学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

教師は世間知らず?

2005-08-29 | 教育
昔から「教師は世間知らず」と言われている。

この言葉のもつ響きは,かつては単純な揶揄であった。
学校という一種世俗から隔絶した世界に住む住人に対して
一般から寄せられていたある種の尊敬を裏返した形での揶揄であった。

だからといって,
「それじゃあ世間を知りましょう」という教師はいなかったのである。
なぜなら,
教職の専門性に対する自信と誇りを持ち続けることができたからである。

時代は変わり,
この言葉は,実効性をもって,
教育行政までも左右するようになった。
「学校の常識は世間の非常識」というような雑駁な言い回しが
公然と横行する昨今,
学校教育が今後さらに荒廃するであろうことは
教育現場の視座からはほぼ自明のことである。

単なる「揶揄」の言葉が「侮蔑」へと変わり,
教師自身が謙虚にも「世間知らず」であることを自認し,
自己反省するようになっている昨今,
やはりこの問題は真正面から捉えられなければならないであろう。

まず,「世間」という言葉に隠されているものは何であろうか。
この言葉は,
市場原理や競争原理という言葉に象徴されるような
資本主義的な価値体系を指している。
そして,資本主義的な価値体系は,
本来,経済原理として,
利潤追求という目的のもとでしか
意味を持たないはずのものである。

経済原理以外の価値基準が確立していた時代には,
この意味での「世間」は「俗世間」と称される。

また,最近流行の「民間」という言葉に隠されているものは何であろうか。
なぜ,「民間人校長」であって「市民校長」ではないのか。
「民間人」という,
あたかも,コミュニティー性を重視したような言葉に隠蔽されているものは,
実は,上記の「世間」と同様,経済原理である。

そして,「民間人」とは,
すなわち「市民」ではなく「企業人」なのである。
現在就任している「民間人校長」の多くは,
企業の管理職級の方々である(社長ではない)。

学校は,非営利組織である。

経済原理からみて非常識であっても,
幼い子供たちを育てる場において培われてきた
価値基準が厳然として存在するのである。
「俗世間」には存在しない価値基準もあるのである。

その価値基準がどんなものであるかについては,
また日を改めて。

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民間人校長・教頭の登用と教員免許更新制,矛盾しませんか?

2005-08-27 | 教育
世の中,よくわからないことが起こるものである。

一方で,教員免許更新制が検討されていると聞く。
これは,教員としての適格性を担保するためのものらしい。

他方,民間人校長や教頭の登用が拡大されそうである。
学校に民間活力を注入するそうである。

このままいけば,
10年ごとに講習を受けて教員免許を更新した優れた教師陣を管理するのが,
教職経験もなく,教員免許すら持たない
民間活力にあふれた校長や教頭ということになりそうである。

わが国は,
本気で,こんな学校をつくるつもりなのだろうか。

そもそも
教職とは,ある意味,経験職である。
教師の実力は,現場でこそ培われる。
教師は,現場で鍛えられるのが理想である。
そのためには,現場に優秀な先達が必要なのである。
その先輩のトップに立つ校長や教頭が素人では
話にならないではないか。

大工仕事のできない大工の棟梁や,
船に乗ったこともない船長を
だれが認めるというのであろうか。

怒りすら感じる今日この頃である。


関連記事

教員免許、更新制へ 適格性5項目、10年ごと講習受け (朝日新聞) - goo ニュース
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電子辞書は嫌いです

2005-08-25 | 教育
どうも電子辞書が気に食わない。
あまり生徒に使わせたくない。

辞書というものは(教科書でもそうだが),
手に入れたら,まず真ん中へんを開いて,
鼻を近づけ,思いっきり息を吸い込んで
においを嗅ぐべきものである。

紙とインクの独特のにおいこそ
学問の香りであり,学生時代の香りなのである。

「ノートとインクのにおい~」とは,
歌にも歌われているではないか。

それゆえ,
私は,4月当初必ず教科書や辞書のにおいを
生徒に嗅がせることにしている。
この香りなくして,授業開きはできないのである。

電子辞書には,この香りがない。

さらに紙の辞書は,使えば使うほど
手になじみ,汚れもまた,味わいとなる。
学生時代に使った辞書をとっておけば,
「あの頃はよく勉強したなあ」という感慨にふけることもできる。

