学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

教員養成6年制は愚策である

2009-10-25 | 教育
 教員免許更新制を廃止して,教員養成を大学院2年間を含め6年制に移行しようという教員の指導力向上政策について考えてみたい。
 教員免許更新制の功罪は,正式には1年しかやっていないのであるから評価不能なはずである。それはさておき,教員養成6年制に関しては,現場感覚でいけば疑問を感じざるを得ない。現場で見ていると,短大卒業,大学卒業,大学院修士課程修了,大学院博士課程修了などさまざまな学歴の先生がいるが,学歴差によって,教員の資質や指導力に際立った違いがあるかというと,ほとんど差がないか,逆に,大学院修了の方がよろしくない場合さえある。
 要するに,大学や大学院には,そもそも教員の資質を向上させる機能は乏しいのである。だからこそ,東京都をはじめとする教育委員会が,自前で教員養成にのりだしているのであろう。大学や大学院が与える教員免許はそれこそ最低限度の資格に過ぎず,教員の資質や指導力といったそれ以上の職業訓練を大学や大学院に任せるのは無理である。これは運転免許の場合と同じであろう。運転免許を持っているからといって,運転が上手だとは限らないのである。
 また,教育実習の期間延長についても,それが現場にとってどれだけの負担になるかはさておき,教育実習生というのはどこまでいってもお客さんである。お客さんとして扱われて,子どもたちに慕われていい思いをした学生は,必ず傲慢になる。教育実習生などという責任をもたない立場でいくら長期間経験を積んでも,「自分はできる」という過った自信を植え付けるだけである。
 そこまでいうなら対案は,と問われる人にお答えしよう。教員採用後の試用期間を3年間とするのである。そこで,資質や指導力を見極め,資質や指導力がないと判断される場合には,円満に退任していただくのである。もともと資質や指導力は,3年もあれば,判断がつくものである(現在の1年間では判断しかねる)。3年たって芽が出ないならば,転進した方がよい。現場で責任ある立場で取り組ませたほうが,よっぽど指導力をつけようと実のある努力をするのではないだろうか。

クレーム対応を考える

2009-10-15 | 教育
 保護者や地域からのクレーム対応に苦慮している学校が多いようである。そこで,クレーム対応の在り方について考えてみたい。クレームを嫌がってまともに対応しないことは間違いである。さらに強い苦情を生むことになる。これは当たり前のことであるから,わかりやすい。ところが,その逆にクレームを受け入れて誠実に対応しているつもりなのに,さらにクレームが増える場合がある。当事者としては,真剣に対応し,人的物的時間的な優遇措置をとっているにもかかわらず,苦情が増加するのだから,わけがわからなくなるのである。

 このような状態に陥るのには,大きな原因がある。それは,最初にクレームが持ち込まれたときに,その苦情のもととなっている事象に対して,学校としての対応が確立していなかった場合である。その場合,クレームを受けてから学校として初めて対応をしたことになるので,クレームが対応を引き出したことになる。学校は,クレームがあってはじめて,限られたリソースをクレームのあった状況に対して割いてくれるわけであるから,学校はクレームがなければ動かない組織だということになる。当然,クレームは増加する。当たり前である。
 また,ある教師の振る舞いに関するクレームが持ち込まれたときなど,事実関係を明確にする前に,相談を受けた他の教師がクレームに同調することは慎まなければならない。学校組織の一員が同調すれば,そのクレームは,事実関係の有無にかかわらず,事実としての効力をもつのである。

