学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

素人とプロのちょっとした違い

2005-10-28 | 教育
生徒が教師のほうを向いていないとき,
「前を向きましょう」などというのは素人である。

教室では,「おへそをこちらに向けて」と言い,
体育の時間などで,外で体育座りをしているようなときは,
「つま先をこちらに向けて」というのがプロである。

また,遠足などで,外で指示をいきわたらせたい場合,
生徒を立たせたままで,
大声でやみくもに叫んでいるのは素人である。

さっと生徒をその場にしゃがませるのがプロである。
しゃがませるだけで,生徒のおしゃべりは半減するし,
教師に注目させやすくなる。

生徒に話を聞かせたい場合,
生徒の私語が完全になくならないうちに話し出すのは素人である。

全く静粛になるまで待ってから話すのがプロである。
完全な静寂が訪れるまで,
いつまででも待つという気迫が生徒を静かにさせる。

かくのごとく,素人とプロの違いは
ほんのちょっとしたことの積み重ねなのである。


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むかしの先生のむかしの話

2005-10-24 | 教育
私の祖父は,
戦前から戦後にかけて小学校で教えた。
最後は校長であったが,
私が物心ついたときには,
すでに退職していた。

その祖父の若いころの大昔の話。

あるとき,家の玄関のほうから,
「たのもう」と声がする。

出ていってみると,
そこには,白髪のちょんまげを結った老人が立っていた。
もとは武士であったのであろう。
どことなく気品が感じられる。

若き日の祖父はとっさに,
「そこは端近。まずはこれへ」
と古式ゆかしく招き入れた。

その老人は,
祖父の応対に大層気をよくした。

聞くと,その老人は家々をまわり,
頼まれた言葉を揮毫して
糊口を凌いでいるという。

早速,紙と筆を取り出して,
「さて何と書きましょう」とその老人は問うた。

若き日の祖父は,しばらく考えた末,
紙の真ん中を指差し,
「そこに点を打て」と言った。

それを聞くや否や,
老人は目を大きく見開き,
「参りました」と言った。

その老人のいわく,
これまでいろいろな言葉を書いてきたが,
紙の真ん中に,ただひとつの点を打つことができるほどには,
修練を積んでいないと言うのである。

祖父は,ただなんとなく
そう言っただけなのだが,
大層その老人に感心され,
何か別の言葉はないか,
ぜひ書いて差し上げたいと言う。

そこで,祖父は,
「それなら,○○○○は男でござると書け」と言った。
(○○○○は祖父の名前)

その老人,
呵呵大笑し,
「これもまた初めてじゃ」と言いつつ,
気分よく書をしたため,
「今日はよい日じゃ」と言って,
帰っていった。

ただそれだけの話である。


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教師は何のために働いているか

2005-10-23 | 教育
教員は,誰(何)のために働いているか。

大きく分けて,四つの類型に分けられる。


第一類型「自分のため」

自分の業績をあげることに中心的な興味があり,
子どもたちは,
その業績を裏付けるための証拠として存在する。
一見,子どもたちのために一生懸命であるように見えるが,
子どもは,自分の業績をあげるための道具に過ぎない。


第二類型「学校のため」

自分の所属する学校の価値を高めることに
中心的な興味がある。
これは,学校の価値を高めることが自分の業績にもつながり,
自分の生活の安泰にもつながるので第一類型の亜種である。
これまた,
一見,子どもたちのために一生懸命であるように見えるが,
子どもは,学校の価値を高めるための道具に過ぎない。


第三類型「食うため」

とりあえず,給料がもらえていればよい。
なんとなく学校に来て,なんとなく授業をし,
なんとなく帰る。
不適格というわけでもないが,
適格という訳でもない。
子どもには無関心なので,
子どもにとっては居心地がいい。