電子辞書には,この味わいがない。
電子辞書は,ただただ古くなるだけである。

その他にも,
さまざまな理由があるが,
このような情緒的な部分で
私は電子辞書を嫌っているのである。

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考える力を育てるということ

2005-08-24 | 教育
「自ら学び,自ら考える力」を育てることは,
現行学習指導要領下では,重要な課題である。

「考える」ということは,いったいどういうことであろうか。
このことについて,
我が国では定見が得られているとは言い難いのではないか。

児童や生徒に考えさせる課題を与えて,
考えさせたことをもって,
「考える力を育成する授業」と称する授業が何と多いことか。

結局,いまの我が国の教育界では,
「考える」ということがどういうことかの分析なく,
ただ考えればそれでよいと思ってきたか,
あるいは,
そもそも考えるとはどういうことかを
考えたことすらなかったのではないかと
思われるような授業が紹介されることが多い。

「考える」ことに関する教育に系統性が見られないのである。

この点,欧米の教育はしたたかである。
小学校段階から,順を追って,
考えるとはどういうことかを
系統的に教えている。

これはおそらく西欧の古典古代からの伝統が
生きているからであろう。

我が国において,考え方の枠組みを支えていたものは,
おそらく漢文脈であろうが,
その素養の失われた現在の日本では,
考え方の枠組み自体が存在しないかのようである。

ともあれ,「考える」力とは,
時系列把握ができる,
空間認識ができる,
分類ができる,
比較ができる,
因果関係を捉えることができる
などのスキルの総体を言うはずである。

問題解決能力や意思決定能力についても,
その根底に考えるためのスキルが身についている必要がある。

このようなスキルを小学校段階から
系統的に鍛えていくことなしに
「考える力」を身につけさせることはできないのではないだろうか。

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学校経営と競争原理

2005-08-21 | 教育
政治の世界では,「官」か「民」かというような議論が盛んである。

これを学校教育の場にあてはめてみると,
「公」から「私」へということになる。

事実,
かつての歴史的な経緯から
私立学校に多くの生徒が流れるようになった東京都などでは,
都立学校の私立化とも思える改革が進みつつある。

学校教育における「公」から「私」への動きを支える理念は,
公立学校にも私立学校にみられるような競争原理を導入すべきだという議論であろう。

これは私立学校を民間企業と同一視したために起こった暴論である。

実際には,教育の世界では,私立学校といえども,
市場原理や競争原理とは長い間無縁であったのである。

もともと私立学校は,ある独特な教育理念を中心に形成されているために,
その教育理念を支持する少数の者によって支えられてきた。
その少数の者が,私立学校の経営を支える構造になっている。
当然,保護者の納める学納金だけでは経営できないので,
その教育理念に共感する少数の者の寄付によって経営を支えるというのが基本である。
(現在では,私立学校振興助成法によって,公費負担によるいわゆる補助金が
 私立学校の大きな財源になってはいるが。)
この経営基盤の大小によって,おのずから健全な経営規模というものが決まってくる。
したがって,学校の規模というものは,大きいからよいというものではなく,
小さいまま健全経営してきた私学も多い。

いわゆる競争原理から離れたところで私立学校が存在していたのである。
そもそも,世界的にみれば,
私立学校自体は,資本主義以前から存在しているのであるから,
競争原理自体が,私立学校経営の本質とは相容れないのである。

また,私立学校が,独自の教育理念を標榜していればいるほど,
その教育理念を支持する者が少数派となることは必然である。
もし,資本主義的な競争原理にしたがい,
生徒を多く集めることによって,経営を成り立たせようとするならば,
教育理念など標榜することはできなくなる。

なぜなら,生徒や保護者(消費者)のニーズは,時と共に移ろいやすく,
そのニーズによって,教育理念を絶えず変化させ続ける必要があるからである。
また,永続的に多数によって支持される教育理念などは,
教育理念としての存在価値がないからである。

学校教育の場に,
市場原理や競争原理を持ち込もうとする動きは,
そもそも根本において事実誤認からはじまっており,
この動きを推進すれば,
公立学校も私立学校も,
伝統や安定性を失い,
人間形成という意味での教育力を全く失うことになるであろう。

