学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

話す姿勢

2005-09-11 | 教育
学校の教室で,児童生徒が「話す」場面は,さまざまである。

先生にあてられて答える場合,
話し合いをする場合,
前に出て調べたことなどを発表する場合,
さまざまなスピーチをする場合などである。

そのようなときの話す姿勢,
視線はどうか,
表情はどうか,
声の大きさはどうか,
声のトーンはどうか,
話すスピードは適切か,
身振り手振りなどが活用できているか,
言葉遣いは適切かどうか,
「いつ,どこで,だれが,なにを,どうした」というような話の要素が意識されているか,

などなど,場に応じて考えることができているだろうか。

ディベートとか,プレゼンテーションとか,
コミュニケーション・スキルとかを
言い立てる前に,
もっと根本的な「話す」ことそのものの基本を今一度問い直したい。

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読む姿勢(音読)

2005-09-09 | 教育
「読む」ということについては,
最近ずいぶん関心がはらわれているが,
今日は,少し違った観点から
音読について考えてみたい。

音読については,
中学・高校と学年が進むにつれて,
だんだんと関心が払われなくなってくるように見える。
(最近では,「声に出して読みたい日本語」などのおかげで
 音読が見直されてきてはいるが。)

学校の教室において,
指名されて起立して読むというのは,
国語以外の教科でもかつては広く行われていたようだが,
現在はどうであろうか。

生徒たちは,
指名されたとき,きちんと返事をするよう指導されているだろうか。
起立したとき,椅子を机のなかに入れるよう指導されているだろうか。
机のどちら側に立つよう指導されているだろうか。
教科書をどのように持つのが適切か,
教科書と目との距離はどのぐらいが適切か,指導されているだろうか。
声の大きさはどの程度が適切か指導されているだろうか。
句点(。)のところでは,どの程度休むべきか,
読点(、)のところでは,どの程度休むのが適切か,
指導されているだろうか。

上手に読む以前に,あるいは内容が理解できたかどうか以前に,
読むときの最低限の作法というものがあり,
それはどの学年段階でも,
きちんと指導されるべきだと思うのだが,
いかがだろうか。

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聞く姿勢

2005-09-08 | 教育
「お話を聞くときは,相手の目を見て聞きましょう」

学校でよく使われるフレーズである。

聞き手として,
話し手に意識を集中するためには,
話し手を見ることが一番有効だからである。
また,聞く側の礼儀としても,話し手に注目すべきだからである。

学校の教室における授業で,
果たして,児童生徒は,教師の目を見て授業を聞いているであろうか。
これまた,「書く姿勢」と同様,
中等教育においては,
あまり注意が払われなくなってきている事柄なのである。

授業は,昨日も書いたように,
「聞く」「話す」「書く」「読む」という作業が
複合的に行われている場であるから,
学年が進めば進むほど,
「書きながら聞く」場面や
「読みながら聞く」場面が増えてくる。

これが実は問題である。

「書く」あるいは「読む」作業にとって
「見る」ことは必要不可欠なので,
話し手の目を見ながら聞くことはほぼ不可能になる。
したがって,聞いた内容が十分には頭に入ってこない。

しかしながら,
このことに教師が無自覚である場合,
生徒は適当に折り合いをつけて,
中途半端に聞いているわけである。
あるいは,聞いた内容が頭に入ってこないので,
聞く気がなくなり,やがては全く聞かなくなるのである。

少なくとも,中等教育段階までは,
「聞く」ことと「読む」あるいは「書く」ことは,
切り離して行わせないと
授業は成立しにくいのではないだろうか。

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書く姿勢

2005-09-07 | 教育
学校の教室で行われる授業は,
「聞く」,「話す」,「書く」,「読む」という活動から成り立っている。

それぞれの活動について,
学力的な観点からの議論はよく目にするが,
それ以前に,
それぞれの活動の前提となるオーソドックスな構えとか形・姿勢といったところは
とくに中等教育では案外見過ごされているような気がする。


たとえば,「書く」という活動については,

まず鉛筆をどう持つか,
鉛筆を持たないほうの手をどこに置くか,
ノートを机のどのあたりに置くべきか,
そのとき,教科書などはどこに置くべきか,
体の姿勢はどうするべきか,
目とノートの位置関係はどのくらいが適当か,

などの基本的な姿勢が整っている必要があるのである。

これらのことは,小学校の低学年のうちに
正しい姿勢を教えられているはずであるのだが,
中学校・高等学校とすすんでも,
正しい姿勢を維持している生徒は極めて少ない。
ここ数年,特に崩れが目立つようになってきた。

学年がすすむにつれて,
筆記用具が鉛筆からシャープペンシルやボールペンなどへと
変化していくことにも関係しているのかもしれないが,
正しい姿勢が看過されていることはほぼ間違いない。

高校生あたりに,
自分で削った鉛筆をもってこさせて,
姿勢を正させ,気持ちを落ち着けて,
丁寧にノートに筆写させるようにすれば,
少しは教室に落ち着きがもどってくるかもしれない。
それとも,もう手遅れだろうか。

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小学校で習ったはず

2005-09-07 | 教育
「みんな仲良くしましょう」

「お友だちのよいところを見つけましょう」

「困っている人がいたら助け合いましょう」

小学校で習ったではないか。

なぜ,大人の世界でこれができないのか。

自分のことは棚に上げて,
「あいつは使えない」だの
「あいつのために苦労させられる」だの
「あいつは不適格だ」だのと,
他人のことを貶めている人間が
いちばん使えない。

そろそろ気づくべきではないか。

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本物はどこへ行った?