第四類型「子どものため」

純粋に子どものために尽くしている。
自分の業績など考えたこともなく,
自分の地位の向上など考えたこともなく,
ただ子どもと過ごし,子どもの成長に喜びを見出す。
一種の世捨て人である。
子どものためなら時間を惜しまず黙々と働くが,
そのような働き方をアピールしないので,
誰からも評価されない。
十年後ぐらいに,「いい先生だったな」と
教え子にまれに思い出される存在。


学校教師の理想像は,
古来から第四類型であるが,
このタイプの教師が住みにくい学校をつくっているのが,
現在の教育改革だと思えてしかたがない。


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なつかしい先生 その3

2005-10-22 | なつかしい先生
さて,その大発明の先生だが,
そのクラスには,
いつも居眠りをしている男の子がいた。

律儀にも,
となりの子がその子を起こそうとしていると,
先生は,
「寝かしといてやりなさい。
 彼は,朝早くから新聞配達をしていて
 疲れているんだから。」
とおっしゃった。

彼の家は,豊かではなかったので,
彼が朝夕新聞配達をして
家計を助けていたのだ。

それ以来,
クラスメイトが,彼につきあって
一緒に新聞配達をする姿が
みられるようになった。


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なつかしい先生 その2

2005-10-21 | なつかしい先生
さて,マーブルチョコレートの先生だが,
理科が得意で,
得体の知れない発明家でもあった。

いつも先生のポケットには,
マジックインキ(短くて太字のマジック)の
書けなくなったものを改造して作った
携帯用アルコールランプが入っているのだ。

ある日,その先生が,
クラスのみんなを集めて
大発明を見せると言い出した。

先生は,古ぼけた手回し蓄音機を取り出し,
回転盤の真ん中にビール瓶を置いた。
そして,くるくるビール瓶を回しながら,
例のアルコールランプの炎を
ビール瓶の中ほどの一定の場所にあてつづけるのだった。
(もしかしたら,ふいごを使っていたかもしれない)。

そして,しばらくして,
ビール瓶をバケツの水の中に入れると,
あ~ら,不思議。
ビール瓶が,先ほど炎をあてていた場所で,
きれいにふたつに割れるのだった。

先生は,自慢げに,
「この上のほうのは,漏斗に使えるし,
 下の方は,何かの入れ物にも花瓶にも使える。」
とおっしゃったのだった。

クラスのみんなは,
確かに一度は感心したものの
さして利用価値のない大発明であることに
うすうす気づいていた。

が,しかし,先生がとてもうれしそうなので,
みんなもとてもうれしそうだった。


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なつかしい先生

2005-10-21 | なつかしい先生
小学校5・6年生のときの担任の先生は,
理科が得意で,
よくいろいろなユニークな実験などを
やってみせてくれた。

それはともかく,ある日の終わりの会のときである。
先生がにこにこして教室に入ってきて,
「今日,ボーナスがでたんだ」といって,
みんなにマーブルチョコレートを
確か5粒ぐらいずつ配ってくれた。

先生に無事ボーナスが出たことを
みんなはともに喜びつつ,
マーブルチョコレートを食べた。

そして,はやく次のボーナスが出ないかなと
心待ちにしたのだった。


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手紙と折形と心の教育

2005-10-19 | 教育
手紙の書き方,それも「拝啓」で始まり,
「敬具」で終わるような改まった手紙の書き方を
きちんと学校で学び,
とくに何も参照しないで,
この種の手紙をすらすら書けるという人は
どのくらいいるだろうか。

あるいは,日本の伝統的な折形(おりがた),
すなわち贈り物を和紙で包むときの紙の折り方や
儀式的に飾る紙の折り方を
学校で学んだ人はいるだろうか。

これらが,きちんと学校で教えられたのは,
はるか遠い昔のことである。

相手のことを思いやり,
相手の立場に立って
失礼のないように振舞うための礼法の精神が,
このような書簡文や折形の形式のなかには
あると思うのだが,
「心の教育」が強調される現在の状況のなかでも
これらを見直そうという動きは
あまりなさそうである。

