学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

ジャパニッシュの確立を

2008-12-30 | 教育
高等学校では,
日本人教師が英語で授業をするということになるそうだが,
その前提として考慮されなければならないことがある。

日本人教師が日本人生徒に英語で会話をするとすると,
通常の場合,つまり,教師に英米での生活経験が乏しい場合,
それは英米人の話す英語ではあり得ないということである。

もしも,英米人の英語をめざすとするならば,
そこに到底無理があることは誰の目にも明らかである。
めざすべきは,なんとか通じる程度の英語ということになる。

ということになると,
日本人教師が英語で話す授業を無理なく行うためには,
その前提として,日本人英語すなわちジャパニッシュが
確立されている必要があるのである。

英語を話すことが必要だという考え方の背景には,
英語が世界語であるという認識があると思う。
ところが,世界語としての英語とは
どのようなものかということについての
認識は薄い。
世界語として通用している英語は,
その国の人の英語なのである。
インド人の英語,中国人の英語,フランス人の英語,などなど,
その国の人ならではの英語を堂々と使う。

我々がめざすべきは,
英米人の英語ではなく,
日本人英語の確立である。

日本人式の発音で日本語的な語の配列と語彙の使用で,
世界の英語話者とのコミュニケーションが可能なレベルを探って,
世界が認めるジャパニッシュを作り上げる必要がある。
英語の専門家にはぜひ考えていただきたいと思う。

世界語としての英語を学ぶということは,
日本人が英米人になろうとすることではなく,
日本人の話す英語を世界に認めさせることである。

英語話者に対して,
この人の話しているのは,
ジャパニッシュだな,そのつもりで聞こうと
思わせなければいけないのである。

たとえ,それが英米人の話す英語とは
似て非なるものであっても,
コミュニケーションツールとして機能すれば
それで十分なのである。

日本人教師が英語で授業をするのならば,
英語の捉え方を変えるべきだと思うが
いかがだろうか。



違和感?

2008-12-29 | 教育
最近ブログ上でよく目にする言葉に
「違和感」という言葉がある。

他人の記事や主張に対するコメントなどで
よく使われているようである。

しかしながらよく考えてみると,
他人の意見は自分の意見ではないのであるから,
多かれ少なかれ違和感を覚えるのはあたりまえのことである。
その段階では,他人の意見に対してあれこれ言うべきではない。
違和感を覚えたことを表明することには,
なんの価値もないばかりか,
相手に対して失礼でさえある。

違和感を覚えて,
その後,よく考えて自分の意見を構築してはじめて,
つまり,「異議」を唱える準備ができてはじめて,
表明する価値があるのである。

学校における話し合いでもこのことには
十分注意する必要がある。

他人の意見に対して,
「なんか違う」とか
「なんだかわからないけどおかしい」とかいう発言を
決して容認すべきではない。
その段階では発言すべきではないことを
きちんと教えなければならない。
それが,民主社会のマナーである。

他人の意見に対して,自分の意見をしっかりまとめてから
「これこれこういう点であなたの意見に反論します。
 その理由はかくかくしかじか」という形の
異議となってはじめて,
表明する価値があるのである。

安易に「違和感」を表明してしまう社会には,
危惧を覚えている。

英語の授業は英語で??

2008-12-23 | 教育
高等学校の学習指導要領案が発表されたが,
なかでも,外国語に関する内容が話題を呼んでいる。

英語の授業は英語で行うことを基本とするというのである。
生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,
授業を実際のコミュニケーション場面とすることが目的のようである。

学習指導要領を作っている人というのは,
どういう思考の構造をしているのか,
理解に苦しむ。

実際のコミュニケーション場面で,
日本人同士が英語で話すことなどあるはずがないのである。

日本人の英語教師がいくら英語で授業をしたとしても
(もしそれが可能であったとして),
それは,外国語コミュニケーションとは似て非なるものである。

少なくとも,
今回の英語の授業を英語で行うということが
本当に実効あるものにするためには,
英語教師は,
英語のネイティブスピーカーに限るとでもせねばなるまい。

たかだか中高あわせて3000語の単語で,
意味のあるコミュニケーションを行なわせるというのであれば,
それこそネイティブスピーカーの実力ある教師でなければ
どだい無理な話であろう。

このようになにやら不確かな
コミュニカティブイングリッシュ一辺倒への転換では,
英語の力はますます落ちていくであろう。

日本人教師が英語を教えている意味を
もう一度考え直してみるべきであろう。

幼児期から英語に触れていない者が,
英語を日本語に直す,日本語を英語に直すという訓練以外に,
いったいどのような方法で英語を理解できるようになるというのか。

欧米人であっても,自国語と外国語の間で,
同じように翻訳の訓練をするのである。

ましてや,言語体系の全く異なる日本語話者にとっては,
英語を本当に理解するためには,日本語と英語の言語体系を
相対的に把握できる力を身につける以外にないのである。

もちろん,コミュニケーション英語というものの目的が,
たまの海外旅行でちょっと使える程度とか,
挨拶できる程度でよいというのであれば,
話は別であるが。

もっとも,そもそもそれならば,
とりたてて高等学校の教科として教えるまでもないであろう。






素質と教育

2008-12-18 | 教育
素質と教育の問題は,古代ギリシアの昔から
議論し続けられてきた問題である。

人為にすぎない教育が,自然がその人に与えた素質を
果たして超えることができるのかという問題である。

素質があっても教育がなければ,
その素質が花開かないばかりか,
その素質ゆえの害毒が,
素質のない場合に比べて
大きくなる可能性もある。

素質がなくても教育があれば,
そして,その人がひたすらに努力を重ねれば,
素質のある者が努力した場合にはかなわないとしても,
その人自身としてみれば,着実に進歩を遂げる。

