学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

時代の変化に遅れよ

2008-08-27 | 教育
教育改革をいう人々は,
すぐに時代の変化を持ち出す。
新しい時代への対応とか,
社会の変化に応じた改革をとか言い出す。

また,教育現場の地道な実践を
てんで馬鹿にしているのも
この人たちの特徴である。

ずいぶんと無責任な話である。

時代の変化を見越した教育改革で
成功した例があるだろうか?

むりやり成功したことにしている事例は
あるかもしれないが,
現場から見れば,
ほとんどがよくない方向へ
舵を切っているのである。

現場感覚で言えば
うまくいっているものを
急に変えようとするものだから
混乱が生じるのは当たり前である。

学校というところは,
失敗が許されないところである。
うまくいくかどうかわからないような
改革は受け入れないというのが,
現場の良心である。

学校というところは
時代の変化に先んじて変わるべきところではない。
時代が変化しきった後で,
ゆっくりと変わるぐらいで
ちょうどよいのである。

原点を問い直す

2008-08-08 | 教育
学校教育にできることは何か,
それをもう一度,原点から問い直してみたい。

振り返ってみて,
自分自身が学校に通うことで
できるようになったことは何か,
できるようにならなかったことは何か,
幼稚園ではどうだったか,
小学校ではどうだったか,
中学校では,高校では,などなど,
もう一度ゆっくりと考え直してみたい。

そして,
いかに多くを学校教育に負っているかを
再認識することが必要ではないかと思うのだ。

自分自身が学校教育によって授けられた諸々を
果たして,子どもたちに授けることができているのかを,
問い直すべきではないか。

これからの時代は云々といったような
地に足が着かない議論を繰り返すよりは,
自分自身の歩いてきた道を
しっかりと振り返ることのほうが
よほど意味のあることである。

せめて,自分自身が学校教育から授けられた良きものを
そのまま子どもたちに受け継ぐことができたならば,
教育の目的の大半は達せられたとしてもよいのではないか。

学校教育にそれ以上の確実なものを望むことは,
本当はできはしないのではないかと思うのである。

ゆっくりと振り返るためには,
ゆっくりと休める時間が必要である。



習熟度別授業の是非

2008-08-04 | 教育
いつのまにか,小学校でも習熟度別授業が
広く取り入れられるようになっている。

従来,小学校では,
生活集団としての学級が,
そのまま学習集団であり,
学級という生活共同体の中で,
学習が営まれてきた。
学級という集団は,
少なくとも1年間は固定された集団であり,
集団としての安定性をもっている。
子どもは,学級共同体の一員として,
生活し学習するのである。
これが,我が国の子どもの社会化にとって
大きな意味をもっていた。

ところが,
習熟度別授業というのは,
生活集団即学習集団としての学級を解体し,
少人数の習熟度に応じた学習集団を作り出す方法である。
その学習集団の成員は習熟度の変化に応じた流動性をもっているため,
学習は個人の問題に還元されるという特質をもっている。

学習は,「個」の問題となるのである。

ここには,従来の小学校の持っていた学習観とは
全く異質な要素が含まれている。

学習が「個」の問題であるとする学習観には,
年齢主義(履修主義)ではなく,
課程主義(修得主義)のほうがふさわしい。
この学習観に立てば,当然,
原級留置も認めるべきである。

そこまで徹底しないでおいて,
習熟度別授業を導入することは,
価値観のねじれを生む。

従来,小学校が年齢主義をとってきた意味を
しっかりと考え直すならば,
安易な習熟度別授業の導入は
避けるべきであったのではないだろうか?