2005-09-05 | 教育
最近,ふとしたことから文房具店で,
子供用の書道用具セットを手にとってみる機会があった。

何かおかしい。あれ・・・?

硯が軽すぎるのである。

よ~くみると,なんとプラスチック製である。
でも,墨はついているのだから,この硯で墨をするのであろうか??

ちょっと驚いて,今度は筆を確かめてみる。

これまた,よ~く見ると,これまたプラスチック製である。
あたかも竹であるかのような色合いだが,竹ではない。

考えてみれば,子供たちのまわりには
いつのまにか,どんどん本物がなくなっている。

都会の学校では,
運動場は,本当は芝生ではないのに芝生のような緑色をした人工芝。

教室の机は,木製ではないのに木目調の机。

ほうきもプラスチック製だし,
食器も,陶器や漆器のふりをしたプラスチックだ。

これらの製品を作り出す技術力には敬意を払いたいが,
それでもやはり気になってしまう。

これらの製品は,驚くべきことに,必ず本物に似せてつくってある。
本物に似せているということは,本物ではないということだ。

子供たちは,本物を知らないまま大人になっていく,
それでいいのだろうか。

少なくとも,子供たちには,本物に触れさせてやるのが,
大人の務めではないだろうか。

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老教師

2005-09-04 | 教育
それは,何十年続けてきた習慣だろう。

子供たちが帰ったあと,
教室の机を整え,
黒板をもう一度きれいに拭きなおし,
掲示物を直し,
ごみがあれば拾い,
汚れがあれば拭く。

そして最後に,
教卓に立ち,
子供たちの机を見渡す。

学級の一人ひとりの顔を思い浮かべる。

昼間の喧騒の残響と共に
いままで何十年にもわたって
彼の教室を通り抜けていった
幾人もの子供たちの顔が
今の子供たちの顔に重なる。

一人ひとりが健やかに成長しますようにとの
ひたすらな祈り。

その祈りだけが彼を支えてきた。

彼の教室には,
子供たちがほっとする温かい雰囲気と
子供たちが居住まいを正す凛とした雰囲気が
ある。

この教室こそが,
彼の生涯なのである。

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学びあうということ

2005-09-03 | 教育
「だれとでも仲良くしよう」

「みんなで明るいクラスにしよう」

「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」

義務教育段階の学校において
いわゆる学級の目標として掲げられる価値観の多くは,
共同体的価値を追求している。

みんなが手を取り合って,幸せな社会を築いていきましょうという
一種の「共生」の理想が表現されているわけである。

学びの場面で,この理想を追求するとすれば,
「学びあい」ということになる。

当然,学級の成員には能力差があるわけだが,
その能力差があることは前提であるとしても,
能力がどうであるかにかかわらず,
みんな一緒に伸びていこうというのが,
「学びあい」である。

例えば,
理解できた者が理解できない者に教えるという学習場面を設ける方法であり,
あるいは,
誰もが解決できない問題に対して,
協力し,知恵を出し合って解決していくという学習場面を設ける方法である。

「学びあい」のためには,
多様な能力や考えの持ち主が混在していることが望ましく,
自分と他者との違いを意識し,認め合うことにこそその意味がある。

「学びあい」の発想は,
能力別クラス編成などの発想の対極にある。
能力別クラス編成は,ある特定の能力の差によって集団を分断することにつながり,
多様な能力や個性をもった集団のダイナミズムを減衰させてしまうおそれがある。

競争云々をいうよりも,
「共生」の価値をもっと見直したほうがよいのではないだろうか。

それが,我が国を根底で支えていた価値観のひとつであったのではなかろうか。

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できる子か,できない子か

2005-09-01 | 教育
学校では,いろんなことを教わる。

教わったことがすぐ理解できる子と
なかなか理解できない子がいる。

ひとつのことができる子が
もうひとつのことはできないこともある。

できることが多い子と
できないことが多い子がいる。

でも,
できる子がよくて,
できない子が悪いわけではない。

できる子もできない子も共に尊いのである。


学校の先生に質問してみるとしよう。

できる子をより伸ばすのが大事か,
できない子をあるところまで引き上げるのが大事か。
どちらか一方しかできないとすれば,
どちらを選びますか?

おそらく,多くの先生が
できない子を引き上げるほうを選ぶであろう。

少なくとも義務教育段階の学校では,
エリート育成や
いわゆる「人材」育成とは
異なる価値観で教育が営まれてきたのである。

学校選択制や特色ある学校づくりが,
義務教育段階の学校に適用されるときに,
感じる違和感の原因のひとつは
こんなところにもあるのではないだろうか。

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