自然を人為が超えることができるかどうかについては,
さまざまな見解があるにしても,
少なくとも,
教育が万能であるということはなさそうである。

つまり,
「誰にでも無限の可能性がある」,
「全ての子どもに高い学力を」というようなことを
何の留保条件もつけずに言うことは,
単なるスローガンに過ぎず,
何ら実質的な意味はないのである。
その意味で,
このようなことを教育関係者が言うことは,
はなはだ無責任だと言わざるを得ない。

学校教育の限界

2008-12-18 | 教育
そろそろ学校教育の限界はどこまでかということを
真剣に検討したほうがよいように思われる。

学校でできることだと思われていることのうち,
いったい本当に学校でできることは何なのか,
学校ごとに真剣に考えるべきである。

そして,できないことはできないとはっきり言った方がよい。

さまざまな教育の理想を,
学校現場で働いたことのない人々が提案し,
そのことそのものが非の打ちどころのない「よい」提案であると,
学校教育に取り入れようということになる。

学校現場が難色を示すと,
なぜ「よい」提案なのに受け入れないのか,
やはり学校現場は硬直化していると批判を受ける。

たまに,さまざまな思惑があってか,
そのような提案に飛びつきたがる学校もあるものだから,
一層ややこしい状況になる。

学校は,子どもの成長のなかで
特に,極めて限定された「学習」という手法を用いて
教育を行なう機関である。

どのような素質をもつ子どもも一緒にして,
最低限だれでもこれだけはという「学習」内容を
教育しているのである。

あれもこれもと「よい」教育を開拓しているうちに,
学校本来の土台がぐらついてきていることを
痛感している学校教師も多いのではないか。

学校教育の危機は,
実は教育改革によって作り出されていることを
腹立たしく思っている学校教師も多いのではないか。

いったい誰がこの国の教育に責任をもっているのか,
それが見えてこないのである。

記憶力を鍛えよ

2008-12-13 | 教育
子どもの能力のなかで,
たいへん優れているもののひとつに
記憶力がある。

このことはそのまま,
記憶力がその時期の子どもにとって
大切なものであることを示している。

すなわち,記憶力が優れている時期に
記憶力を鍛えるべきなのである。

その意味では,
義務教育段階で最も重視すべきことは,
記憶させることであることは明白である。

ただ,問題なのは,
何を記憶させるかということである。

記憶させるべきは,単語や理屈ではなく,フレーズである。

漢籍をそのまま読ませ,記憶させた昔の教育は,
理にかなっていたと言えよう。
古典のフレーズが,
頭のなかに入っており,
それが適切な時に,
いつも引き出される状態になっていれば,
それはそのまま「生きる力」,
それも「よく生きる」力になるのである。

洋の東西を問わず,
古典のフレーズを数多く記憶していることが,
教養のひとつの証であった。

そのことは,実は重要なことなのではないか。

現在の教育がふらふら安定しないのも,
このようなバックボーンの必要性が
共有されていないからではないか。

記憶力そのものと,何を記憶させるべきかということを
いま一度考え直してみるべきであろう。

ムーサイ(知的活動をつかさどる9人の女神,ミューズ)の母は,
ムネモーシュネー(記憶)なのである。

特色ある学校の特色のなさ

2008-12-11 | 教育
特色ある学校づくりと学校選択制が
リンクして語られることが多いが,
もしその両者を合わせて考えるとすると
次のようなことが起こる。

特色ある学校の特色は,
できるだけ多くの保護者に選ばれなければいけない
特色でなければならないということになる。

ということはすなわち,
保護者の希望の最大公約数に
特色のターゲットを絞らざるを得ない。

ということはすなわち,
特色ある学校をめざせばめざすほど,
その目指す特色は
どの学校も似たり寄ったりになっていくのである。

また,保護者に選択してもらうためには,
広報活動に時間とお金をかける必要がある。
教育活動よりも広報活動に手間をかけざるを得ないという
はなはだおかしな現象が生じてくる。
逆に言えば,広報活動に成功すれば,
教育の実質がどうであれ,
一時的には顧客を集めることができてしまうのである。

本当の特色というのは,
選ばれる選ばれないに関わらず,
この教育が生徒のためになるのだという信念に
基づいて築き上げられるべきもので,
その信念が受け入れられないならば,
学校を潔く閉じるという覚悟があってはじめて
特色を打ち出すことができるのである。

あまりにも,
「特色ある学校」などというフレーズを
安易に使いすぎてはいないだろうか。

特色ある学校づくりを目指して,
逆に実質を失っていく学校教育の現状を見るにつけ,
悲しく思うのである。

丸写しの大切さ

2008-12-03 | 教育
よく調べ学習などをやらせるときに,
「資料の丸写しはいけない」というが,
本当にそうだろうか。

学者の研究というのも,
まず,テーマにしたがって,
先行研究や文献を正確に写し取ることから始まるのではないか。
丸写しがいけないのではなく,
出典を明記しない引用や不正確な引用がいけないのである。
当然,それらを踏まえた独創性が問われるのであろうが,
正確に写し取る能力のない学者など,
学者とは言えないであろう。

子どもの調べ学習でも,重視すべきことは,
丸写しをさせないことではなくて,
正確に丸写しすることのできる力を育むことではないだろうか。
確かに,複写機で本をコピーしたり,
インターネットで調べたHPをプリントアウトしたりと
いうだけでは,正確に丸写しする力は育たない。
子どもには,資料をノートやカードに
写し取る手間はかけさせるべきであろう。

調べ学習には,正確な丸写しが必須のものであり,
その正確に丸写しされたものをきちんと自分で評価し,
分類し,比較して,自分の文章を作り上げていくというのが,
基本的に最も意味のある調べ学習であろう。