内容であるはずなのである。


プログラミング教育で論理的思考力は身につくのか?

2016-08-22 | 教育

新学習指導要領の議論の中で、プログラミング教育が注目されている。

プログラミング学習を通じて、コンピュータがどのように動いているのかを理解させるというのであれば、従来のソフトを使えるようにするような情報教育よりは実質的な意味があるだろうと思う。その場合は、プログラミング言語の学習を当然ながら伴うであろう。イギリスなどヨーロッパはこの方向性のように見える。

しかるに、我が国では、プログラミング言語の学習ではないプログラミング学習を通じて、論理的思考力を身につけさせたいのだそうである。摩訶不思議である。プログラミングというのは、コンピュータという物分りの悪い機械に、コンピュータでも理解できる特別な言語を用いて、命令を理解させるための営みである。人間の用いている論理的思考力と、コンピュータでも理解できる論理とは似て非なるものなのである。アルゴリズムを考えてみるとわかりやすいが、人間はいちいちアルゴリズムを頭に思い描いて考えたりはしない。アルゴリズムは一見、論理的に見えるが、実のところ、論理を極めて単純化したもので、人間の場合は、そこのところのステップは通常意識しないし、数理的な問題解決は別として、人間が実生活で問題解決する場面では、ほとんど役に立たない。

実生活で役立つ論理的な思考力を学ばせたいのであれば、西洋ではキケロ、東洋では論語でも読ませたほうがよいように思うのだが、いかがだろうか??

 

 

 


校務のICT化を考える

2016-08-21 | 教育

校務のICT化をより推進するそうである。

MS-DOSの時代からPCを学校で使うことを考え、いろいろ成績処理のプログラムなどもつくってみた経験から考えてみても、少子化が進み、在籍者数が減少傾向にある学校現場にあって、いまさら校務のICT化を推進する理由はどこにあるのだろうか??

コンピュータの得意分野は、大量のデータ処理を迅速に行うことにある。例えば、1万人のデータを処理するというのであれば、コンピュータの導入は効果的であろう。しかし、せいぜい全校生徒数百人という規模でのデータ処理は、アナログで行うほうが合理的である。それに、児童生徒のデータの保管期限は、基本情報以外は5年程度である。データ漏洩のリスクから考えても、アナログのほうが保管が容易であるし、漏洩リスクが低い。例えば、成績処理にしても、数十人規模であれば、PC利用と手計算とどちらが効率的か、なかなか判断しがたいところであろう。それに、手計算で起こるミスよりも、PCを慣れない人が起こすミスのほうが規模が大きいのである。

もともと学校というところは、子どもと教師が対面してコミュニケーションをとりながら教育を行うという、非常にプリミティブな方法で教育を行っている場所である。だから、近代学校制度が始まった頃から確立されてきたシステムを未だに適用可能であり、そのシステムを使うことが理にかなっているのである。黒板やチョーク、出席簿や学級日誌などがなくならないのもそれが最も合理的だからである。

校務のICT化によって、おそらく、このシステムに変化を起こすことはできないだろう。結局は、PCで処理したデータをプリントアウトして、紙ベースで確認し、紙で保管するというやり方から抜け出せないであろう。その結果、教員の多忙化が解消されるどころか、より煩雑な作業が増えるだけなのである。

どうして、こんなに単純なことが、まともに議論されないのであろうか。それが目下の疑問である。

 


究極のアクテイブラーニングルーム

2016-08-20 | 教育

最近、学校にアクティブラーニングルームというのをつくるのが流行りである。

可動式でグループ活動に適した机や椅子を備え、ICT機器が使いやすいように工夫されている部屋である。

しかし、アクティブラーニングと言われる学習法が、グループ構成の自由度、身体活動の自由度を要求するとすれば、

和室に折りたたみ式の文机がいちばん合理的ではないだろうか?

そういえば、私が通った小学校は、当時すでに100年の歴史をもっていたが、校舎は昭和初期に建てられたいかめしい建物だった。小学校4年生の時にはじめて参加した児童会の会議は、なんと40畳敷ぐらいの和室に正座で行われていたのである。

正座まではいかないにしても、和室の自由度は見直されてもよいのではないか。


学校のICT化という幻

2016-08-19 | 教育

学校のICT化が議論されて久しいが、私は日本の学校ではICT化が諸外国ほどに進むことはないだろうと考えている。とくに公立学校では、すべての学校に十分なICT環境を整えるということに対する財政負担に自治体が耐えられないだろう。ICTの特徴は、買えば終わりということではなく、メンテナンスや維持、機器の更新に永続的に費用がかかるということである。さらに、十分な容量のある無線LAN回線の整備や電源の確保など、現状の学校の予算環境で整備するには無理がありすぎるのである。

しかも、コンテンツ利用に制約が多すぎるためか、日本でいま紹介されているICTの活用は、ほとんどすべてICTなしでもできることなのである。電子黒板でできることは、黒板とチョークと模造紙と既存の視聴覚機器を使えばできることの精度をむしろ落としたものにしか見えない。

この面で、アメリカなどのICT利用の方向性とは大きく異なっている。例えば、Khan Academyなど、ICTを利用することでアナログの教育に新しい付加価値を与えているように思える。

むしろ、ICTの活用は、教育における格差の解消や教育機会の均等化に役立つものであるはずなのに、日本では、重点的にICT環境を整える学校が一部に限られているなど、格差拡大の方向に向かっているように思えるのも、気になるところである。

これも、学校のICT化そのものが、教育界の需要からはじまったものではなく、経済的な内需拡大策に過ぎないからであろう。