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「夢」ではなく「志」を

2005-08-19 | 教育
最近よく教育現場で聞くようになったフレーズ。

「夢をもちましょう」「夢に向かってかんばりましょう」

ちょっと待ってほしい。
教育の場でもたせようとするものが,
いつから「夢」になったのか。

古来,
「夢」で類推されるのは,
「盧生邯鄲の夢」,
すなわち,人間生涯の栄枯盛衰は,
これ一時の夢に過ぎぬとの古人の戒めである。
いつ忘れられたのであろうか。

古来,
教育の場で言われてきたことは,
「志を立てよ」「大志を抱け」である。
立志・尚志・志学・青雲の志などの言葉。
いつ忘れられたのであろうか。

いつのまにか
「志」は「夢」にすりかわり,
教育の価値は矮小化した。

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改革の気分の危うさ

2005-08-18 | 教育
政治にしても教育にしても,
世の中「改革」ばやりである。
いや,「改革の気分」ばやりである。

改革の気分とは,以下のような気分である。

現状のままではよくないから
「改革」するのである。

よって「改革」すれば,
よくなるはずなのである。
ゆえに,だれがなんといおうと,「改革」は善である。

よくなるはずの「改革」に反対する人は,
よくしようという気のない人である。
ゆえに,だれがなんといおうと,「改革」に反対することは悪である。

「改革」によってよくならなかったら
さらに「改革」をつづければ,
きっとよくなるにちがいないのである。

さらに行った「改革」でよくならなければ,
さらにさらに「改革」をつづければよいのである。
きっとよくなるにちがいないのである。

とにかく「改革」しつづけていれば
よくなるはずなのである。
きっときっとよくなるのである。
ぜったいよくなるのである。
よくなるのである!

ぜったい「改革」なのである。
「改革」したって,
よくならないなんていう人がいるから
「改革」がうまくいかないのである。

ぜ~んぶ,「改革」に反対する人がいるからいけないのである。
「改革」にみんな賛成すれば,
きっとよくなるのである。

未来はバラ色なのである。

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文字が正しく書けますか?

2005-08-17 | 教育
正しい筆順で,正しい文字が書けるだろうか?

この場合の「正しい筆順」あるいは「正しい文字」とは,
学校で習った筆順あるいは文字の形という意味である。

本来,筆順や文字の形にはある程度のバリエーションがあるが,
学校教育の場では,おおむね代表的なものをただひとつ教えているはずである。

学校で教えられる筆順や文字の形は,
文字を書く際の基礎基本として,
確実に身につけておくべきものである。

一点一画もおろそかにせず,
教えられたとおりに
文字を習うというのが,
文字を学ぶ際の基本姿勢である。

しかるに,この文字指導に
現代の教育の病理が端的に現れている。

筆順にバリエーションがあることを示して,
ただひとつの書き順しか教えないのはおかしいとか,
形さえとれれば書き順はどうでもよいとか,
文字の形について,
点の向きなどはどうでもよいとか,
はねてもはねなくてもよいだろうとかいう議論である。

議論は自由であるが,
子どもの前でそれを言うのは大人として失格である。

この議論の危険性は,
議論の当否はともかくも,
学校のもつ指導の規範性をゆるがすところにある。

筆順なり文字の形には
バリエーションがあることを認めつつ
ただひとつの型を教えているのが学校なのである。

そして,その型を受け入れることによって
基礎基本が身につくのである。

基礎基本の型が身についていない子どもに
変則の存在を教えては,
変則の存在が言い訳となり,
身につくものも身につかなくなるのである。

学校がこのような基礎基本の型を,
理屈抜きに教えることをためらうようになって久しいが,
その結果,
「飛」「必」の筆順を知らぬ高校生や
「シ」と「ツ」を混同する高校生や
「達」の横棒が一本足りない高校生を大量生産するのである。

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変わらないことの大切さ

2005-08-11 | 教育
教育には,
「不易」
つまり,変わらないこと,あるいは,変わってはいけないことと
「流行」
つまり,時代に応じて変えていけなければならないことがある。

この「不易」と「流行」のバランスが大切なのだが,
今の教育界は,「流行」のほうにばかり目がいっているようである。

新しい時代には,新しい教育が必要だというわけである。

しかし,少なくとも初等中等教育については,
時代を超えて変わらない「不易」のほうが本当は重要なのではないか。

我々の先人が作り上げてきた教育実践で,
確実に効果をあげていた教育実践の蓄積を
あだやおろそかにはしてはいけないと思う今日この頃である。

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教育に競争は必要か

2005-08-09 | 教育
教育に競争は必要かという議論について考えてみたい。

競争には,自分との競争と他人との競争がある。

まず,自分との競争について言えば,
過去の自分よりも今日の自分を,
今日の自分よりも明日の自分を,
進歩向上させることが,
教育を受けることの意味の一端であるとすれば,
自分との競争は,教育の本質を構成する。

次に,他人との競争について言えば,
(ふつう「競争」という場合には,こちらの意味で使われるわけだが)
こちらは,必ずしも教育の本質的な部分と関わるわけではない。
他人との競争がなくとも,教育は可能だからである。

