学校教育を考える

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「わらぐつの中の神様」を考える

2010-11-03 | 教育
 光村の小学校5年の国語教科書に「わらぐつの中の神様」という物語がある。

 この作品に,さまざまな教材としての価値を見出そうとする指導案が見受けられるが,この作品は,きちんと読めば読むほど,おばあちゃんのノロケ話という以外の意味はないのではないかと思えてくる。

 そもそも,明日学校でスキーがあるといっているマサエに対して,スキーぐつが乾かないならわらぐつをはいていけというおばあちゃんの言葉は理不尽である。わらぐつではスキーはできない。せめて,スキーぐつをできるだけ乾かしてやろうとするのが肉親の情であろう。

 おばあちゃんが自分自身の昔のことを話しているにしては,自分についての描写が,第三者的さもなくば自画自賛的であることも不可思議である。

 また,大工さんの言う,不恰好なわらぐつを「いい仕事」という理屈も変である。なぜなら,「使う人の身になって,心をこめて作ったもの」が,「いい仕事」であるためには,不恰好であってはならないからである。もしも,技術的に未熟で,不恰好なものしかできないのであれば,「使う人の身」になれば,売るべきではない。

 当然,おみつさんのわらぐつは「わらまんじゅう」なのであって,「いい仕事」ではあり得ないのである。それを「いい仕事」と評価するのは,「もの」の価値以外の価値付けがなされたということなのである。若い半人前の職人が若い娘のつくった不恰好なものに「いい仕事」というからには,娘に同情かもしくは好意を寄せているゆえの理屈としか解釈できない。

 ともあれ,この物語に出てくる母親もマサエもおばあちゃんも三者三様に自己中心的である。マサエは,自分が濡らしたスキー靴をほったらかしにして,母親にそのケアを求めているし,母親は母親で,明日の学校のスキーに困るだろうから,娘のスキー靴を明日までに何とか手を尽くして乾かしてやろうとする配慮は見えない。果ては,おばあちゃんは,わらぐつをはいていけなどという理不尽なことを言って,自分のノロケ話である。しかも,このおばあちゃんは夫がせっかく買ってくれた高価な雪げたを履きもしないのである。「かざり物じゃないんだぞ」と言ったおじいちゃんの気持ちには思い及ばないのであろう。

 さて,ノロケ話であるがゆえに,マサエは機嫌よくその話を聞き終わり,マサエは,雪げたを手に取るのである。おばあちゃんが言うべきだったのは,せめて,「わらぐつはいていきない」ではなく,「その雪げたはいていきない」なのである(もちろん雪げたでもスキーはできないが)。

 教科書に載っている作品は優れた作品であるという前提で指導案を立案するのは,とても危ういことなのではないかと最近思っている。教師は,作品の価値をきちんと吟味すべきである。少なくとも,国語教育の研究者や教師は教科書作品を批判的に吟味して,教科書から不適切教材を除く努力をしなければならないのではないか。以前,「ちいちゃんのかげおくり」の教材としての不適切さを指摘したことがあるが,この作品もまた,扱いの難しい作品であるし,文学作品としての価値も疑問である。教えにくい作品は,教え方に問題があるのではなく,その作品に問題がある場合もある。教科書に載っている作品は,玉石混交である。教科書に載っているから教えなければならないという考えは,そろそろ捨てたほうがよさそうである。