学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

現代の教育思潮の過ち

2007-02-25 | 教育
現代は変化の激しい時代だから,
知識を覚えたとしても,すぐに陳腐化する。
だから,知識そのものを覚える教育よりも
知識を得る方法とか,知識を活用できる力を
身につけさせるべきだという教育観から
現在の教育が行われている。

このことは,文部科学省の学習指導要領にしても
あるいは,それを批判するいろいろなメソッドにしても
おおむね一致した見解であるかのように思われる。

でも,この教育観自体に誤りはないのだろうか。
知識の中には,陳腐化するものと陳腐化しないものがある。
陳腐化しない知識とは,
歴史の淘汰を経て,陳腐化していない知識である。
すなわち,古典とよばれるものである。

現代のような知識の陳腐化がはやいといわれる時代にこそ,
陳腐化しない知識,すなわち古典的知識をしっかりと学び,
現代という時代に対処するためのゆるがないバックボーン,
すなわち教養をしっかりと身につけさせるべきなのである。

もしも,戦後教育が,
その優れた実践の蓄積にもかかわらず
何らかの不足があるとすれば,
それは,古典を重視してこなかったことにこそ
求められるべきであろう。

この教養にくらべれば,
現在もてはやされている凡百の教育論など
まったく取るに足りないものなのである。
それらこそ,実は,陳腐化する知識に他ならないのである。

「生きる力」とか「心の教育」とか,
「批判的思考力」とか「金融教育」とか,
「コミュニケーション能力」とか,
目新しく内容が不確かで,
おそらく100年の寿命もないような用語を並べ立てるよりも,
古文や漢文,古典的英文にでも目を向けたほうが
よっぽど価値があるであろう。
そのほうが,
生きていくための指針を得るには
有益なのである。

教師の労働時間を考える

2007-02-22 | 教育
仮に,一人の教師が1単位時間(小学校45分・中・高校50分)の
授業をするのに,最低限,同じ時間(45分ないし50分)の教材研究が
必要であると仮定しよう。
さらに,その授業を振り返り検証する時間が最低限30分必要であると
仮定しよう。

小学校では,全科の授業を毎日行っているわけであるから,
週当たり持ち時間数は,学年によっても異なるであろうが,
だいたい20単位時間を越えるであろう。

中学校でも,最近では,20単位時間を越える授業をもっている
教師が多いであろう。

そうすると先の仮定に基づいて計算すると,

1単位時間の授業+1単位時間の教材研究+30分の授業後の検証
=120分ないし130分となる。
それが,週に20回分必要だから,
20回×120分ないし130分=2400分ないし2600分=40時間以上

すなわち,週40時間労働制のもとでは,
授業のことだけを純粋にやっているだけで,
週の労働は終らなければならないのである。

他のすべての校務その他子どもや保護者との対応は,
すべて超過勤務である。

すべからく教師は,
まじめに授業の準備をし,授業をし,
授業の振り返りをしただけで,
週当たり労働時間を超過するのである。

しかも調整手当だけで,残業とは算定されない。

このことを,まじめに議論する人はいないのだろうか?

信頼関係ということ

2007-02-19 | 教育
教師と生徒のあいだの信頼関係ということについて,
考えてみたい。

よく生徒は中学生ぐらいになると,
「先生は,私のことを信用していないんですか?」などと
言うことがある。
この言葉は,教師に生徒が投げつける言葉としては,
かなりとげのある言葉である。

なぜなら,
教師は生徒を信頼すべきものだと
教師自身が考えているであろうことを想定して
自己防衛的に言っていることが多いからである。

こんなときは,
「あなたが,私(教師)のことを信用しているのと同じぐらい,
 私はあなたを信用していますよ。」
と答えてやるのもひとつの方法であろう。

本来,教師と生徒との間の信頼関係というものは,
対等の人間関係におけるものではないので,
双方向的なものとしては成立しないからである。

生徒が教師を信頼するとか信用するというのならわかるが,
教師が生徒を信頼するとか信用するとかいうことは本当は
成り立たないのである。

なぜなら,生徒は信頼するに足りない存在だからこそ,
学校に来て学んでいるのであるし,
教師の仕事は,信頼するに足る存在ではない生徒を,
信頼するに足る存在へと成長させることだからである。

