学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

できないことのよさ

2007-05-31 | 教育
例えば,誰でも跳び箱は跳べると宣言した場合,
跳び箱を跳べない子どものよさを見失いはしないか。

みんなが100点をとれるまでと掛け声をかけた場合,
100点をとれない子どものよさを見失いはしないか。

例えば,はやりのPDCAサイクルを教育に当てはめた場合,
プランの達成に合わない事柄は,チェックの段階で,
振り落とされてしまうのだ。

教師は,昔から,
計画通りいかないこと,やろうとしてもできないこと,
いつまでもやる気にならないこと,
そんなさまざまなことと丁寧に向き合ってきたはずだ。

経営管理や製品管理の手法を教育に取り入れることで,
抜け落ちていく大切な事柄が数多くあるということに
そろそろ気づくべきではないのか。

教育は,人と人との関係の中でしか成り立たないのである。
人間関係において,PDCAサイクルをまわしている人とは
つきあいたくないものである。

そのとき何がいちばん大切か

2007-05-25 | 教育
だいぶ前の話になるが,
中学生や高校生をイギリスに引率していくことに
なったことがある。
イギリス滞在中,イギリス人の先生と私を含む日本人の教師とで,
生徒を引率して,ある城址公園に遠足に行った。

私は,生徒に集合時間を確認したのち,
解散させ,自由行動をさせていた。

そして,集合時間がせまってきたので,
集合の合図をかけようとして,
腕時計を見ていた。

そのとき,イギリス人の先生が
私に近寄ってきて,
「日本人はすぐに時計をみる。
 確かに集合時間は大事だろうが,
 子どもたちは,いま楽しんでいるではないか。
 時間よりも大切なものがあるだろう。
 集合をかけるのならば,
 時間で決めてしまうよりも,
 子どもたちが飽きたなという頃合いをみはからって
 集めればよいのだ。
 いまは子どもが自由時間をこの場所で
 楽しんでいるということが一番大事ではないのか。」
といった意味のことを言った。

私は,はっとした。
「時間を守って行動する」ことしか,
私の頭にはなかったからである。

その時その時で何が一番大切なのかを
考えなければならないのだと思い知ったのである。

また,こういうこともあった。
日本人の生徒と,イギリスの学校の生徒の交流のための
パーティーのときのことである。

いわゆるご歓談の時間の最中である。
給仕長(かれはデンマーク人だったようだが)が私に近寄ってきて,
「いいか,これがパーティーなのだ。
 日本人は,パーティーというと
 すぐにスピーチや出し物を大事と考える。
 それも大事だろうが,
 この自由に話している時間こそが,
 パーティーで一番大事な時間なのだ。
 この時間をたっぷりとれよ。
 途中で時間がきたからといって止めるなよ。」
といった意味のことを言った。

かれは,パーティーのコーディネートについては,
とても自信と誇りをもっていた人物で,
そのサービスは心地よいものだった。
イギリス滞在中,
かれとはずいぶん親しくなっていたので,
あえてチームリーダーの私に言ったのだろうが,
実に感銘を受けた。

何がいちばん大事なのかを考えることを,
私は,彼からも教わったのである。

確かに時間を守るということも大切ではあるのだが,
彼らの言うことも大事な教育の要諦のひとつではないかと思い,
この親切な忠告を深く胸に刻んでいる。

学習姿勢ということ

2007-05-20 | 教育
最近,いろいろな学校の授業を見る機会があるのだが,
気になることがある。

教室のなかに,教科書を開いていない生徒や
ノートを開いていない生徒がいても,
あるいは,机の上に何も出していない生徒がいても,
かまわず授業が進められていることを
よく目にするのである。

あるいは,授業で先生が板書していても,
ノートに何も書かない生徒がいるのである。
そして,そのような生徒に気づかないのか,
あきらめているのか,
先生は,そのまま授業を進めているのである。

明らかに教師の怠慢である。

このような光景を目にするにつけ,
せめて学習姿勢だけでも
全員きちんと整えさせたいものだと思う。
いや,それが授業を行ううえでの
前提ではなかったか。

数多の教育論よりも,
日々の授業における学習姿勢を整えさせる,
このことだけでも
すいぶん学校は変わるのではないかと
思っている。

声が出ない

2007-05-10 | 教育
今,風邪をひいてしまって
声がかすれて出にくいのである。

声が出ないということは,
授業ができないということで,
これは,
教師にとっては致命的なことなのである。

それでも授業はやらねばならぬ。

しょうがないので,
マイクとスピーカーの力を借り,
のどを潤すための水を教室に持ち込み,
なんとかこうとか授業をやるのである。

こんな授業を受けなければならないのは,
それこそいい迷惑であろう。
申し訳ないことである。

「連休中は元気だったのですが,
 学校に来たとたんに,
 気持ちの問題でしょうか?
 声が出なくなってしまいました」と
軽く雰囲気をやわらげて,
できるだけゆっくりゆっくり話すのである。

こんなとき,
不思議と授業は整然と進むのである。
みんな静かによく聞いてくれるのである。

ほんとうにありがたいことである。
これこそ,「思いやり」というものであろう。

授業が終わると,
「先生,大丈夫ですか?」と
口々に声をかけてくれる。

ありがたいことである。

にっこり微笑み,
「大丈夫じゃないよ」と答える。

「先生,どうしたんですか?」と
声をかけてくれる。
さらに,にっこり微笑み,
「おそらくなにかのたたりでしょう。」
と答えることにしている。

冗談を言っている場合ではない。
まだ声が出ないのである。

明日も授業がある!