 したがって,クレームに対する正しい対応とは以下のようなものになるであろう。

(1)クレームを受けた場合には,ひとりで聞かず,複数の教員が同席で聞くことは必須の条件である。クレームを受けた日時,場所,話の内容を正確にメモする。
(2)学校外では決してクレームを受けない。自宅への電話やメール等はお断りする。
(3)そのクレームに対しての判断は,事実関係が明らかになるまで留保する。否定してもいけないし,同調してもいけない。
(4)クレームのあった状況に対するこれまでの学校の対応を,しかるべき責任ある教員が明確に説明する。どのような事柄であっても,学校に関することであるかぎり,学校としての教育方針,教育哲学から導いた教育なり対応なりの具体的説明がきちんとできない学校は,学校とは呼べない。
(5)クレームのあった状況に対する事実確認を厳正に行い,その結果を逐一クレーマーに学校から報告する。何事もうやむやにしてはならない。
(6)学級にクレームが持ち込まれた場合には,必ず,学年あるいは学校で情報を共有するとともに,必ず校長に報告する。
(7)学校としてクレームに対応する場合には,当事者を含めた協議を経て,校長が対応を決める。
(8)校長は,学校としてできることとできないことを明確にし,クレーマーにきちんと説明する。
(9)クレームのあった状況が終息した後も,クレーマーとは情報交換の機会を学校のほうから声をかけてもつようにする。
(10)クレーマーは学校のサポーターであるという意識を教員全員が共有する。

昔の名校長・今の名校長

2009-10-05 | 教育
昔,名校長と呼ばれた人は,人情の機微に通じ,子どもはもちろんのこと,教職員の心の動きをよく把握し,自らは威厳をもちつつ,それでいて,めだたず采配をふるうタイプの人が多かった。作業着を着て人知れず校庭の雑草とりをしているようなタイプの人である。人が見ていようが,見ていなかろうが,そんなことにはお構いなく,自らが正しいと信ずる道を行う人格者である。だからこそ尊敬された。

今,名校長と呼ばれようとする人は,鼻息が荒い。自分が赴任する前の学校の状態をこてんぱんにこき下ろし,「なんたるざまか」と憤慨する。そして,自分が赴任してきたからには,大改革を断行し,学校を生まれ変わらせるといきまいて,保護者にもアピールをする。そして,ほんの少しの成果でも成果をあげたと吹聴するばかりか,果ては他の教員や子どもたちのがんばりで得た成果も,すべて自分の手柄にしてしまう。とにかく,自分で自分の成果を大げさにアピールするのが,名校長の名校長たるゆえんであるかのようである。保護者も地域も,上手なアピールに幻惑される。そうか,そんなに学校がよくなったのか,そう言えばそうかもしれないなと思わされる。そして,さすが,名校長,馬脚をあらわす前に,栄転の運びとなるのが常である。

やれやれ。

教育に独創はいらない

2009-10-04 | 教育
教育学者は,研究者である。研究者は,新しい知見を常に求められている,つまり,独創性がないといけないと思われている。
(研究者の世界では,「研究」と「勉強」は違う,「研究」とは未知の分野を開拓することなり,独創こそ命,と説かれている。しかし,英語では,どちらもstudyで通用する。このことはどう説明されるのであろうか。我が国語における独自の解釈ということであろうか??)

自然科学の分野はさておき,人間を相手にしている,それも教育という,それこそ人間をじかに相手にしている分野では,独創的な知見というものに果たして意味があるのかどうか,そもそも,独創的な知見というものが存在しうるのかどうか,はなはだ疑問である。独創的に見えるものも,実は過去の知的遺産をパラフレーズしたものであることが多いことに気づくべきである。

人間というものは本質的には,時代によってさほど変わっていくものではない。その証拠に,昔の人が書いたものを読んでも,なるほどと思ったり,感銘を受けたりすることができる。太古の昔から,人間は,眠り,働き,食べ,話し,考え,そして,子どもを教え育ててきたのである。


言いたいことは,教育という分野には,それほど独創的なやり方というのはあり得ないし,むしろ,独創的なやり方は,歴史的に検証を経ていないという意味において,従来のやり方よりも危険性が高いということである。それどころか,単なる思いつきにすぎないようなものも多々ある。

そう考えると,教育現場に,教育学者が考えた「新しい」「独創的な」方法論や教材論を持ち込むことは,はなはだ危なっかしいことだということになる。

加えて,教育学者は,教育の結果について責任を負っていない。このことも重大な問題である。責任を負うのは,現場の教師である。学校は教育学者の実験場,フィールドあるいはおもちゃ箱ではないのである。

教育の現場で苦しみ,子どもの前で立ち往生したこともない論者の考えで,教育改革をプログラムするのはもうやめにしたらどうか。戦後の我が国の教育の迷走や振り子のような揺り戻しは,このような机上の空論を受け入れたためであることは,もう分かっているではないか。

これからも,まだ無意味な右往左往を続けようというのか。