学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

流行りの教育書を読むな

2022-12-05 | 教育

学校の先生方はとても素直でまじめな人が多いようで、教育書を書いて、マスコミなどで話題になる先生がいると、その実践がすばらしいものであるかのように思って感激し、真似しようとする。自分の学校に不満があったり、自分の実践に自信がなかったりすればなおさらである。

私も若い頃にはずいぶんそういうものを読んだ。しかし、今では全部捨てた。

若い先生方への助言だ。やめたほうがいい。時間の無駄だ。

他の学校でやらない突飛なことをやって理屈をつければ、マスコミは食いついてくる。それは一過性のものだ。話題性があればマスコミは儲かるのだから。後のことまで責任をもっているわけではなかろう。

それに、自分の実践を自分で書いて、客観的に書けるはずがない。だって、自分がよいと思ってやっていることなんだから。レトリックをロジックを駆使して、自分の実践を正当化するだろう。

教育現場に身を置いているならば、自分の目の前の子供や同僚から学ぶべきだ。自分の現場にしか正解はない。正解を求めて呻吟するしかない。そこで得られるものだけが本物だ。「己の立てるところを深く掘れ そこには必ず泉あらむ」と高山樗牛もニーチェの言葉を引いて言っているではないか。

次々に出版される価値の定まらない流行の教育関係の本などを読むよりは、もっと幅広く古典的価値のある書物を読んで自らの人格を陶冶すべきだ。

教師自らの人格の陶冶なくして、教育の問題は解決できるはずがない。


学校における子供の主体性について

2022-12-04 | 教育

主体的に学ぶとはどういうことだろうか。

そもそも学校においては、学ぶ内容は決められている。それを学ぶ学習者は常に客体である。学ぶ内容に関しての主体性を学習者はもっていない。

正確に言えば、現在、教育の世界で言われている主体性とは、与えられた課題に対する積極性、というほどのことに過ぎず、これは言葉を変えれば、能動的受動性とでもいうべきものである。簡単に言えば、「主体的に学べ」ということは、いやいや従うのではなく、進んで従え、ということに過ぎない。

主体的な学びを学校が期待した段階ですでに、その学びは主体的ではないのである。

子供は学校でも社会での主体ではありえない。だからこそ、子供は将来、社会の主体になるために、保護者には子供を学校に通わせる義務が課せられ、子供は国の決めたプログラムに従って学ばされているのである。社会における主体性と学校における主体性は全く意味が異なる。文部科学省も教育学者もそのあたりのことについて混乱があるのではないか。

子供が学校において、「主体的」に学ぶなどという言葉遣いは、公教育の根本に対するまやかしとなりうるものであるがゆえに極めて危険なのである。