ところが,学校教育においては,他人との競争は,
教育効果をあげるための最も簡便な動機付けの手段として用いられている。

なぜなら,「競争」に勝ちたいという気持ちは,
人間のかなりプリミティブな部分から出ている気持ちだからである。
その証拠に,例えば,クラス対抗の球技大会か何かにむけて盛り上がっている生徒に対して,,
クラス担任が,もし「別に勝つ必要ないじゃないか」などと言えば,
生徒から袋叩きにあうこと必至である。

ところが,学問とか教育とかいった分野では,
本質的には「別に勝つ必要ない」のである。
自らを高めるために学び続けることにのみ意味があるのである。

教育効果をあげるための簡便な手段にすぎない他人との競争が,
教育の目的と混同されるとき,学校教育の崩壊がはじまる。
いや,すでに始まっている。

必然的に他人との競争である受験とか入試,
そしてそのためにのみ存在する順位付けや偏差値,
あるいは競争結果である進学実績などを用いなければ
権威付けできなくなっている学校に
教育力などは存在しないのである。

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英語教育の成果

2005-08-08 | 教育
英語の使える日本人の育成をめざして,
さまざまなメソッドが喧伝されているが,
果たしてそれで本当に力がつくのだろうか。

特にわからないのは,いままでは読解や文法重視だったが,
これからは,コミュニケーション重視だという主張である。

読解や文法もできず,おまけに語彙力もないのに,
コミュニケーション能力は無理でしょう。

おまけに,
現在の日本の状況から言って,
いわゆるコミュニケーション能力,
すなわち「聞く」「話す」力が伸びにくいのは
ある程度やむを得ないことである。

なぜなら,現在の日本では,
英語を日常生活で使うことはほとんどないからである。
この現状は,
日本の国内で英語を使用しなければならない状況が生じない限り,
変わらないであろう。

もともと我が国で外国語を学ぶ意味というのは,
日本語とは別の言語体系がこの世の中に存在し,
日本語とは別の発想の体系があるということを
実感させることができればそれでよかったのではないか。

そいゆえ,実用のための英語には必ずしもならず,
一種の理想形としての英語が学ばれてきたのではないか。

実は,従来の英語教育は,大成功だったのである。

我が国の中等教育を受けた者には,
「理想」としての「英語」のイメージが染み付いているのである。

誰もが,
英語という言語の存在を知り,
それが日本語とは全く異なる言語であり,
よくわからないものであり,
ちんぷんかんぷんであり,
勉強すればするほどさらにわからなくなるものであり,
それを使いこなすことのできる人は,
無条件にすごい人であり,
「いつかしゃべれたらいいなあ」というような
漠然とした憧れか
あるいは複雑なコンプレックスを抱くようになったというのが
従来の英語教育のすごい成果なのである。

英語を何年も学んだのに,ちっともしゃべれないではないか,
だから,従来の英語教育はいかんのだという批判は,
ちと的外れである。

それをいうなら,しゃべれないだけではなく,
読めないし,書けないのである。

しかし,英語とはすごいものなのだということは
身にしみて知っているのである!!

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自己実現?

2005-08-07 | 教育
自己実現という言葉が,学校教育の世界でも使われるようになった。

自己実現のために勉強したり,学校が自己実現の手助けをしたりするわけである。

自己実現とは一体何のことであろうか。

自己実現をめざすということは,
現在の自己は,実現していない自己ということになり,
自己として,十分な状態ではないことになる。

また,自己実現を目指すという言葉が,
単に,夢をかなえるとか,なりたい自分になるとかいった意味で使われる場合,
必ずしも,その人の努力によって自己実現がはかられるとは限らないのが現実である。

そのため,自己実現をめざす教育とは,
一種の幻を追いかける教育になってしまう恐れがある。

教育は,現在の自己をより高めることを志向するが,
自己が実現されているかどうかは問わないのが本筋である。

なぜなら,自己が実現されるか否かというような問題の立て方は,
本来,学校教育にふさわしくないからである。

自らの現在の状況を受け入れる自足の境地を体得させることのほうが,
長い人生を生き抜く上で
大切な教訓であるからである。

「自己を高めるために日々努力する。
 しかし,その努力は報いられることも報いられないこともある。
 いずれの場合にも努力したことに満足すべきである。」
ということを教えるのが,学校教育である。

に<br>
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五十音図が書けますか?

