高等学校では,
日本人教師が英語で授業をするということになるそうだが,
その前提として考慮されなければならないことがある。
日本人教師が日本人生徒に英語で会話をするとすると,
通常の場合,つまり,教師に英米での生活経験が乏しい場合,
それは英米人の話す英語ではあり得ないということである。
もしも,英米人の英語をめざすとするならば,
そこに到底無理があることは誰の目にも明らかである。
めざすべきは,なんとか通じる程度の英語ということになる。
ということになると,
日本人教師が英語で話す授業を無理なく行うためには,
その前提として,日本人英語すなわちジャパニッシュが
確立されている必要があるのである。
英語を話すことが必要だという考え方の背景には,
英語が世界語であるという認識があると思う。
ところが,世界語としての英語とは
どのようなものかということについての
認識は薄い。
世界語として通用している英語は,
その国の人の英語なのである。
インド人の英語,中国人の英語,フランス人の英語,などなど,
その国の人ならではの英語を堂々と使う。
我々がめざすべきは,
英米人の英語ではなく,
日本人英語の確立である。
日本人式の発音で日本語的な語の配列と語彙の使用で,
世界の英語話者とのコミュニケーションが可能なレベルを探って,
世界が認めるジャパニッシュを作り上げる必要がある。
英語の専門家にはぜひ考えていただきたいと思う。
世界語としての英語を学ぶということは,
日本人が英米人になろうとすることではなく,
日本人の話す英語を世界に認めさせることである。
英語話者に対して,
この人の話しているのは,
ジャパニッシュだな,そのつもりで聞こうと
思わせなければいけないのである。
たとえ,それが英米人の話す英語とは
似て非なるものであっても,
コミュニケーションツールとして機能すれば
それで十分なのである。
日本人教師が英語で授業をするのならば,
英語の捉え方を変えるべきだと思うが
いかがだろうか。
日本人教師が英語で授業をするということになるそうだが,
その前提として考慮されなければならないことがある。
日本人教師が日本人生徒に英語で会話をするとすると,
通常の場合,つまり,教師に英米での生活経験が乏しい場合,
それは英米人の話す英語ではあり得ないということである。
もしも,英米人の英語をめざすとするならば,
そこに到底無理があることは誰の目にも明らかである。
めざすべきは,なんとか通じる程度の英語ということになる。
ということになると,
日本人教師が英語で話す授業を無理なく行うためには,
その前提として,日本人英語すなわちジャパニッシュが
確立されている必要があるのである。
英語を話すことが必要だという考え方の背景には,
英語が世界語であるという認識があると思う。
ところが,世界語としての英語とは
どのようなものかということについての
認識は薄い。
世界語として通用している英語は,
その国の人の英語なのである。
インド人の英語,中国人の英語,フランス人の英語,などなど,
その国の人ならではの英語を堂々と使う。
我々がめざすべきは,
英米人の英語ではなく,
日本人英語の確立である。
日本人式の発音で日本語的な語の配列と語彙の使用で,
世界の英語話者とのコミュニケーションが可能なレベルを探って,
世界が認めるジャパニッシュを作り上げる必要がある。
英語の専門家にはぜひ考えていただきたいと思う。
世界語としての英語を学ぶということは,
日本人が英米人になろうとすることではなく,
日本人の話す英語を世界に認めさせることである。
英語話者に対して,
この人の話しているのは,
ジャパニッシュだな,そのつもりで聞こうと
思わせなければいけないのである。
たとえ,それが英米人の話す英語とは
似て非なるものであっても,
コミュニケーションツールとして機能すれば
それで十分なのである。
日本人教師が英語で授業をするのならば,
英語の捉え方を変えるべきだと思うが
いかがだろうか。