学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学校教育の改善を阻害しているのは教員である

2012-11-15 | 教育
学校教育の歴史をみてみると,その時代時代にさまざまな問題が発生している。そして,その問題をまがりなりにも解決し,今日まで学校教育を維持し続けている主体は,やはり学校である。教育評論家でも政治家でも,教育行政でもない。学校現場の教職員集団が主体となって解決してきたのである。そのことはきちんと認められるべきだと思う。

今日,学校運営に関して,かつてないほどの外部の圧力がかかっている。それも,教育の立場からの圧力よりも,政治や経済の立場からの圧力が多くなっている。さらに,学校内部で何か問題が起こると,まずそのことが指弾され批判される。それはそれでよいのだが,その批判者自身は解決のシナリオをもっていないまま,批判している。つまり,批判者は,問題解決をはかろうとして批判しているのではなく,ただ批判することそのものに何らか自分に利となることがあるから批判しているのである。

そのような周囲の状況の中で,もっとも問題なのは,昨今の学校の教員自身の姿勢である。学校の教員自らが,批判者の立場に身を置こうとするのである。学校で発生している問題を解決しようとするのではなく,批判して事足れりとし,批判することを通して自己保身をはかり,自己満足を得ようとしているのである。

具体的にはこういうことである。たとえば,あるクラスが学級崩壊の状態になったとしよう。当事者たるクラス担任は針のむしろである。批判者に取り囲まれるからである。保護者が批判するのは当然のことであるから,甘んじて受け止めるべきである。しかし,同僚たる教員が,そのクラス担任の学級経営を表立ってではなく陰で批判するのである。そのクラス担任に直接助言するわけでもなく,「あの先生だからああなった」,というような言い方をする。ともに問題解決にあたるべき前担任もこのように言う。「私が担任していた時はきちんとしていたのに,やはり私でなければだめか」。また逆に前担任が陰口の対象になりもする。「前の担任が厳しすぎたからその反動でああなった」。果ては,管理職も陰口の対象となる。校長や副校長の対処が悪いというわけである。逆に管理職は,やはりうちの教員はどうしようもないな,来年は大規模に異動させようと考えるわけである。問題にはちっとも切り込まないくせに,批判や陰口や論評ばかりしているのである。
こんなことをいつまで繰り返してもどうにもなりはしない。悲劇を通り越して,喜劇である。

もうある教師が原因でクラスがよくなったり悪くなったりするというような思考法から脱却すべき時ではないか。問題が発生したときに,原因を追究し特定するのは問題が解決してからでよい。問題が発生したら,まず何より現在の状況(事実)を把握し,それに対して解決方策を具体的に立案すべきであり,その解決には学校全体で一致団結してあたるべきである。それができないから,原因(と思われるもの・思いたいもの)ばかりあげつらうのである。

教員が同僚や管理職や子供や保護者のことを悪く言う,それは直面している問題を解決できない無能さの証である。

とにかく一度,学校内で,これらの批判や陰口を一切やめてみればよい。それができれば,問題解決の道筋は自然に見えてくるであろう。

同僚性とはそういうものである。