2005-08-05 | 教育
基礎基本といえば,まず読み書きそろばんという話が出てくる。
これは,3R'sとも言われ,
どうやらどこでも,リテラシーの基本であるようである。

我が国の読み書きそろばんのなかでも基本中の基本であって,
結構今の高校生でもあやしいのが,
五十音図を正確に書くという作業である。

ひらがなとカタカナで五十音図を完成させる課題をやらせてみると,
正確に書ける生徒は驚くほど少ない。

ヤ行とワ行が特に難しい。

ぜひ,この課題を小中高校でやてみてほしい。
(高校生の場合は,「ゐ(ヰ)」や「ゑ(ヱ)」も含める)

これに,筆順の正確さなども加味すると,
結構さらに難しい。

「ヲ」の書き順など,教わっていない場合もあるのである。

基礎基本を言うのであれば,
このような根本のところの力をまず確かめる必要がある。

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基礎基本とは何か

2005-08-03 | 教育
基礎基本の重視ということが言われる。
学校教育における基礎基本を,
最も基礎的なところから考えてみたい。

学習における基礎基本以前に,
学校で教育を受けるにあたっての
基礎基本があるのではないか。

例えば,次のようなことである。

1 毎日学校に来る。
2 前の日に次の日の準備を終えておく。
3 忘れ物をしたときは,教師に申し出る。
4 遅刻をしない。
5 授業前に授業の準備を整えて,必要なものを机の上においておく。
6 授業時間前に着席し,静かに先生を待つ。
7 筆記用具やノートは,丁寧に最後まで使う。
8 字を書くときは姿勢を正し,丁寧に書く。
9 丁寧な言葉遣いで話す。
10 手は,まっすぐに挙げる。
11 授業中,おしゃべりをしたり,あそんだりしない。
12 先生の目を見て,授業を聞く。

などなど,思いつくままにならべてみたが,
このような学習以前の基礎基本は
おそらく小学校低学年ではきちんと指導されるはずなのに,
学年が進み,中学校・高等学校へと進むに従って
崩れてしまうのである。

これらの基礎基本が
おろそかになっている限り,
いくら教師が授業の工夫をしても
学習効果はあがらないのである。

いや,それ以前に,
これらは社会生活の基礎基本としてきちんと維持されるべきである。

また,これらの基礎基本を軽視し,
誤った児童中心主義から,
子どもの野放図な姿勢を放置することも
まま見られるが,
これが学校教育の根本を掘り崩してしまうのである。

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新しい学校像?

2005-08-02 | 教育
教育改革の成果として,ついにこの学校は誕生した。
生徒主体の個に応じた教育が,この学校の特徴である。

「いらっしゃいませ。今日は,どちらのコースになさいますか?」
「そうねえ。この前は,国語の論説文にしたから,今日は,数学にしようかな。」
「数学でございますね。それでは,教師は,この5人のなかからお選びいただけますでしょうか。」
「この人,イケメンだからいいわ。この人にする。」
「はい,かしこまりました。本日は,歴史もサービスしておりますが。」
「歴史は,いいわ。今日は数学だけ。」
「それでは,料金は,数学授業1科目で,1000円になります。
 なお,質問なさる場合には,質問チケットを別途購入していただきます。
 こちらのほうは,一枚200円となっております。
 さらに,個人授業をご希望の場合には,30分5000円となっております。」
「授業だけでいい。」
「かしこまりました。本日は,数学は15名様の予約が入っておりまして,
 10時に3番教室で開始となっております。
 それまで,サロンでごゆっくりおくつろぎください。
 なお,フリードリンクとなっておりますので,ご自由にどうぞ。」

授業終了後
「あのさあ,今日の教師ダメ。顔だけで教え方下手。ぜんぜんわからなかった。お金返して!」
「申し訳ございません。
 当学校では,クレームのあった教師は,即刻クビにすることになっております。
 ご安心ください。
 明日からは別の教師に変えますので,なにとぞご容赦ください。」
「ダメ! 今日の時間,無駄になった。どうにかして!」
「どうにかしてと言われましても…。わかりました。
 それでは,海外豪華夏季補習ツアー10日間のご招待券をさしあげます。
 こちらは,海外の名所旧跡をめぐりながら学力がつくという自慢のコースです。
 正規料金500000円のところ,タダでさしあげます。」
「しょうがないわ。もらってあげる。二度とあんな教師にあたらないようにしてね。じゃあ。」
「ありがとうございました。」

次の日,電話。
「もしもし,今日は疲れたから行かない。」
「それでは,お勉強が遅れてしまいますが…。」
「そうねえ。じゃあ,うちまで教えにきてよ。」
「はい,かしこまりました。別途出張料が,2000円かかりますが,よろしいでしょうか?」
「しょうがないわ。今日は,英語よろしく。」
「はい,かしこまりました。日本人とイギリス人のティームで伺わせますので。」
「じゃ,よろしく。遅れないようにね。」
「もちろんでございます。」……

かくして,この学校は,生徒のニーズに無限に答え続けるのであった。

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