学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

読書と講義

2009-07-26 | 教育
今の子どもは読書離れが進んでいるので,
もっと読書すべきだと言われている。

一方,講義形式の授業は好まれず,
体験的な活動的な授業を工夫すべきだとされる。

この主張は互いに矛盾するように思われる。

本を読むことと講義を聴くことは,
視覚と聴覚の差はあれ,とても似通ったものである。
すなわち,両者共に,
きわめて受身的なものであるということである。
とかく,生徒の主体性や意見表明を重視しがちな昨今であるが,
生徒の主体性を発揮させるよりも前に,
受身に徹して,己を空しうして,
読み,かつ,聴く経験が必要なのではないか。

自分がどう思うかやどう考えるかはしばらく措き,
著者が何を言いたいのか,講師が何を語りたいのかを,
虚心坦懐に受け入れる,その訓練なくして,
本当に実質のある主体性など生まれてこないのではなかろうか。

中学入試と学校教育

2009-07-12 | 教育
中学校の入学試験と学校教育について考えてみたい。

高校入試や大学入試をみていると,
基本的には,
中学や高等学校の履修範囲や教科書の記述内容を
踏まえて作られているようである。
このような入試であれば,
学校での学習をよく理解していれば,
本人の努力によって入試を解けるレベルに
到達できる可能性が大きい。

しかし,最近盛んになってきている
中学校入試に関しては,
小学校の履修範囲や教科書の内容と
入学試験のレベルの乖離が大きすぎるように思われる。

特に,中学校入試の問題を見ると,
高校入試や大学入試と異なり,
本人の努力によっては到達しがたいのではないかと
思われる問題が散見される。
いわゆる知能検査的な要素や運に左右される要素が
多分に含まれているような気がするのである。

このような問題に対処するためには,
学習内容の理解を前提とするよりも,
条件反射的に問題を解けるようにする訓練が
有効ということになる。
事実,そのような訓練を施す私教育機関も多いようである。

本人の資質にもよるであろうが,
幼いときからそのような訓練をさせてしまうと,
学習内容を理解するということがどういうことか,
それ自体を誤認してしまい,
問題が解けることイコール学力であると誤認してしまう。
そのような子どもは,
中学入学以降,伸び悩むのである。

学校教育のめざす健全な子どもの発達と
中学校入試のめざす子ども像との乖離が
当事者である子どもの成長にとって
マイナスの影響を及ぼしてはいないかと
強く懸念されるのである。


日本語は大丈夫か

2009-07-09 | 教育
PISA型読解力などが話題になっているが,
それとも関係の深いOECD DeSeCoの
キー・コンピテンシーの3つのカテゴリーというのが
紹介されているのを見た。

3つのカテゴリーとは,
「相互作用的に道具を用いる」
「異質な集団で交流する」
「自律的に活動する」
だそうである。

これでは全く意味がわからない。

私の日本語の語感が狂ってしまいそうである。

キー・コンピテンシー以前に,
このような日本語で教育が語られるということに,
問題はないのだろうか?

やっぱり英語の原文にあたるというのが,
コンピテンシーであるということか。

保護者とは?

2009-07-07 | 教育
最近ちょっと頭がこんがらがっていることがある。

私は,
保護者とは,
未成年の子女を保護している者のことだと思ってきた。

調べてみると,法律によって,
解釈は多少異なるようだが,
大筋としてはこのような理解でよさそうである。

ところが,大学生に対しても保護者という言葉が
普通に使われているのをよく目にするようになった。

研究者の論文のタイトルにも出てくるし,
大学自身が保護者という言葉を使ってもいる。

大学生といえば,成人を含むはずである。
したがって,「保護者」の定義からいくと,
大学1・2年生の一部には保護者がいるが,
3年生以上には普通は保護者はいないということに
ならないだろうか?
(大学生が経済的に依存しているということであれば,
 大学から見ると,保証人ということになろうか。)

言葉の定義に厳密なはずの研究者や大学が使っているのだから,
私の解釈がおかしいのだろうか?
大学生は成年とは見なさないという規定か何かが
どこかにあるのだろうか?

疑問が晴れないのである。

ご存知の方がいらっしゃったら,
是非お教え願いたい。

教育に希望を見いだすために

2009-07-04 | 教育
大人は本当に
子どもの健全な成長を願っているのか,
振り返って考えてみる必要がある。

子どもを自分の利益のために
利用しようとしていないか,
振り返って考えてみる必要がある。

教師は,自らの教育の目的をいま一度問い直す必要がある。
何のために教壇に立ち,
毎日,何を子どもたちに語りかけているのか,
そして,子どもたちをどこに導こうとしているのか,と。

政治,社会,経済,どれをとっても,
未来は不透明である。
子どもたちが将来生きていく社会は、
どのようなものになるのか,
誰にも本当にはわかってはいない。

知識基盤社会だのグローバル化だのは,
せいぜいここ10年以内ぐらいの予測であろう。

50年先,70年先を見通すことは
誰にもできないのである。

見通しの立たない混沌の中に
子どもたちを送り出すのだから,
どのような社会であっても生き抜いていくには
本当は何が必要なのか,
親も教師も真剣に考える必要がある。

大人が自分自身の力では未来の社会を
どうにも知り得ないことを正直に認め,
そのうえでなお,
未来の世の中への希望を子どもに託す,
どのような混沌のなかにあっても,
子どもたちも未来に幸多かれと祈る,
大人が自分の持っている何を子どもに与えてやればよいのか,
時代が変わっても価値を失わないものは何なのか,
それを考え続けることのなかにしか,
教育の希望は見いだされないのではないか。




教育への失望

2009-07-02 | 教育
本当に子どものことを考えた教育というものが
果たして,今の世の中に本当にあるのだろうか?

子どものことを考えているような素振りを見せながら,
根拠の希薄な自説の披露に使われていたり,
一儲けをたくらむ輩の思惑に左右されていたり,
道具としてしか子どもを見ていなかったり,
あまりにもそれが露骨ではないか。

結局,大人のために子どもを振り回しているだけではないか。

子どもを一人の人間として尊重する教育など
どこを探しても見当たらないではないか。

いや,むしろそのようなものは存在しないと
決めてかかったほうがよいのかもしれない。

教師の疲労感は,
自らの職業が本当には子どもの方を向いていないことに
気付いてしまったことが原因で生じているのではないだろうか。

いい先生

2009-07-01 | 教育
教員の資質能力の向上ということがよく話題になっているが,
こういう視点で考えてみるのはどうだろう。

「いい先生」とはどういう先生をいうのか,
その先生はどういう先生だから,
「いい先生」だといえるのか。

私のイメージだと,どうしても「いい先生」のイメージは,
知識や技能,指導能力的な側面で優れているというよりも,
人格的な側面で優れている人物というイメージである。

教員の資質能力の向上をめざして,
地球的視野に立って行動したり,
社会の変化に対応したりできる教員をいくら育成しても,
子どもたちから,その先生が「いい先生」であるとは
認識されないのではないか。

むしろ,教員の人格をいかに陶冶すべきなのか,
それを考えた方がよいように思われる。