また,時代遅れのたわごとであろうか。


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主語と述語と思考力

2005-10-17 | 教育
最近の生徒の作文でめだつのが,
主述のれじれた文である。
主語と述語が対応していないのである。

これを改善するために,
教科書の文章を読ませ,
各文の,述語に対する主語を指摘させてみたことがある。
高校1年生でも壊滅的であった。

そもそも主語とは何かということが
わかっていないのである。

このことの原因として,ふたつのことを指摘したい。

ひとつは,
国語の専門的な知見から
日本語には主語がないのだとか,
主語を明らかにしないのが日本語の特徴だとかいったことを
中等教育段階から強調しすぎることである。

日本語に西欧語と同じような主語はないというのは,
そのとおりかもしれないが,
述語に対して,その述語の表す意味内容の主体は
必ず存在するのであって,
それだからこそ,古文の主語のない文を読ませて,
「これは誰の行為か」ということを
いちいち指摘させるのである。

述語に対して,
その主体となる主語を指摘することができなければ,
文の意味自体を正確に把握することができないのである。


もうひとつは,
英語教育の変質である。

コミュニケーション重視の英語教育に移行する前は,
主語と動詞が文の核であることを
しつこく教えたものである。

いわゆる五文型がそれである。
五文型までいかなくとも,
せめて,SとVの関係を正確に把握させることは,
日本語においても主語を意識させるよい契機となっていたのである。


ともあれ,主語と述語もあやふやな高校生に,
「考える力」や論理的思考力を求めるのは,
どだい無理な話である。

せめて義務教育を終了するまでには,
「だれが,なにを,どうした」ぐらいは
いつでもきちんと話す習慣をつけさせたいものである。

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教育改革の危うさ

2005-10-16 | 教育
学校の文化や伝統は,
長い時間をかけて,
醸し出されてきたものであって,
誰かが何かをしたから
作ることができるというものではない。

ところが,
学校の文化や伝統を
突き崩すことは容易である。
誰かの思い付き的な改革によって,
いとも簡単に崩れ去るのである。

このような点からみて
現今の教育改革と称される諸政策は,
総体的にみて,
危ういもののように思われる。

歴史の重みを顧慮しない教育改革,
自ら歴史の審判に耐えねばならぬということを
真摯に考えていないような教育改革は,
危険である。

学校現場に必要なのは,
学校を構成する者の持続的な改善への意識であって,
ドラスティックな改革ではない。

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やよ励めよ

2005-10-15 | 教育
「刻苦勉励」

「蛍雪の功」

かつて学校がもっていた価値観をあらわしている。

その功罪はあるにせよ,
かつては勉強することを価値付けていた
このような言葉を,
今の教室で口に出して言ってみると,
空々しく響いてしまう。

勉強するということが
すなわち人格の陶冶であると
信じられていた時代の勉強の意味の豊かさが
今の教室には失われていることは,
少なくとも事実のようだ。

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黒板とチョークと教師の力量

2005-10-12 | 教育
新しい教育機器がどんどん開発されて便利になり,
オーディオ・ビジュアルに頼った授業も増えてきた。
また,パソコンとプロジェクターを駆使した授業も
見られるようになってきた。
黒板とチョークは時代遅れの部類に入ってきたようにも思える。

便利な機器を使いこなすことは,
それはそれで結構なことだろうけれども,
それらを使うことで,
教師としての授業の力量が高まったわけではないことは
自覚しておくべきであろう。

教師の授業の力量は,
黒板とチョークだけで,
どこまでやれるかにかかっているのではないか。

かつての先輩教師は,
フリーハンドで,正確な円や正方形を描き,
世界地図や日本地図,その他さまざまな地方の地図を
瞬く間に描いた。

それだけではない。
時間と空間の枠を飛び越えて,
目の前にないものを,
あたかも目の前にあるかのように
語り来たり,語り去り,
聞く者に人類の叡智や文化の輝きの片鱗を垣間見させてくれた。