教師は,生徒の今を信頼しているのではなくて,
生徒がよりよく成長するであろうこと,つまり生徒の将来を
信頼しているのである。

本当は,あの生徒は信頼できる人物だというふうに
教師が判断できるのは,
その生徒が,一人前になってからのことなのである。


しかしながら,教師は,
「あなたがたのことを信用していますよ」
と,自分のクラスなどで言いたくなるものである。

「よし,先生が私たちのことを信用してくれているんだから,
 その信用を裏切っちゃいけない。しっかりしよう」
と思ってくれる年齢の子どもまではある程度有効であろうが,
それにしても,教師は,
いつかどこかの段階で生徒への信用というものを
自ら否定するような言動をしてしまうものである。

「なあんだ。先生はやっぱりわたしたちのことを
 信用なんてしていなかったんだ」
と子どもに思われることもまた多いのである。

そうなってしまえば,それこそ教師に対する子どもたちの
信頼そのものが崩壊する。

そのようなことをも考えに入れれば,
「信頼関係」を口にすることには
くれぐれも慎重でなければならないと思うのである。




学校に通う意味

2007-02-17 | 教育
子どもの気持ちに寄り添い,
子どもの考えることを理解して
共感し,同調してあげるということも
ほどほどにしないといけない。

大人がそのような態度で子どもに接していると,
子どもはいつまでも大人になれない。

大人は,大人の考えをもち,
子どもの考えることに理解は示すとしても,
それを修正する義務を負っているのではないか。

教育とは,子どもを大人にすることである。

したがって,子どもの気持ちや考えは,
否定され,修正され,超克されなければならない。

その意味では,教育とは,
子どもに,成長のための負荷をかける営みに他ならない。

教育とは,本質的には,
子どもにとって心地のよいものではあり得ないし,
学校は,子どもにとって,
快適なところというわけではない。

「学校に行ったら,つらいことや苦しいことがたくさんある」
そのことを,大人は,はっきりと
子どもに言い聞かせておくべきではないのだろうか。

つらいことや苦しいことのなかから,
成長への糧を各自がつかみ取っていくことこそ,
子どもが学校に通う意味なのである。

不親切のすすめ

2007-02-11 | 教育
われわれは,
生徒に迎合しすぎたのではないか。

丁寧にプリントを用意して負担を軽減し,
理解しやすいようにと心をくだき,
果ては,ITまで導入している。

その結果はどうであったか。

生徒は,教師のサービスにあぐらをかき,
サービスを受けるのがさも当然というように
口をただ空けて待っている。

学習意欲がないのは,
さも教師のサービスが悪いとでもいいたげである。


われわれは,
もっと不親切に徹するべきであったのではなかったか。

高校生以上なら,
プリントを配らず,板書をせず,
ただひらすら講義されたことを,
ノートすることを強いるべきではなかったか。

大量の宿題を課して,
それをやってこない場合や,
試験で意欲のない答案を提出した者は,
容赦なく単位不認定にするべきではなかったか。

学ぶということの峻厳さを
もっと知らしめるべきではなかったか。


今年もまた,サービスに徹し,
これ以上ないという親切をほどこし,
慈愛に満ちた成績をつけながら,
ぶちぶちと考えているのである。




教科書は教科書らしく

2007-02-07 | 教育
教科書は,教科書らしく,
ある程度,いかめしい風貌をもっていて
もらいたいものだ。

教科書は,漫画本でも雑誌でもないのである。
キャラクターを入れたり,
イラスト過多なのはどうもいただけない。
シールつきというのもいかがなものか。

いくら,子どもたちに親しみやすくしたいからといって
ちょっと,迎合しすぎではないか。

教科書は,いかめしい顔をしていたほうがよいのである。
いかめしく近寄りがたい教科書の内容が理解できたときに
はじめて子どもは成長を実感できるのである。

どうも,
最近の教科書は,
子どもが背伸びすることを
妨げているような気がしてならない。

昔の遊び

2007-02-01 | 教育
いまの小学校では,生活科の時間などに
「昔の遊び」を体験させているところも
少なくないようである。

その結果,いまの子どもたちは,
けん玉,おてだま,コマ回しなどなど
とても上手な子が多いのである。

むしろ,親の世代を考えてみると,
地域差もあるだろうが,
案外このような典型的な「昔の遊び」を
学校でも当然教わらなかったし,
家でもあまりやっていないことが多いのではないだろうか。

「いまの子は,家の中にばかりいて外遊び体験が乏しく
「昔の遊び」すら知らない」などという言説は,
実は,昭和40年代ごろからすでに
高度経済成長下で都市化や工業化の進んだ地域では
あてはまっていたことなのである。

かくして,親のほうが子どもより
「昔の遊び」を知らない,
あるいは下手であるという
逆転現象が起きているのである。

親は,「昔の遊び」の上手ないまの子どもや,
それを教えてくれた学校をもっと尊敬すべきであろう。