学校教育を考える

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アクティブラーニング再考

2015-02-16 | 教育
 大学の質的転換とやらからはじまって,主体的な学びだのアクティブラーニングだのという言葉がもてはやされて、とくに高等教育を始め中等教育の場にもその言葉が持ち込まれている。

 アクティブというからには、パッシブなラーニングがあるわけで、それが、高等教育で言えば、従来の講義ということになるわけである。従来の講義はパッシブで学生の主体性が発揮されないから、双方向型の授業にしましょうという動きから始まって、授業そのものをプロジェクト型のような学生が主体となって学びを構築するようなタイプの授業をしましょうという動きになってきている。というか、半ば強引に国が音頭をとってそっちの方向へ進めようとしているようである。

 私は、学習をアクティブとパッシブに分けること自体にあまり意味がないのではないかと思っている。もし、講義を聞く学び方をパッシブと規定するのなら、授業をさぼってアルバイトに精を出している者の方がよっぽどアクティブということになる。つまり、その授業が自分にとって意味がないと判断し、主体的にさぼって、自分にとってより意味のある実社会での経験を積んでいるということである。それをアクティブと呼べば、昔はずいぶんアクティブな学生が多かったということになる。いまこのような施策をすすめている政治家や官僚の皆さんもおそらくはこの意味で十分にアクティブであったろうと思われる。翻って現在すすめられているアクティブラーニングは実にパッシブである。大学が用意したプロジェクトに参加するという行動そのものがすでにパッシブである。そこで展開されるであろういわゆるアクティブな学修における体験は常に例外なく疑似的である。学生であるという特権と免罪符を手にしたままで行う体験は真の体験とはほど遠いものである。学校化された体験は,主体的でなどあり得ないのである。大学がいい年をした学生(すでに成人である)の体験まで手伝ってやらなければならないとは、なんとパッシブな時代になったのであろうか。

 いますすめられているアクティブラーニングには重大な問題がある。力のない学生自身が,主体性というものを誤認する可能性があるのである。つまり、学生自身が、「主体的」な体験学習を行った結果,自分は社会参加ができる人間だ、社会に貢献できる人間だと錯覚し、その結果、社会に対する謙虚さや恐れを失い、傲慢になってしまう可能性があるのである。やがてこれらの学生は,大学という組織が後ろ盾になってくれている学生の体験など実社会では何の役にも立たない疑似的なものだったということを身を持って知ることになるだろう。

 本当に学生に大学で「アクティブ」な「主体性」を身につけさせたいのなら、大学は「パッシブ」な講義に徹し、単位取得を厳格化し,おいそれとは卒業できないようにすればよいだけのことである。そうすれば、「アクティブ」な学生は早めに大学に幻滅し、自分の力で大学を飛び出して主体性を身につけるであろう。そして、それでも大学で学びたいという真にアクティブでかつパッシブな学生だけが大学に通うようになるであろう。まあ,そんなことをすれば,大学としては学生が減ってしまうので,絶対にやらないだろうが…。