果たして,今の自分にどれだけの力があるのだろうか。
黒板とチョークだけでどこまでやれるか。
一度,教師は問い直してみるべきであろう。

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学校教育今昔 その10:勉強するのは誰のため?編

2005-10-11 | 学校教育今昔
子どもが先生に聞きました。
「勉強するのは誰のため?」

昔 それは自分のためである。
  自分のためといっても,自分だけのためではない。
  身を立て名を上げ,世のため人のために尽くす人となりなさい。

今 それは自分のためです。よい大学に入って,
  あなたの夢をかなえて,お金を貯めて,お金を上手に運用して,
  幸せな暮らしをするためです。
  それが学校や先生のためにもなるんです。


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学校教育今昔 その9:教育は誰のため?編

2005-10-10 | 学校教育今昔
学校教育は,誰のため?

昔 もちろん生徒のためである。
  力のある者はある者なりに,力のない者はないものなりに,
  その力を最大限に生かして,将来の生活を切り開いていけるようにすること,
  そして,教育によって各人の人格を陶冶することが何より大事である。
  とにかく生徒のために決まっているではないか。

今 建前上は,生徒のためであるが,その実態は,学校のためである。
  この学校なら,個々の生徒の夢を大切にし,
  だれでもその夢を実現できますよという宣伝が何より大事である。
  でも実際は,学力テストで学校の成績が他の学校よりあがることや,
  進学率を向上させることが何より大事である。
  それが無理なら,スポーツに力を入れて全国大会を狙う。
  とにかく,学校のイメージアップが大事。
  だって,どんどん競争はあおられるし,
  少子化で学校がつぶれちゃうと困るんだもん。


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学校教育今昔 その8:学校の施設編

2005-10-08 | 学校教育今昔
学校の施設をめぐる考え方の今と昔,

昔 古くて年輪を感じさせるもの,昔の人の思いがこもったものに価値がある。
  使い込んだ机,磨り減った階段,
  磨きこんだ床,年老いた樹木など。

今 とにかく,人が使ったことのないほど新しく便利そうなものに価値がある。
  最新型のパソコン,プロジェクター,
  校内無線LAN,AV教室,吹き抜けのロビーなど。
    

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教員の揺るぎない信頼を確立する???

2005-10-06 | 教育
平成17年7月の中央教育審議会義務教育特別部会審議経過報告のパンフレットをみた。

義務教育の質の向上のための戦略のひとつとして
「教師に対する揺るぎない信頼を確立する」というのがある。

そのために,教員養成の専門職大学院を設置したり,
教員免許更新制を導入したり,
民間人校長・教頭を登用したりすることなどなどが
考えられているようである。

しかし,はてな?と思わざるを得ない。

そもそも,今の世の中に
「揺るぎない信頼」の確立している職業があるだろうか。

かつては,「揺るぎない信頼」があったさまざまな職業も,
主として高度に発達したメディア等によって,
その信頼を揺るがす事象が,
ただちに明るみに出されるため,
「揺るぎない信頼」を失ってしまうのである。

個々の事象は,限定的・個別的なものであったとしても,
それが,その職業あるいはその職業に従事する者全体の信頼を揺るがすというのが
現代社会の特質である。
それゆえ,いまや「揺るぎない信頼」を受けている職業など皆無なのである。

他の職業と同じく,
教員の場合も,
信頼を失わせるような教員が
多少なりとも存在することもまた事実ではあるが,
むしろ,「揺るぎない信頼」が失われるのは,
「揺るぎない信頼」の存在を許さない現代社会の特質にこそ
その最大の原因がある。

このような現代社会の特質をふまえれば,
いかなる行政的な措置によっても,
「揺るぎない信頼」が回復することなどあり得ないことは
容易にわかるはずである。

ここまで考えてくると,
「揺るぎない信頼」を確立するためのさまざまな行政的措置,
それも,有効性が十分に分析評価されてもいない行政措置を
提言することによるメリットは,ただひとつしか見いだされない。

それは,行政サイドが免罪符を手にするためということのみである


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