学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

学級崩壊は行政の問題である

2011-02-13 | 教育
学級崩壊現象は,もはや珍しいことではなくなった。

この学級崩壊に関して,不思議でならないのは,
教育委員会などの教育行政が実効ある対策を何ら打ち出さないことである。

学級崩壊を教員の指導力の問題に帰着させることが,
教育行政の無為無策の隠れ蓑になっているように思えてならない。

教育行政が教員の指導力強化に目を向けている結果,
教員研修や教員養成などに対する施策は多いようであるが,
学級崩壊そのものに対する人的物的資金的な対応は全く不十分である。

学級崩壊が,学校において異常事態であるという認識が,
教育行政において薄すぎるのではないか。
どうも本気で学級崩壊をなくそうとしているとは思えない。

いますぐ,指導主事に充てられている優秀な教員を,
全員,人手不足の現場に戻し,教員として配属して対応にあたるべきである。
もともと指導主事に教員を充てる必要などないのである。
さらに,専任教員の数を大幅に増やして,
学級に複数担任制を敷いたり(もう二人では足りないかもしれない),
学校にいつでも派遣できるベテラン教員を待機させる,
あるいは,保護者対応専門教員を配置するなど,
いろいろ学級の秩序回復の方策は考えられるではないか。

改革志向の愚かさ

2011-02-06 | 教育
 これはなにも教育に限ったことではないが,やたらと「改革」を言い立てる人がいるものである。近頃は世間も,少々「改革」という言葉に食傷気味,「改革」疲れの感はあるが,無理もないことであろう。
 これは,そもそも「改革」ということの本質を見極めていないことが原因であろう。物事には,メリットとデメリットがある。「改革」とは,そのメリットとデメリットの位置関係を一気にずらすこと,すなわち,いままでのメリットが消えて,新しいメリットができ,今までのデメリットが消えて,新しいデメリットが生まれることであり,実は,メリットが増え,デメリットが減ることを直接には意味しない。「改革者」は,必ずメリットを協調し,デメリットを無視するが,「改革」の恐ろしさは,「改革」当初には,デメリットが見えにくく,したがって,デメリットに対する対処が遅れること,あるいは,「改革」によって,実際には,気づかないうちにデメリットが増えてしまっていることなのである。我が国の教育改革などを長期的スパンで見れば,このことはよく理解できると思う。もしあのとき,大きく舵をきらなければ,こんなひどいことにはなっていなかったのでは,と思われる「改革」が数多くあることは,「改革」を経験した現場の教員ならば実感できるであろう。
 そもそも,本当に教育をよくしたいのであれば,「改革」をしないことである。「改革」ではなく,小さなめだたない改善を積み重ねていくことである。つまり,メリットとデメリットの位置関係をずらさず固定しておいて,一つひとつデメリットをつぶしていく工夫をするのである。あるいは,デメリットがつぶせなくともデメリットがあることをよく理解しておいて,ことにあたることができるだけでも,そのデメリットの悪影響を最小限に防ぐことができる。例えば,ものづくりを考えてみても,新製品よりも長く作られ続けている製品のほうが安定性や信頼性が高いのと同じである。教育は,人づくりである。ものづくり以上にデリケートな営みである。そのデリケートな営みに「改革」は似合わないのである。日々の改善への意欲を各自が持ち続けるための工夫のほうがより大切である。学校において言えば,校長の我が身を省みない確固たる教育理念に教員の同僚性(同志性と言い換えてもよい)がうまく機能すれば,大きく崩れはしないものである。
 ともかく,「改革」を言い立てる人の腹の底を探ってみれば,「我こそは改革者なり」という自負があるのだろうし,他人から「汝は改革者なり」と言われたいのであろうと思う。「改革者」の称号には麻薬的魅力がある。
 学校教育を考えてみれば,例えば,教育の本質について本当には考えてみたこともない野心家の校長などであれば,あるいは学校のことが本当には分かっていない外部からきた民間人校長などであればなおのこと,その学校の年譜に,「改革者」として特筆大書されることの誘惑には勝てないものである。畢竟,「改革」とは,「改革者」個人のためのものである。
 

メディア・リテラシーを考える

2011-02-03 | 教育
昨今メディア・リテラシー教育の必要が叫ばれ,小学校段階から,多様なメディアに触れ,メディアの情報をどのように使うか,その利便性と危険性について,さまざまな機器を使った教育が提唱されている。しかし,よく考えてみてほしい。小学校段階では,リテラシーそのものが未熟なのである。そもそもリテラシーそのものが不十分な子供にメディアのリテラシーを理解させようとするのはそもそも無理があるのではないかと思われる。
 メディアにはさまざまなものがあるが,ここでは,インターネットを例にあげて,この問題を考えてみたい。子供にインターネットを活用させる際に,なぜフィルタリングするのかを考えてみれば,わかりやすい。フィルタリングは,子供自身がインターネットの危険性を本当には理解できていないであろうから,大人が子供を保護してやらなければならないという前提に立っている。想像すればすぐに分かることなのだが,例えば,メディア・リテラシーの観点から,小学生にインターネットのリテラシーを教えたとして,安全にフィルタリングなしにインターネットを活用できるようになるであろうか。おそらく無理であろうことは容易に想像がつく。このように考えると,義務教育段階では,インターネット・リテラシーよりも先に,リテラシーそのもの,すなわち読み書き能力を鍛えあげること,そして,その背景となる望ましい道徳的特性,すなわち健全な倫理観や慎重さ,熟考する態度などを育成する必要があるのである。これまたよく考えれば当然のことなのであるが,インターネット情報を賢明に取捨選択できる人間というのは,すでにインターネット以外からさまざまな知識を得ていてそれらを十分活用できている人間である。
 このように考えてみると,メディア・リテラシーの教育とは,メディアそのものを対象とした教育を大規模に取り立てて行う必要はなく,それほどのコストをかけずとも通常の従来から行われている教育の充実によって,技術的な側面に関する部分を除いては,ほぼ完成されるものと考えられる。