学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

チーム学校の危うさ

2015-11-22 | 教育
「チーム学校」,また,変な用語が登場したものだ。

教員を中心に多様な専門性を持つスタッフを学校に配置して,学校の教育力・組織力を向上させるのだそうだ。教員は授業など子供への指導に一層専念できるそうだ。そのあたり,校長が適切にマネジメントするそうだ。実に結構なことである。しかし,よくもこんな危なっかしい提案がなされるものだ。

教員が何でもやっていたものを,いろいろな専門スタッフを配置して,教員の負担を減らすということは,もともと中小企業でアットホームにやっていた会社が,野放図な業務の多様化のためにたちゆかなくなり,大企業に転換しようとするようなものである。これが成功するためには,莫大な資金が必要であることは,中学生でもわかる理屈であろう。

そもそも,中小企業が,業務多様化でたちゆかなくなった場合,こんな転換をはかれるものであろうか? この転換がはかれるのは,その企業が,業務多様化の成果が上がって莫大な利潤をあげていて,企業規模を拡大する余裕がある場合に限られる。

いまの学校の現状は,逆である。仕事は増えたが,成果はあがらず,資金的な余裕もない状況である。株主たる国や自治体も大規模な資本を投入するつもりはなさそうだ。それどころか,専任教員数は減らそうとする意図が見え見えである。あたりまえである。少子化が進み,財政状況がはかばかしくない状況で,学校に対して,資金投入する余裕など,我が国にはないのである。

かくして,学校の問題の解決策は,「チーム学校」などではない。業務多様化でたちゆかなくなっている学校がやるべきことは,ただひとつ。業務そのものを減らすことである。そのためには,「学校ではやらない」ことを国が明確にすればよいだけである。例えば,「義務教育学校は,学習指導要領に定められた内容だけを授業するところであり,他のことはやらないところである」とでもしておけばよいのである。まずは,所定の勤務時間外は電話は「本日の業務は終了いたしました」というメッセージを流すだけにすればよい。研究開発指定も煩瑣な事務書類提出も地域連携も特色ある学校づくりも保護者対応も部活動もやらなければやらないですむのである。また,授業についても,宿題をしなさいと言って宿題をやらない子供,教師の指示の守れない子供に授業を聞かせる義理はない,そもそも授業を聞いて学力をつけるのは自己責任であるということにしておいて,到達度の低いものは義務教育であっても進級できないことにすればよいだけである。逆に言えば,出席日数が足りなくても到達度が高ければよいということにしておけばよい。学校が本来勉強するところであるとするならば,それでよいのである。質問しにくれば答えるが,こちらから補習に呼び出すなどという甘いことをする必要はない。

学校がさまざまなサービスを取り込んだまま,「チーム」化するのでは問題の解決にならない。
学校がさまざまなサービスを排除して,そのサービスが本当に社会的に必要ならば,社会にそのサービスを行う者があらわれるであろう。
めざすべきは,「チーム社会」である。

教員免許状更新講習制度の闇

2015-11-12 | 教育
教員免許状更新講習制度の闇に気づいてしまった。

教員免許状更新講習には,免除対象者というものがある。

校長(園長)、副校長(副園長)、教頭、主幹教諭または指導教諭
教育長、指導主事、社会教育主事、その他教育委員会において学校教育又は社会教育に関する指導等を行う者
免許状更新講習の講師 など

「教員を指導する立場にある者」は,更新講習の受講を免除されることになっている。

ところが,旧免許状所有者の場合,受講義務者以外は,免除申請ができない。

受講義務者というからには,現場で児童生徒の教育にあたっている現職教員のみを指すのであればわかるが,ちゃっかり,「教育長、指導主事、社会教育主事、その他教育委員会において学校教育又は社会教育に関する指導等を行う者」も入っているのである。この人たちは基本的には教育職員免許法にいう教育職員ではないので(教員籍を有したままの場合はその限りではないかもしれないが),教員免許状を必要としない職であろう。にもかかわらず,受講義務者なので,この人たちは免除申請可能である。受講義務者といっても,もともと更新講習を免除することになっているのであるから,受講義務者に入れていること自体,変である。

ところが,免許状更新講習の講師は,大部分が大学の先生方である。講習を行っている大学の先生方で,過去に幼小中高で教鞭をとられていた方で,現在は幼小中高の現場を離れているが,今後も現場で教える可能性のある方もいるだろう。その方たちは,受講対象者には入るが,受講義務者には該当しないので,免除申請ができないのである。つまり,もし,この先生方が,ご自身の免許状を使える状態にしておきたいと思ったら,更新講習の講師をやりつつ,同時期に更新講習を受けなければならないのである。

このように,教員免許状更新講習制度は,教育委員会関係者にとても有利に作られており,彼らは何もしなくても免除申請でき,更新講習の講師を通常業務プラスアルファでやっている大学の先生方は「教員を指導する立場にある者」ということになっていながら免除申請できないばかりか,免許更新しにくいという変な制度になっているのである。

どうしてこんな差をつけるのだろうか。
闇である。

「感動」「達成感」の陥穽:組体操問題を考える

2015-11-07 | 教育
高層化した人間ピラミッドや人間タワーの事故の問題が話題になっている。

この問題は,現代の学校の病理を端的に表しているように思う。「感動」や「達成感」といったものを,教育の目的であるかのように言うようになったのは一体いつのころからだろうか。私が教員を始めた30年前には,少なくとも「感動」や「達成感」を目的にして教育するなどということは考えもつかなかった。いかに教育内容を子供に伝えていくか,子供が理解できたり,課題を乗り越えたりできるかということを,知的,科学的,経験的見地から追求していくのが教師だと考えていた。いつの間にか,時代は変わってしまったようだ。しかも,「感動」は子供の感動だけでなく,運動会を見に来た保護者の感動のためでもあるという。ほとほとあきれかえる。見ている者の感動などを目的とするならば,それは運動会ではなく,サーカスか曲芸か猿回しである。
しかも,組体操を完成させて,教師まで感動するという。さらにあきれてしまう。子どものやったことなどに,プロの教師なら感動などしないのである。常に冷静に子どもを見ているのがプロの教師である。教師が感動してしまっては,子どもの事実が見えなくなってしまう。外科医ならば,手術の成功にいちいち感動などしないだろう。弁護士ならば,訴訟に勝ったことにいちいち感動などしないだろう。子どもの成功に感動している教師など,プロ意識に欠けるのである。

そもそも,「感動」や「達成感」は,子どものものである。そして,感動や達成感を感じるも感じないも,子どもの自由であり,教師がコントロールできるものではない。加えて,教師が自らの教育実践に,「感動」や「達成感」を感じているならば,だいたいにおいてその教育実践は失敗なのである。私は,若いころにその点で過ちを犯した。ある行事の終わった時に,私はとても達成感を感じたのである。しかし,傍らの子供を見ると達成感を感じている様子がない。よくよく考えてみると,私は,子どものやるべきことを自分でやってしまっていたのである。その反省を胸に次の年の行事を迎えた。私は,達成感を感じなかった。傍らの子供は達成感を感じていたようだ。子ども自身が考えて子ども自身が成し遂げたからである。教師が,もし達成感を感じたとしたら,その教育実践にはどこかに間違いがある。私は,そう自分に言い聞かせている。教師が達成感を感じるのは,子どものためにではなく,自分のためにその実践がなされた証拠だからである。